「騙したんだ、僕のこと」


ようやく、理仁が口を開いてくれた。  


ホテルのティールームは、もう人もまばらで、柚月が迎えに行った時には理仁は一番端の窓際に座っていた。テーブルの上のアイスコーヒーは手付かずで、水滴がしたたっていた。


柚月が隣に座っても、理仁は黙って外を流れていく車のライトを目で追っていた。


「ごめん」


「普通に言えばいいじゃん。騙して連れてこなくても」


「…悪かった」


「あっちがそう言ったんでしょ?僕が逃げないように」


「俺も知らなかった。詳しいことは」


「散々、言われたよ。あんたは最低なやつだって。女ったらしのクズだって」


「理仁…」


「理仁じゃない」


「でも…」


「本当の名前で呼んでよ」


「嫌だよ、そんなの」


「だろうね」


理仁。


いや、秀一はさっきからズキズキと痛むこめかみを抑えながら、笑って柚月に言った。


「柚月が愛してるのは僕自身じゃない。あくまで”理仁”を愛してるだけなんだから」


そして、秀一は立ち上がりテーブルの上の伝票を柚月に渡して「とりあえず帰ろっか。騙したお詫びに柚月の奢りね」と言い、足早にホテルの正面玄関に向かって歩き出した。


「理仁、待って」


「理仁じゃないってば。とりあえず外の空気吸いたい。先に出る」


柚月が支払いを済ませて外に出ると、歩道のガードレールに腰を下ろして秀一は待っていた。


柚月を見つけても立ち上がろうとしないので、柚月は秀一の傍に立って「大丈夫か。気分悪いのか」と聞いた。


「頭が痛い」


「そうか…じゃ、タクシー呼んで早く家に帰ろう」


柚月が呼んだタクシーに乗って家に帰るまでのほんの少しの間も、秀一のこめかみはずっと痛みを増していた。


そして、家にたどり着くなり秀一は上着だけを脱ぎ捨ててソファに寝転んだ。


「薬、飲むか」


「いい。もう起き上がりたくない」


柚月は秀一の寝転んでいるソファの足元に正座するように座って「悪かった。…そんな話になるとは思わなかったんだ。ただ、少しでもヒントになるかと思って」と言った。


「俺は…理仁にずっとここにいて欲しい。だから、本当は何も思い出さないで欲しい。そう思ってた。でも、それじゃ理仁のとめにならないと思ったから…だから…さっき聞いた話は全部なかったことにしないか」


「なかったこと?」


「そう…だから…」


「今まで通り、理仁でいてくれって?何も思い出さないでくれって?」


「…間違ってるのはわかってる」


「間違ってるよ」


「……そうだな」


「…そのうち、ここは出ていくよ。思い出せなくても自分が誰かはわかったんだ。さっきの子に、僕を知ってる友達の連絡先もいくつか聞いた。だから、連絡を取ってみようと思う」 


「出ていく?本気で?」


「うん」


「自分の生活のためにここに居ただけなのか?俺のことはなんとも思ってないのか」


「それはそっちだろ?…僕が何もわからないからって好きに他人の名前をつけて呼んで、勝手に身代わりにしただけだろ?利用したのは柚月のほうじゃないか。生活のためにって言うけど、僕から転がり込んだわけじゃない」


