「こんにちは」
その日は朝から気持ちの良い風が吹き、空は澄んでいた。
柚月が仕事に出ていくのを見送って、洗濯物を干しているとどこからともなく声がする。
「こんにちは」
秀一がキョロキョロとしているからだろう、もう一度声がした。
柚月の部屋は1階だが、道路より少しだけ高い位置にあり、庭に三枚ほどのコンクリートの板を繋げた塀が目隠しに立っていて、その間にはひとが覗けるくらいの隙間がある。
風通しをよくするためのものなのだが、普段から柚月は防犯的にはどうなのかと言っていた。
声がするのは、その隙間からだった。
けれど、その正体を見つけた時、秀一はビクッとして尻もちをつきそうなのを堪えた。
隙間から、人の目が見ていた。
人が見ていたというより、その目の持ち主はコンクリートの塀にぺったりと張り付いているのだろう。目だけがギョロっとこっちを見ていた。
一体、どれほどの間そうしていたのか考えると鳥肌が立つ。
「……なんですか」
声をかけると、その目は塀に張り付いたまま細くなり、笑ったように見えた。
そして、今度はその隙間から手が出てきてその塀を掴んだ。
その手の違和感に、秀一はすぐに気がついた。
薬指がないのだ。根元から。
秀一はジリジリと後ずさりして、いつでも部屋に戻れるようにした。
さっき、柚月が出ていってまだ玄関の鍵も閉めていないのだ。玄関に回り込まれてしまったら…と気持ちが焦る。
張り付いたままの目はぐるっと庭の中を見渡して洗濯物を見上げ「それ柚月のパジャマですよね」と言った。
「…誰ですか」
「僕、前にここに住んでました。…柚月の新しい恋人ですか?」
彼がそう言って、秀一が彼の正体にハッとした瞬間、その手はガっと伸びて、庭の土を掴んだ。その隙間は、腕が入るほどの幅はなく、手首でつっかえていたが、ただ必死にひたすら手の届くところの土を掻き続ける。
手首はコンクリートに擦られ、血が滲み始める。
「何してんの!やめろよ!」秀一が叫ぶように言うと一瞬、その手は土を掻きむしるのをやめて、また顔をぺったりとはりつけ、秀一に「だったら返せよ」と言った。
その充血した目に耐えきれず、秀一は部屋に戻り鍵をかけ、カーテンを閉めて、玄関に走っていって鍵とチェーンを閉めた。
そして、警察に通報した。
警察が到着するまでの間、ほんの短い時間だったが秀一は寝室に転がり込んで布団に潜り込んでいた。気を抜くと、あの土を掻きむしる音が聞こえるようだった。
部屋に警察が到着し、秀一は慎重にあたりを確認して玄関を開けて事情を説明した。
すると、二人の警官のうちひとりが外からベランダ側に回り込んで、もうひとりが部屋の中からベランダに出た。
すると、やはりそこには一部だけ土が掘り起こされていて、もうあの男の姿はなかった。
「前にもこういうことはありました?」
「僕は…ないです」
「おひとりですか?」
「いえ、同居人もいますけどそんな話は聞いたことないです」
「そうですか。怖いですね。知らない人なんですよね?」
「知らないです」
内心、秀一は気が気ではなかった。
自分で警察を呼んだものの、自分の身元を聞かれたりしないだろうか。
いざとなったら、柚月の免許証を差し出せばいいかと思ってみたり、冷や汗が流れたりしたが、警官にとっては、それが今の恐ろしい出来事に震えているように見えたようだ。
「一応、この周辺を見回っておきます。また何かあったらすぐにご連絡ください」
と警官は言い残して帰って行った。
秀一は言わなかった。
彼が本当の理仁であるだろうということも、彼が言った「返せ」という言葉も。
部屋の住人である柚月のもとにも警察から連絡があったようで、柚月は慌てて電話をかけて来た。
「大丈夫か」
「……うん。部屋に閉じこもってる」
「今日はもう外に出るなよ。早く帰るから」
「でも、柚月も気をつけて」
「わかったよ、大丈夫」
柚月との電話を切って、カーテンをほんの少し開けて外を覗いてみた。
あの男が引っ掻き続けた地面は、ほんの少し凹んでいた。
やはり、これは夢ではなく現実だ。
それにしても、なぜだ。
”理仁”は自ら別れを選んで出ていったと聞いているのに、どうしてこんな恨みがましい現れ方をしたのだろう。懐かしくて会いたかったのなら、正々堂々と会いに来ればいい。
どうして、あんな恐ろしい目をして睨んでいたのか。
いや、睨んでいた。
