夏休みが終わり、香耶にはようやく日常が戻った。
雄星が働いていた場所には、新築のマンションが建った。
もちろん、もう雄星はそこにはいない。次は、郊外の古いビルの解体の仕事をすると言っていた。
夏の暑さはまだ少し残ってはいるものの、吹く風が涼しくなり始めて、制服のブラウスが長袖で丁度よくなった頃、香耶は雄星の父が入院する病院のロビーで雄星を待っていた。
香耶が雄星に会うのは久しぶりだ。
夏休みは家出中の課題に追われていたし、やはり親の手前いかんせん気が引ける。
とはいえ夏休みが終われば、最高学年が引退して部活動も忙しくなり、なかなか時間が取れなかったのだ。
ようやく、なんの予定もない土曜日がやって来て、雄星の都合を聞くと父親の見舞いに行くと言うので、香耶はそれが終わるのを待つことにした。
「香耶」
呼ばれて香耶が振り向くと、雄星はチラッと香耶の顔を見てすぐに背を向け出入り口に向かって歩き、香耶は慌ててそれを追う。
「髪切ったの?すぐわかんなかったよ」
「切った」
「なんで?」
「暑かったから」
肩のあたりまで伸ばしていつもひとつに結んでいた雄星の髪は、耳の辺りまでバッサリと切られていて、襟足はすっきりと刈り上げていた。色もやや明るくなった。
「似合うよ」
「だろ?」
「お腹減った」
「俺も。なに食べたい?」
「雄星の食べたいのでいいよ」
「俺はお前がなに食いたいか聞いてんの」
「……オムライス…」
「じゃ、ファミレスでいっか」
病院から大通りに出て、横断歩道を渡り、大通り沿いを駅から離れるように数分歩くとファミレスのチェーン店があり、中は家族連れで混雑していた。
辛うじてひとつだけ空いていた、入口に一番近い2人がけの席に通されたが、人の行き来が多く落ち着かなかった。
「うるさいね、なんか」
「仕方ないだろ、土曜日だし」
「まぁ…そうなんだけど」
香耶はオムライス、雄星は日替わりランチを頼んだが、混んでいるせいかなかなか注文の品が届かなかった。
香耶は短気な方で、やや不貞腐れながら何度も厨房の方を覗いて、雄星はそれを見て笑った。
「なによ」
「イライラすんなよ」
「お腹すいたもん…あ、お父さんどうだったの?大丈夫?」
「あんまり」
「そうなんだ」
「まぁ、いつも通りだよ」
「…そっか…」
「心配してんの?」
「そりゃ…そうだよ」
「なんで?」
「雄星の心配をしてるの」
「お節介」
「わかってるよそんなの。でも…私だったらって思ったら…」
「来たよ、オムライス」
香耶のオムライスに続いて、雄星の日替わりランチが届き、しばらくはふたりとも黙って食べた。相変わらず、まわりはガヤガヤとしていたけれど、不思議と最初より落ち着いて、香耶は居心地の良さすら感じた。
香耶が一生懸命話をしても、短い返事が返ってくるだけ。
けれど、黙っていてもつまらない顔もされない。
これまでのような、駆け引きもない。
「ねえ、雄星」
「ん?」
「私たちってさ、付き合ってるの?」
香耶の問いかけに、雄星は口の中のものをもぐもぐと咀嚼しながら、香耶の顔を凝視して「は?」と言った。
「…やっぱ違うか」
「香耶」
「なによ」
「俺、夜の仕事辞めたから」
「…え?なんで?」
「なんで?じゃねーよ。お前が嫌がるからだろ」
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顔が好みだっただけ。
顔が好みの男を支配したかっただけ。
その身体が欲しかっただけ。
そして、彼はお金が欲しかっただけ。
そんなことが、ひとを愛するきっかけになるなんて思ってもみなかった。いつから、自分の気持ちがそう変わったのかも香耶はわからない。
好きとも言ってくれないし、優しくしてくれるわけでもない。
けれど、必要としてくれていることはわかる。
なんとなく。
それで充分。
そう思いながらも、香耶はふと羨ましくなる。
身体を重ねなくても、晴奈は充分に遥斗からの愛を受けていることが香耶にはわかるからだ。なのに、晴奈はそれを自覚していないとすら思う。