「……そうだけど。いいのか?それで。わかってるのか?自分が覚えていないことで周りからどんな風に思われて生きていくのか」


「覚えていなくても、確かに全部僕のしたことだよ。…人間の本質なんてそう変わらない。結局いつか、その本性は現れるんだよ」


「だったら…もう違う人間としてやり直せばいいじゃないか。思い出す必要なんかない。わかってるだろ?元に戻ったっていいことなんかない」


「思い出せなくても、わかってるのに知らないふりして生きていけって言うの?」


柚月には、言い返す言葉が見つからない。


そうだ。


人助けのふりをして、人助けだと自分でも思い込んで、結局は自分の欲のために秀一を連れて帰って、この家に閉じ込めていただけだ。


弱みにつけこんでいたんだ。


「ごめん、頭が痛いからこのまま寝たい」


「…わかった」


柚月は部屋の電気を消して、寝室へ逃げるように移動した。


着替えもせずにベッドに寝転んで天井を見つめているうちに、自然といつも秀一が寝ていた右側を空けていることに気づいて、思わず涙が滲んで、慌てて目を擦った。


悪いのは、自分だ。


まるで、猫や犬を拾ったかのように家に連れて帰り、勝手な名前をつけて呼んで、挙句の果てに今、本当の自分を捨てろと言っているのだ。


自分のために生きろと言っているのだ。


出ていかれても仕方ない。


自分の本当の人間性をつきつけられて、苦しんでいるのは秀一本人なのに、それを支えるどころがエゴを押し付けようとしているのだ。


でも


いくら考えても、手離したくない。


彼が、理仁でなく岡崎秀一だとしてもだ。


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「秀一?…お前、何してたんだよ」


電話の向こうの相手は、開口一番そう言った。


顔は見えないが、間抜けな顔をしているのがわかる素っ頓狂な声だ。


絵里香が言うには、この恵介という岡崎秀一の友人は比較的秀一に好意的だから安心して連絡していいと言う。


「あのさ…ちょっと会いたいんだけど」


「おぉ、いいよ。何処で会う?」


会話は緊張した。


なにしろ、自分がどんなイントネーションで、どんな話し方で、どんな語尾で話していたのか全くわからない。


一人称も、俺なのか僕なのか、そんなことすらわからないのだ。


「あ、あそこにしよう!いつもの」


「いつもの?どこ」


幸い、店名は聞き出せたので電話を切ってからその店の名前を検索する。


もちろん、直接会った時には記憶が無いことを説明しなければならないとは思う。けれど、とりあえず電話では信じてもらえるかどうかもわからないし、会う前にやたらとまわりに言いふらされても困る。


恵介が指定した店を調べて、思わず眉間にシワが寄った。


いわゆる、ガールズバーだ。


やはり、絵里香の言う通りなのだと納得する。


こんなところで、真面目な話が出来るとは思えないが仕方がない。


行きつけだと言うからには、そこに行けばきっと自分のことを知る人物がたくさんいるはずだ。 


心身ともに、今日は疲れきってはいるが目が冴えて眠れない。


頭はズキズキと相変わらず痛む。


やはり、薬を飲もう。眠れるかもしれない。


そう思ってゆっくりと起き上がり、薬箱をさぐって鎮痛剤を2錠、水なしで飲み込んだ。


そして、再びソファに座っていると、窓の外がにわかに騒がしくなった。


ザワザワと、風が吹いているようだ。


いつもの気配のようなものでは無い。


ちゃんと音がする。


でも、きっと同じものだという直感が秀一には働いた。


立ち上がり、秀一は震える手でカーテンをそっと開ける。


やはり、思った通りだ。


窓の外は真っ暗なのは当然なのだが、夜の暗闇よりももっと黒い、漆黒のもやが窓に張り付いている。

 

つまり


窓ガラス越しに、秀一はそれを目が合った。


けれど、慣れたと言おうか。


目が合った一瞬はひるんだものの、秀一はそれに話しかけた。


「…お前…もしかして凛子か」


もちろん、それはその質問に答えない。


いや、答えているのかも知れないがその言葉がわからないだけだ。


「恨みがあるんだろ?」


高瀬凛子はまだ生きているはずだ。


けれど、その身体から抜け出した凛子の意識や想いが、こうして自分を恨んで姿を表しているのだ。こうやって、秀一を責め続けて、取り殺そうとでもしているのだ。


「…殺したければ殺せばいいよ。とっとと」


何も覚えてはいないけれど、きっと愛してくれていたのだ。


死の淵にいてもなお、こうして探し出して姿を表すくらいに。


だったら、殺されるのも悪くはない。


せめて、ひとつでもその願いを叶えてやってもいいんじゃないかと、その想いをどうすればこれに伝えられるのだろう。


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「お前がいなくなったのが、9月の中頃だ。はっきりとした日にちはわからないけど…俺が最後に連絡を取ったのは9月の13日ということになってる。その次の日にここで待ち合わせたんだけど、お前は来なかった」


恵介と待ち合わせしたガールズバーは、思っていたよりも女の子は落ち着いた印象で、初めこそ高いテンションでふたりを迎えたものの、ふたりが真面目なトーンで話を始めるとそっと距離を取った。