というより、観察していた。
血走った目で。
そして何を「返せ」と言うのか。
柚月は、想像よりも早く帰って来た。
帰ってくるなり、いつものように玄関に上着とかばんを取りに来た秀一を抱きしめて「怖かっただろ」と頭を撫でた。
「……まぁね。気持ち悪かった」
「何もされなくて良かった」
上着とかばんを玄関にかけて、靴下を洗濯機に放り込み、柚月はリビングのソファに脱力したように座り込んだ。
「ごめん。無理して早く帰ってきた?警察なんか呼んだから…」
「いや、それでいいよ。…それで警察はなんて?」
「とりあえずしばらくはその辺を見回ってくれてたよ。また夜にも回ってみるって」
「そうか」
「あの……」警察には、彼の正体も彼が残していったセリフも言わなかった。
「あれは…理仁だよ」
柚月も、大方の予想はしていたようで、たいして驚いた顔はしなかった。
「指がなかったか?」
「うん」
「…理仁は…別れる前、ちょっとおかしくなってたんだ。そうだな、強いて言うなら今の俺と同じ。別れなきゃいけないのはわかってるけど。悩んで悩んで。俺も、別れたくないって散々ごねて困らせたからさ…それで最後に……」
カーテンの隙間から、真っ暗な庭を眺めながら柚月は大きなため息をついた。
「あいつは、自分はここを出ていくけど、忘れないでいてくれと言ってここで自分の指を切り落としたんだ」
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「返せ」というのは、その切り落とした薬指のことなのだろうか。
ならば、自分で切り落としておいて返せとは本当に狂っている。
あの後、柚月が携帯に残っていた写真を見せてくれた。
秀一とは全く似ても似つかないが、着ている服装を見ると柚月がいつも秀一に似合うと言って選ぶものに似ている。
柚月に寄り添い、嬉しそうに笑うその顔からは、さっき隙間から垣間見た血走った目は想像出来ないが、目の下のホクロや瞳の色は一緒だ。
「理仁、何か食べに出ようか。…外に出るの怖かったら何か作るけど」
「行く」
「じゃ、出かけよう」
秀一の返事に、柚月はほっとした顔をした。
怖い思いをさせてしまった、なんとか和らげてやろうと思っているのだろう。
気分は、良くない。
ずっと、胸がムカムカと気持ちが悪い。
あの地面を引っ掻く手に浮かんだ血管が忘れられない。
「柚月がまだあの家に住んでるのバレちゃったけど大丈夫かな」
「気にするなって。理仁」
「やっぱ、ほんとの名前で呼んでよ。なんか嫌だよ怖い」
「わかった。…秀一は悪くないよ。逆に秀一が家にいてくれなかったら侵入されたりしてたかもね」
「怖いね」
少し歩いて、近くの大衆食堂で食事をすることにした。
どうしても、食が進まない秀一を心配そうに見つめて、それでもその気分をなんとか紛らわせようと柚月は一生懸命他愛ない話をした。秀一もそれに答えようと必死に笑顔を作ったが、やはりふいにため息が出る。
さっき、家を出る時にゆっくりと走るパトカーとすれ違った。
パトロールをしてくれるというのは本当だったようだ。
「食べられなかったら残したらいいよ」
柚月にそう言われて「ごめん」と箸を置いたその時、テーブルに置いた秀一の携帯が鳴った。
「先に出て電話しておいで。会計してくる」
秀一は言われたとおり先に店を出て、絵里香からの電話に出た。
「突然なんだけど、明日どう?空いてる?」
「明日…うん、空いてるよ」
「凛子に会いに行く?」
「…いいの?」
「いいよ。一緒に行ってあげる」
「……ありがとう」
「でもさぁ…あんたの今の彼氏。いいの?怒られないの?」
「わかんない」
「わかんないって…迅に頼んで言ってあげようか?」
「ううん。いいよ、大丈夫……大丈夫だから……」
それからのことは、覚えていない。
柚月に、名前を呼ばれた気もするし、抱きかかえられた気もするし、もしかしたらひとりでアスファルトの上に倒れたのかもしれない。
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「どう?まだ気分悪い?」
寝室の扉が細く開いて、真っ暗な部屋にリビングからの光が差した。影になって顔は見えなかったけれど、柚月が心配そうな声で語りかけた。
「大丈夫。ごめん」
その答えを聞いて、柚月は寝室に入ってきて秀一が寝ているベッドに座った。
