秀一は凛子に会えたことで、焦って無理に自分のことを思い出すことをやめた。


いくら身分証が手元に戻ってきたところで、それは情報を取り戻しただけで、思い出せたわけではない。


戻ってきた携帯には、知らない連絡先がたくさん入っていたし、充電して電源を入れた途端に未読のメールや着信が届いた。


遊びの誘いであったり、いなくなったと聞いて安否を確認してみたり。けれど、それもほんの少しの間のことだったようだ。


ただ、秀一にとって一番確認したかったのは、自分が凛子を愛していたかどうかだ。


その気持ちだけは、なんとなく自信がある。だら、いつか凛子が目覚めることを期待しているのと同じように、いつか全部思い出せるだろうと信じてみることにした。


だから、柚月に「携帯に家族の連絡先があるだろう」と言われても連絡するつもりもなかった。


故なら、家族から安否を尋ねるメールも留守電もひとつも見当たらなかったからだ。


きっと、無理に連絡を取っても悲しい思いをするだけだろうと思ったのだ。


そして、それを機に秀一は今度こそ柚月の家を出ると決めた。


柚月のことは愛しているし、大切な存在であることには違いない。それに、一生かかっても返しきれない恩がある。


あの時、柚月に拾われなければどうしていただろう。


あのまま、公園のベンチで雨に打たれて死んでいたかもしれない。


だから、柚月と離れるのは胸が引き裂かれるほど寂しい。


けれど、だからこそケジメはつけなければいけないと思う。


凛子の元へ戻ると決めたからには、いつまでも柚月とは一緒にいられない。


柚月にもそう伝えた。


仕方がない。


凛子と秀一の間に割って入ったのは自分なのだからと、柚月は言った。


なんなら、秀一がよくここまで一緒にいてくれたものだと柚月は言う。


何もわからないからと言って、その身の上と不安につけこんで忘れられない恋人の名前で呼び続けた。


本当の名前がわかっても、理解したようなふりをしてみては、やはりゴネてみたりして、散々困らせた。ごめん。


だから、この家に連れてきたのは自分だから、次の住む場所が見つかるまでここに居ていいと柚月は言った。


ただ、秀一にはひとつ心配なことがある。


それは、あれのことだ。


秀一がいなくなったら、あの黒いモヤはいなくなるのだろうか。


それとも、柚月には見えないだけでずっといるのだろうか。


もし、あれが凛子だとしたらいなくなるだろう。


けれど、そうではなかったら…


そんなある日のことだ。


凛子に会いに行き、帰りに買い物をして少し買いすぎた日用品の入った袋を両手に持って、もうすぐ家に着くという時だ。


柚月の部屋のベランダの外に、誰かがこっちを見て立っているのが見えた。


誰か…いや、誰なのかはすぐにわかった。


理仁はこちらを向いて棒立ちで、秀一が近づいてくるのを待っていた。


秀一が思わず、両手に持っていた荷物のバランスを崩してよろけたことに理仁は気づいて、こちらに一歩踏み出した。


大きな歩幅で、じっと秀一の顔を見据えたまま、秀一が戸惑っているうちに手の届く距離に彼は近づいた。


そして、秀一がよろけて落とした袋に手を伸ばして拾いあげ、薬指のない手を差し出す。その手は、指先が泥まみれになって、手首にはじんわりと血が滲んでいた。


きっと、また庭の土が掘り返されているはずだ。


「…なにがしたい?」


秀一がそう問いかけると、理仁は目を細めてニィッと笑い「僕の指を探してる」と呟いた。


その答えに、秀一の顔はきっと血の気を失っていただろう。


すると、その顔を見て理仁は堪えきれないような顔で吹き出して笑った。


さっきまでの、ニィッとした気味の悪い顔ではなく、まるでいきなり正気を取り戻したみたいに、柚月に見せてもらった写真と同じ、愛らしい顔をして笑った。


「ごめん、驚かせて」


「…え…」


「嘘だよ。僕はおかしくなんかない」


理仁はそう言って秀一に袋を返すと、パンパンと手の泥を払った。


「何がしたいんだよ…」


「怖がらせたくて」


「だからなんで」


理仁はキョロキョロと辺りを伺って「柚月は?いつ帰ってくる?」と聞いた。


「まだ…あと2時間くらいは…」


「そっか。ならいいや…ちょっと話せる?ここでいいから」


秀一は、まだ外が明るく人通りもあることから、理仁の言葉に頷いた。


「この前も聞いたけど、柚月とは?恋人同士?」


「…まぁ…でも…もうすぐ出ていくつもりで」


「なんで?別れるの?」理仁は人懐っこいその大きな目をさらに丸くした。


「いろいろ理由があって…」


「柚月は納得してるの?」


「一応」


「ふーん…じゃ、出来るだけ早く出て行くんだよ。そうじゃないと…」


「そうじゃないと?」


「僕みたいになるよ」


理仁は秀一に、指の欠けた手を広げて見せる。


「本当に狂ってるのは、あいつだから」


「……まさか……」


「僕の指を切り落としたのは柚月だよ」


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あの日、理仁は別れを告げに柚月の部屋に戻った。


大切なものを置きっぱなしだったこともあるし、なにより別れを告げずにいなくなるのは柚月が可哀想だと思った。いつまでも、理仁を待ち続けてはいけないと思ったからだ。


柚月を愛していたけれど、家族を捨てられなかった。


一時の感情で失いたくないのは、やはりずっと愛して育ててくれた家族だった。理仁にとっては。


自分の恋愛感を否定されたことは悲しかった。辛かった。


こんなに悩んだことはなかった。


でも今、愛する家族を捨てるより、これから時間をかけて自分をいつか理解してくれることを信じた。