思ったよりも、恵介は真面目な男に見えた。


秀一が、記憶を失くしたと言った時は冗談だと思い手を叩いて笑ったが、秀一は笑い返さなかった。


その反応に対して「……本当なのか」そう確認すると、恵介はすぐに自分の携帯を開いて秀一への電話やメールの履歴を確認した。


「まぁ……悪いがお前は適当なやつだから俺も気にしてなかったんだ。どうせ……えっと……」


「気は使わなくていいから。思ったこと言ってよ」


「どうせ、約束なんかそっちのけで、どこかの女のところにでも行ってんだろうって思ってたんだ」


「何人くらい?」


「何人?」


「何人くらい女の子と付き合ってた?」


「そうだな……まぁ、ちゃんと付き合ってる子はひとりかな」


「高瀬凛子」


「そう。でもまぁ、浮気というか。誘ったり誘われたり来るものは拒まずというか…そう。この店の子とも遊んでたな。もう辞めていないけど」


覚悟はしていたけれど、岡崎秀一という男は相当にタチが悪い。


人間として腐っている。


深いため息をつく秀一に、恵介は言った。


「でも、俺はお前がそんなに悪いやつだと思ってない」


「…いいよ、そんなフォロー」


「いや、本当に。俺は、凛子ちゃんとは本気だと思ってた」


「……え?」


「いや、そりゃ初めは他の女となんら変わりない存在だったとと思ったよ。一緒に暮らし始めてもろくに帰らないみたいだったし、俺が知ってるだけでも片手くらいは並行して関係を持ってる女がいたし。でも、いつからだろうな?変わった気がしたんだ」


「片手……って……」


「あ、そのうちひとりは人妻」


「もういい、詳細はいい。頭痛くなる」


「ちょっとだけ付き合いが悪くなった。凛子ちゃんと暮らし始めて」


「…気のせいだよきっと」


「お前がいなくなって、凛子ちゃんもあんな風になっちゃうし…」


「事故は、僕が居なくなってから?」


「俺の約束をドタキャンした日がそうだとしたらな。その日だよ」


「その日?」


「何かあったのか?」


「……わかんないから聞いてるんだよ」


「そっか。そうだよな」


「でも、ありがとう。いろいろ教えてくれて助かった」


「まぁ、たいしたことわかんなくて悪いな」


「いや。ほんとは…もっと周りに嫌われてると思ってたから怖かったんだ。会うのが」


「まぁ……その心配もあながち間違ってないけどな。嫌いなやつのほうがきっと多いよ」


そう言って、恵介は笑った。


「そうだ。親とかは?聞いたことある?話」


「あまり聞いたことないな。というか…あまり仲は良くないとは聞いたよ。実家には全く帰ってないらしかった」


ということは、やはり誰も岡崎秀一のことは探していなかったということだろう。


哀れな男だと、我ながら思う。


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凛子と住んでいたというマンションの部屋は、すでに引き払われて他人が住んでいた。


部屋にあった荷物などは、きっと両親が引き上げたのだろう。


その中には、秀一の物もたくさんあったはずだ。


それが手がかりになるだろう。


柚月と出会った時に、何故か持っていなかった身分を証明するものなどもそこにあるはずだ。


けれど、いくらなんでもこの記憶を失くした状態で凛子の両親に会うことは躊躇われる。神経を逆撫でするだけだ。


もし、会うとすればちゃんと記憶を取り戻して、誠心誠意謝らなければいけない。凛子が事故に合って生死の境をさまよっていると言うのに、知らなかったとはいえ会いにも来なかったこと。そして、お腹の子のことも。


「ただいま」


家に帰ると、柚月がひとりで晩御飯を食べていた。


「おかえり。ごはんは?」


「食べてない」


「お前の分もあるよ」


そう言って、柚月は箸を置いて台所に立ち、冷蔵庫からおかずを出して電子レンジに入れた。


「ありがとう」


「何か収穫あった?」


「別に特には……ただただ落ち込むだけだったよ」


「そうか」


あれから、柚月と秀一の間には数日ほどギクシャクとした空気が流れていたが、それでも秀一は柚月のために掃除や洗濯をしたし、柚月も秀一のために食事を作ったり、いつも通りの生活をするうちに、徐々にその緊張が溶けている気がした。