「ごめんな。いろいろ積み重なっちゃったな。…せめて俺がもう少し理解してやるべきだった。俺までゴネてお前のこと困らせて…明日、会うんだろ?絵里香だっけ?あの子に聞いたよ」
「……うん」
「気にしないで行っておいで」
「でもさ…ちょっと怖いんだよね」
「…大丈夫だよ。帰って来たら、今度こそなんか美味いもの食べに行こう」
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柚月が仕事に出たあと、迅と絵里香が秀一を車で迎えに来た。
「ご両親にちゃんと事情は話してあるから。…まぁ、半信半疑なところはあったけど。だから、いきなり怒鳴られたり殴られたりすることはないと思うから大丈夫よ」
「怖いこと言わないでよ」
「でも、あっちもあなたに会いたがってた。凛子の事故は原因がよくわからないの。完全に単独事故。スピードを出しすぎていたみたいだけど、どうしてそんなにスピードを出していたのか…お酒を飲んでいたわけでもなかったから。あなたが原因を知っている…というか覚えてるわけはないんだけど」
迅を駐車場の車の中に置いて、絵里香について大きな病院の玄関でその建物を見上げて、秀一は足が震えた。
絵里香はその様子をしばらく眺めて待っていたけれど、痺れを切らせて秀一の腕を掴む。
「今日しかついて来ないから。行くよ」
コツコツと廊下に絵里香の足音が響き、秀一の腕をつかんだまま入院病棟の1番奥の突き当たりの部屋へと向かった。
部屋の前には、凛子の母親だろうか。
初老の…いや、もしかしたらそれほど年齢はいっていないのかもしれないが愛する娘が寝たきりの心労がそう見せるのか、思っていたよりも老けている。
その姿が見えると、絵里香は手を離した。
「こんにちは」
絵里香の呼びかけに凛子の母は笑顔で返し、そして肩越しに秀一の顔を確認した。
秀一は会釈をしたが彼女はそれには反応せず、部屋の引き戸を開けて絵里香と秀一を部屋の中に導いた。
窓際の日当たりの良いベッドの周りを覆うカーテンを少し開けて、凛子の母はふたりにそこで待つように言うと、一度カーテンの内側に姿を消してすぐに戻って来た。
そして、彼女は秀一に手に持っていたものを差し出す。
「これ、あなたので間違いないですね?」
それは、岡崎秀一の車の免許証だった。
「…覚えていないですけど…そうです…僕です」
秀一はその免許証を手に取って、まじまじとその写真を眺める。
やはり。
自分は岡崎秀一で間違いない。
それを突きつけられた瞬間だ。
写真だけではなく、生年月日も住所も、自分が知らない自分の情報がそこにはある。
まじまじと興味深く自分の免許証を見つめる秀一の姿に、凛子の母は
「本当に何も覚えてないんですね」
そう言った。
「すみません…ありがとうございます…やっとちゃんと自分が誰なのかわかりました」
「これは、凛子の部屋にありました。携帯も財布も」
「部屋に…」
「携帯も財布も持たないで、あなたはどこへ行っていたのかしらね」
「…わかりません」
「私が思っているのは…そうやっていなくなったあなたのことを探しに行ったんじゃないかと思います。あとこれ…」
凛子の母は一度、秀一の手から免許証を取って、代わりに一枚の写真を持たせた。
「これも部屋にありました。エコー写真です。凛子の赤ちゃんの。まだ豆粒みたいなものだけど…あなたには見せたのかしら」
「……すみません…覚えてないです…ごめんなさい……すみません」
そのやり取りを、絵里香は秀一の後ろから少し離れて見ていた。
酷なことをするものだと、やや秀一に同情した。
自分の覚えていないことでこうやって、じわじわと責められているのだ。
けれど、凛子の母の気持ちになってみればようやくなのだ。
ようやく、凛子がこんなふうになってしまった恨みつらみをぶつける相手が現れたのだ。
仕方のないことだろう。
そして、それを秀一も覚悟して来ているはずだ。
「それでも、凛子に会いたいですか?」
「会いたいです」
秀一がはっきりと答えると、凛子の母はまたカーテンを開いて秀一に目配せし、中に入るように促した。
震える足で、秀一はそのカーテンの内側に入っていく。
日当たりの良いベッドで、様々な機器につながれて眠っている高瀬凛子のは、痩せ細った顔をしていたものの意外にも血色も良く、揺さぶれば目を開けそうに見えた。