「なに考えてんの?」
香耶の隣で眠りかけていた雄星が耳元で寝言のように気怠く香耶に聞く。
「…別に」
「俺のこと以外考える必要ある?今」
彼の愛は充分に重い。
それを伝える言葉を知らないだけだ。
私は、それをわかっている。
それだけは、香耶が晴奈よりも勝っている点なのだと思う。
「ねえ、痛くないの?ピアスそんなにたくさん」
「痛いからしてんの」
「なにそれ変態っぽい」
「なんで?しようと思ってんの?」
「今はしないけど。したくなったら雄星が開けてくれる?」
「やだよ」
雄星の耳を触る香耶の手を振り払うようにして、雄星は香耶の隣から起き上がった。
「なんでよ」
「嫌なこと思い出すから」
ふいに、雄星が右の耳たぶの銀色のピアスを触った。
無意識に触っているのかも知れない。
けれど、”嫌なこと”の理由はその小さなひとつのピアスが秘密を握っているのだろうと香耶にはわかった。
でも、それなら何故それを捨てないのか。
嫌な思い出なら捨てればいいのに。
彼の重い愛の一欠片は、その銀のピアスと共に黒く色あせているのもしれない。けれど、その一欠片をきっと今も誰かが持っているのだろう。
ふと
香耶の脳裏を過ぎるものがあった。
不安のようなもの。
せっかく手に入れた愛情を何かに奪われるような感覚。
香耶はまた、自分の察しの良さを恨んだ。
「どこにもいかないでね」
でも今は、そう言って雄星の背中にしがみつくことしか出来なかった。
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その日、充は夕飯後に地域の集まりに出ると言って家を出ていった。
よくもまぁ、こんなに何度も何度も集まる用件のあるものだと遥斗は思うが、祖父も祖母も何も言わないということはそういうものなのだろう。
そして、たいてい帰りは遅い。
遥斗の部屋の窓から、集落の中心部が見えるが、暗闇の中にいつまでもポツンと窓がオレンジに灯る建物があり、そこに人が集まっている様子がわかる。
その日も、遥斗はその建物の明かりが灯るのを見計らって、母がひとりでいる部屋の扉を叩いた。
「ちょっと…話があるんだけど」
「なに?改まって。怖いんだけど?」
そう言って笑いながら、綾子は遥斗を部屋に招き入れた。
「なにしてたの?」
「撮りためてたドラマ見てた」
綾子はそのシーズンの流行りのドラマをほとんど網羅しているが、仕事や家事で見られないこともあり、録画してこうして何話分もまとめて見ているようだ。
特に今日は、充がいないから気兼ねなく見ようとしていたところだ。
それを邪魔して申し訳ないと思いつつ、遥斗が少し離れたところに座ると、綾子はドラマを見るのを止めた。
「見ててもいいよ」
「いいのよ。これ面白くないの」
「面白くないのに見てるの?」
「だって続きは気になるじゃない。…それでなんですか?急に。珍しい」
珍しいと綾子が言うのも当然だろう。
思えば、こんな風に面と向かって話すのはいつぶりだろうかと遥斗は思い返した。
きっと、綾子が再婚すると聞かされた時以来ではないだろうか。
綾子も、特にこっちに越してきてから...特に遥斗が綾子に叱られて家出をした時からは、なんとなく顔を合わせて真剣な話をすることを避けていたように思う。
無意識に、遥斗の機嫌を伺って暮らして来たと思う。
「…突然なんだけどどうしても聞きたいことがあって」
その時、綾子は察しただろう。
いつか、話さなければならないことではあったが綾子はずっと避けてきた。
いや、なんならこれまで遥斗がその話に触れなかったのが不思議なくらいだ。
聞きたいことがあって…と言ったまま、俯いて口ごもった遥斗に綾子は仕方なく自分からそれを切り出した。
「お父さんのこと?」
「なんでわかったの?」
「わかると言うか…そんなに改まって私に聞くようなこと他にある?でも、どうして急に?」
「ほんとは…ずっと聞きたかったんだ。でも、聞けなかったと言うか…聞くのが怖かったというか」
「怖かった…って?」
「…先にもうひとつ聞きたいことがあって」