「でも、やっぱり自分は何も覚えてないからピンと来なくてさ。自分のことなのにおかしいけど、岡崎秀一という人間が自分には理解できない。いくら話を聞いても、全く誠実なところが見られない。女の人に対しても友達に対しても」


あのあと、恵介だけでなくガールズバーの従業員にひとり、辛うじて秀一のことを知っているという女がいた。


たった1年前とはいえ、この手の店は従業員の移り変わりは激しく、期待していたほど秀一を知る人物がいなかったのだ。


そして、常連の2人組の中年の客にも声をかけられた。


ガールズバーの従業員のほうは、仮にも客であるからずいぶん言葉を選んだと思うが、自分も秀一に誘われたことがあると言った。

ただ、彼女は大学の学費を稼ぐために働いていて学業にも忙しく、それにはなびかなかったと言う。


ただ、秀一は誘いを断られたことに文句を言うでもないし、根に持つ訳でもないらしく、恵介が補足するには「いい加減」なのだそうだ。


別に、女の子そのものに興味がある訳ではなく、そうやって適当に声をかけてついて来たらラッキーという程度なのだ。無理にフォローするとすれば、常に誰かと居たいのだろう、ひとりになりたくないのだろうと、恵介はそう感じたと言った。


そして、2人組の客は秀一と店で会えば話す仲だったそうだ。


けれど、酒の席のことだ。


たいした中身のない話ばかりで、岡崎秀一の素性については何も知らないらしい。


いなくなったことに関しても、最近見ないなという程度にしか認識していなかったため、店に入って来た時もなんということなく「おお、久しぶり」と軽く声をかけて来た。


その程度だ。


「所詮、そんなものだったんだよ。誰も心配どころか居なくなったことすらどうでもいいと思ってた。当たり前だね。僕だってそうだよ。そんなやつがいなくなってもなんとも思わない」


「…仕事とかは?」


「それも、いつも転々としてて最終的にどこで何をしていたのかはわからないってさ」


「そうか…」


「もう意味わかんないや」


ため息をついて、食事に手をつけようとした時、秀一の携帯が鳴った。


恵介からの着信だ。


さっきまで会っていたのになんだろうと不思議に思いながら電話に出る。


「なに?なんかあった?」


「見つけたぞ」


「…見つけた?」


「お前がいなくなった時に付き合ってた女」


「え?…どうやって?」


「何人か、お前との共通の知り合いに連絡してみたんだ。秀一が生きてたぞって。そしたら、ひとりから速攻で連絡が来た。あの時、お前と付き合ってたって」


「ほんとに?」


「本当だと思う。お前が帰ってきたと聞いて焦ったらしい。今はもう他の男と付き合ってるから、もし会いに来られたりしたら困るって」


「…そうか。じゃ、会って話を聞くのは無理か」


「事情は説明した。そしたら、最初はそれでいいもう思い出さないでくれって言われたんだけど…なんとか説得した」


「え…それじゃ…」


「1度だけ、会ってくれるって。俺もそこに立ち会うならいいよって。二度と会うつもりはないらしいから聞きたいことはちゃんとまとめておいてくれよ」


「うん。ありがとう」


電話で話している秀一の様子を、柚月はずっと見ていた。


声は明るく、なんなら最後にありがとうと言った時には微かに微笑みすら浮かべていると思っていた。


けれど、電話を終えてテーブルに携帯を置き、また箸を手に取った瞬間、ポロポロとまるで音がするかのように秀一の目から大きな粒の涙がこぼれた。


「どうした?」


「え?」


柚月が驚いた顔をするまで、秀一は自分が泣いていることに気づいていなかった。


「大丈夫か?」


思わず、柚月は身を乗り出して秀一の頬を拭う。


思えば、彼が自分を理仁と呼ぶなと言ったあの日から、こうやって触れることすらしていなかった。


怖かったのだ。


名前を呼ぶことを拒絶されたことが。


もう、触れることも許されないんじゃないかと。


けれど、秀一はその手を振り払うことなく鼻をすすりながら泣いた。