俺より家族を選ぶのかと怒る柚月の気持ちもわかっている。


だから、すんなりいかないことも覚悟はして戻ってきた。


「考え直してくれよ…俺はお前がいないと生きてけない」


「…ごめんね。ほんとにごめん。僕だって…悩んだんだよ。わかってよ」


そんなやり取りを何回繰り返しただろう。


埒が明かないまま、理仁は自分の荷物を本当に必要なものだけまとめ終えて、部屋を出ることにした。


わかってもらえないのは、仕方がない。 


わかってもらうというよりは、これで終わりだと言うことを言っておきたかっただけだ。


最後に、そういえば前に洗面所に外したアクセサリーが置きっぱなしだったと気づいて柚月に聞くと、まだそのまま洗面台に置いてあると言う。


柚月と揃いで買った指輪だ。


掃除をする時に傷まないように外したきりだ。


思い出に、持って帰ろう。


そう思って洗面台の前に立ち、その指輪をはめた時だ。


背中、というか後頭部に衝撃が走って、理仁は洗面台に倒れ込んで顔面をぶつけた。


理仁の首と肩を後ろから掴んで、柚月は力の限り理仁を洗面台に何度も叩きつけた。


「やめて!痛いよ!」


暴力など振るわれたことはない。


それが、余計に怖かった。


それほどまでに柚月は追い詰められている。


殺されるのではないか。


顔を打ち付けられて、口の中は血の味がした。


理仁が抵抗する気力を失うと、柚月は理仁の指輪をした手を広げて洗面台に押し付けた。


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「柚月は、本当におかしくなってたんだ。…指輪ごと薬指を切り落としたら僕から手を離して、そのまま洗面所から出て部屋に戻って行った。僕は、必死で廊下まで這い出て逃げた」


「…まさか…」


「信じられないと思うなら、庭を掘り起こしてみるといいよ。…きっとそこに埋まってる。僕の指と指輪が。柚月は、いつもそうしてた。庭に迷い込んで来た鳥の死骸も、飼っていた金魚が死んだ時も…あの庭に埋めるんだ」


理仁はふふっと笑って「返せって言ったけど返さなくていいよ。あれは怖がらせようとしただけだから」と言った。


「あの日はたまたま、この近くに来て懐かしくなって。まだここにいるのかなってつい、フラッと…そしたら君がいたから」


「なんで怖がらせようと?」


「柚月に話すだろうと思って。そしたら…もしかしたら自分のやったこと白状するかなって。君を助けられるかなって思って。でもその様子だと何も聞いてないよね」


「…じゃあ……あの黒い…」


「…黒い? 」


「…いや、なんでもないです」


理仁はしばらく考えたあと「あぁ、あれね」と笑った。


「あれは…前からいるよ。柚月にくっついて。あれのせいで柚月がおかしいのか…それとも柚月がおかしいから生まれたものなのか……とにかく。そういうことだから気をつけてね。早く出て行った方がいいと思うよ」


部屋に戻った秀一は震えながら、買い物袋を広げて買ってきたものを片付けた。


洗面台の下の扉を開けて、洗剤のストックを片付けながら理仁の話を思い返して鳥肌が立つ。


彼の言うことを真に受けていいものかわからない。


どちらも、お互いを狂っていると言う。


柚月は理仁が自ら指を切ったと言い、理仁は柚月が切ったと言う。


あんなに、見ず知らずの人間にその名前をつけるほど愛していた相手にそんなことが出来るものだろうか。


その時、携帯の着信音が鳴り響いて、ビクッと秀一の肩が揺れた。


「秀一、ちょっと相談あるんだけど」


電話は、恵介だった。


思わずホッと胸を撫で下ろす。


「お前、住む所さがしてるんだよな。俺と一緒に住まない?」


「は?」


話を聞いてみれば、一緒に暮らしていた友人が海外赴任になってしまったと言う。しばらくはひとりで暮らしていたのだが、よくよく考えてみればふたりで払っていた家賃がすべてひとりで払わなければいけなくなり、困っているそうだ。


「恵介とかぁ…」


「なんだよ」


「女の子とか連れ込まない?やだよ?その度に追い出されるの」


秀一は電話をしながら、ふと思いつき窓を開けて庭に出た。


ひとりでいる時なら、怖くて確認できない。


恵介と馬鹿な話をしながら、半信半疑…いや八割がたは騙されている気持ちで、庭の土を掘った。


きっと、金魚にせよ鳥にせよ、埋めるとしたら誰にも踏まれない隅の方だ。


適当に、庭の隅に置いてある、草をひくためのスコップを持ってザクザクと土を掘り起こす。


何箇所か目に、小さく細い白い骨のようなものがあって、これは鳥だろうか…いや、考えてみれば一年以上も前に埋められた指など原型があるはずもない。


バカバカしい……


あの男は、柚月に未練があるのだ。


だから、フラッと柚月に会いに現れた。


なのに、部屋には新しい恋人がいて洗濯物を干しているのだから、妬いて脅かそうとしたのだ。


なのに、そんな脅しにまんまと引っかかって、庭の土など掘り起こしているその姿を、もしかしたらどこかから理仁に見られて笑われているのではと、ふふっと笑いがこみ上げて来た。


「でも、しばらくの間はそれもありかな。お互いに新しい部屋探しながら…」


カツン……


スコップを握る手に固いものに触れた感触があった。


「それがいい、そうしよう。じゃ、いつから来る?部屋散らかってっからそれまでに片付け…」


「…恵介」


「え?…大丈夫だよ?言うほど散らかってないからすぐ…」


「散らかっててもなんでもいい。出来るだけ早くしよう」


秀一は震える手で、スコップが掘り起こした泥の塊を掴んで払う。


ゴールドのふたつの指輪が、その震える手のひらで、陽の光を反射して光った。