聞けなかったのは、母を傷つけたくなかったから。
きっと、母は何かを隠しているのだ。
この長い間の疑問をぶつけることは、母が隠している秘密を暴くことになるのだと遥斗はそう思っていた。
父との思い出も、父のいなくなったことも、綾子が頑なに一度も話さなかった理由を暴くことになる。
「なあに?」
一瞬、遥斗は顔をあげたが、敢えて感情を抑えるような母の表情を見て、また下を向いた。
「俺のこの足って、本当に生まれた時からなの?」
テレビを消した静まり返る部屋に、母がすうっと息を吸い込んで、大きく長く吐く音がした。
思い返せば、遥斗は母からこの足が悪いのは生まれた時からだと説明されたことはない。
ただ、遥斗の記憶では誰かにそのことを聞かれた時に母がそう答えていたからそうなんだろうと思っていただけだ。
母の反応が、何も知らない父のことと、自分のこの足のことが何かしら関係するのだろうかという遥斗の疑問の明確なアンサーであると遥斗は思った。
けれど綾子は「どうして?」と言った。
この期に及んでも、綾子は遥斗の質問には明確に答えなかった。
嘘をつくなら、そうだと言えばいい。
あなたの足が悪いのは生まれた時からだと言えばいい。
どう考えても悪あがきだが、綾子は遥斗に真実を告げる勇気がない。なんなら、これまで綾子は何度それを遥斗に伝えようと思ったことか。
特に、それを強く思ったのは充との結婚が決まった時だ。
充の子を切望していた義母に言われたのだ。
またあんな子が生まれるんじゃないのかと。
その時は、充がさすがに義母をキツく咎めてくれた。それに、充とは子供を作らないということに決めていたので、綾子は腹の底の煮えたぎる怒りを辛うじて抑えた。仕方がない。私が悪いのだ。
私が、招いたことなのだと。
だから、いつか遥斗には言わないといけない。
遥斗も、自分の子供がそうなるかも知れないと不安になるかも知れないし、悪意ある誰かから、いや悪意はなくとも、綾子が義母に言われたようなことを言われるかもしれない。
だから、気にすることはないよと教えるべきだと。
遥斗が晴奈を連れて来た時もふと頭を過ぎった。
このままふたりが付き合い続けて結婚し、子供を持つとしたら…
しかしそれでも、言えなかったのだ。
なのに、今こんな風に不意打ちなタイミングで話せるわけがない。
遥斗が、父親に愛されなかったことを伝えられるわけがない。
「…もういいよ。わかった」
まだ16歳の遥斗にしてみれば、母とこうして面と向かって話をすること自体、照れくさくもあるし、それなりに覚悟のいることだ。
だから、母がそれに応えてくれなかったことが悲しかった。
母は、自分の気持ちを取り繕うのに必死で全く気づいてはいないだろうが、さっきから遥斗の足はジンジンと疼き始めて、遥斗はそれをまた母に悟られないようにゆっくり立ち上がった。
「だいたいわかった。もう聞かない」
遥斗は部屋に戻り鍵を閉めて、その場で座り込んだ。
部屋に戻った安心感からか、足の痛みはどんどん増して、額には汗が滲んで、そこから一歩も動けない。
今、この状況を母に見てもらえぱ母は話してくれるだろうか。
遥斗がこれまでどんな想いでこの足の痛みと生きてきたのかわかってくれるだろうか。
生まれた時から、この身体なんだ。
そう思っていたから、自分はみんなと同じことが出来なくても仕方ないと思って生きてこられた。
仕方ない。仕方ないと思いながらも、何度みんなと同じように自由に走る夢を見ただろうか。
同情されることにうんざりだった。
甘やかされることにもうんざりだった。
そういった歯向かうことの出来ない”善意”にいつも押しつぶされそうで、その全てのストレスを香耶に向けていたような気がする。香耶を断ち切ることで、そこから逃げられると思ったのかもしれない。
それでも、自分の不自由な身体のことで誰かを恨んだことはない。
母に恨み言を言った覚えもない。
なのに、何故ちゃんと自分の疑問に向き合ってくれないのか。