「ふたりきりでどうぞ」
凛子の母がベッドの脇に椅子を置いてそう言った。
「いいんですか?」
「私がいても仕方がないでしょう?話はあとでゆっくりしましょう」
そして、凛子の母はカーテンの外にいる絵里香に声をかけてふたりで部屋を出ていった。
改めて、秀一は椅子にを引きずり、凛子の顔がよく見えるところに座った。
呼びかけてみたいが、なんと呼んでいたんだろう。
凛子でいいのだろうか。
「…ごめん…僕のせいなんだね、きっと」
凛子の手を握ると、思っていたより温かい。
「思い出せなくてごめんね…」
もし、映画やドラマなら、秀一の呼びかけや手の温もりでヒロインは目覚めるのだろう。
けれど、これは現実だ。
彼女の手を握って、走馬灯のように記憶が蘇ることもない。
「起きてよ。僕に、なにがあったのか教えてよ…ちゃんと謝らせてよ」
ただ、ひとつだけ確実に感じた。
岡崎秀一は、高瀬凛子のことが好きだった。
きっと、まわりが思っているよりもずっと愛していた。
その手の温もりに、こんなにも涙が溢れてくるのは、そういうことなんだろう。
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いつまで、その手を握っていただろうか。
日は高くのぼり、凛子の母が様子を見に来るまでずっとそうしていた。
「ちょっといい?」
「あ、はい…すみません」
秀一は目をこすって立ち上がり、凛子の母について部屋を出た。
エレベーターホールの近くに、面会用のスペースがあり、絵里香はそこで缶コーヒーを買っていた。
「飲む?」
秀一にそう言って、答えを待たずにブラックの缶を差し出した。
「飲めないんだけど」
「ないわよそんな甘いの」
秀一は仕方なく、缶を開けてひと口飲んだが、やはり苦すぎて傍にあったテーブルに置いた。
「座って」
凛子の母と向き合って秀一が座り、少し離れて絵里香が見守った。
「とりあえず…あなたの大事なものは返しますね」
テーブルの上に、凛子の母は秀一の免許証や財布、携帯、通帳、はんこの類をまとめて置いた。
財布を開けてみると、たいした現金は入っていなかったが銀行のキャッシュカードやクレジットカード、保険証も入っていた。
「困ってたでしょ?保険証もないんじゃ」
「そうなんです。身分証がないと何も出来なくて」
「こういうものがないと困るだろうと思ってね。いつか現れるだろうと待ってたの。だから、これであなたがもう二度と来なくなったらそれまでだと思ってる」
「そんなわけないです」
「逃げたわけじゃないのよね?」
「…はっきりとは言えないですけど…違うと思います」
「でも、凛子が事故に遭う直前まで他の女の人と付き合ってたんでしょ?」
「そうみたいですけど…別れようとしてたって聞きました。わからないですけど…自分を庇うわけじゃないですけど、凛子さんの妊娠を知ったからじゃないでしょうか」
「じゃ、どうしていなくなったの?凛子があんなことになってるのに」
「僕も自分がどうして記憶をなくしたのかわからないんです。そこが一番わからなくて…気がついたら街の中を歩いてました。それで、疲れて公園で眠ろうとしてるところを助けてもらいました。絵里香が、僕に気づいてくれていなかったらきっと何も知りません」
「…そうなのね。何度も言うけど本当に記憶がないのね」
「すみません」
「…これからも、良かったら会いに来て」
「いいんですか」
「どうぞ。いつでも」
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そうやって、秀一は出来る限り凛子のもとに通うことにした。
病室に飾る花を持っていくこともあったし、凛子の母に手土産を持っていくこともあった。そんなもので、凛子の母の態度が好意的になるわけではなかったが、それでも秀一の持ってきたものは受け取ってくれた。
いつも、秀一が来ると凛子の母は席を外してふたりきりにした。
凛子の手の温かさは変わらなかったけれど、その顔は眉ひとつ動かそうとしない。
秀一が凛子に会いに来るようになっても、あの黒いモヤはいなくならなかった。
何日かに1回は、柚月の身体にまとわりついて秀一のほうを揺れながら伺う。
「なにか言いたいことがあるなら言ってよ」
それにも、凛子そのものにもそう語りかけるが、返事はない。