痛む足をさすりながら、遥斗はその痛みに気を失ったか、それとも疲れて眠ってしまったのか、気がつくと誰かが部屋の扉を叩いて、その振動が扉に背を向けて横たわっている遥斗に伝わった。
「遥斗、起きてるなら開けてくれ」と父の声がする。
充が家に帰ってきているということは、いつの間にか長い時間が経っていたらしい。
遥斗の足はまだ痛んでいたが、遥斗は起き上がり身体をずらして手を伸ばし、鍵を開けた。
「起きてたか」
扉を少しだけ開けて顔を見せた充は、酒を呑んでいるようでほんのりと赤みを帯びた顔をしていた。
「起きたよ、うるさくて」
「悪い。入っていいか」
「…いいけど」
「そんなところで寝てたのか」
「…足が痛くて動けなくて」
「大丈夫か。今も痛いか」
「まぁ、でもマシになった…ていうか何?」
遥斗がそう聞くと、充は遥斗と向かい合うようにあぐらをかいて座った。
「お母さんと何かあったか」
「なんで?なんか言ってた?」
「…帰って来たら泣いてるもんだから」
「ドラマでも見て泣いてんじゃないの?」
「だったらいいんだけど。何も喋ってくれないもんだから…遥斗と喧嘩でもしたのかと思ってな。また母さんに何か言われたかな…」
「喧嘩とかじゃないよ、別に」
「そうか。…それより足、どうなんだ。痛いなんて今まで聞いたことないじゃないか。今だけか、それともいつもか」
ふと、充の穏やかな声に気が緩んだ。
何故かはわからない。
母にも話せなかった足の痛み。
遥斗は、足の痛みに苦しんでいるところを初めて人に見せたことで、血の繋がりもない、家族になってほんの1年半程度の充に対して、ほんの少し気持ちが緩んでしまったのかもしれない。
「…ずっと…」
「ずっと?」
「でも…きっと話してもわかんないよ。俺だってわかんないもん…」
ふいに、父が遥斗の痛む足に触れた。
「遥斗」
その瞬間に、遥斗の中でギリギリまで張り詰めていた細い糸が音を立てて切れた。
「遥斗、君が認めてくれているかどうかはわからないけど、僕だってなんの覚悟もなく君の父親になったわけじゃないよ。迷わなかったわけじゃない。君がここに来てからもやっぱり難しいと思ったよ…いろいろあったな、こんな短い間に」
遥斗は、父が痛む足をさすりながら話すのを泣きながら聞いた。
「でもまぁ…遥斗は16歳か。16年分だと思えばたいしたことないだろう、なんならまだ足りないくらいだ。もっと僕に迷惑をかけてもいいくらいだ。だから、綾子には話せないことでも僕にもっとなんでも話してくれないか。…まぁ、泣き止んでからでいいよ」
遥斗がなにも言わずに泣いているのを充は本当に気長に足をさすり続けながら待った。
初婚であった充にとって、いきなり思春期の息子が出来ることは戸惑いでもあったし、どう扱って良いのかわからないことばかりだ。
ただ、それは充が自分で選んだことだ。
自分で覚悟を決めた事だ。
けれど、遥斗は嫌でもそれに従わなければいけなかったのだ。
新しい環境に大人の都合で放り込まれ、順応するしかなかったのだ。
そう思えば、彼の苦しみを考えれば、どんな迷惑をかけられたとしても取るに足らないことだ。
遥斗の足をさすってやりながら、精一杯愛してやるのだと充は目の奥からこみあげるものを堪えながら思う。
30分ほどだろうか。
充は根気よく足をさすり続けた。
「…もう大丈夫…ありがとう」
「そうか。…ちょっと喉乾いたな。なんか持ってくるか」
そう言って充が立ち上がると「俺も行く」と言って遥斗も立ち上がって、充のあとに遅れて階段を降りた。
廊下は真っ暗で、もう祖父母も寝静まったようだ。
「まだ飲むの?」
遥斗が台所までたどり着いた時には、充は冷蔵庫から缶ビールを取り出して「遥斗はなにがいい」とき聞いた。
「アイス」
充はダイニングテーブルにアイスとビールを置き、遥斗と向かい合わせにして座った。
そして、遥斗は充がビールのひと口目を飲み込むのを待って話し始めた。
今日の母とのやり取りと、いつも足が痛むきっかけ。
「…そうか」
充はそう呟いて、しばらくビールの缶を眺めながら腕を組んで考え込んだ。
「…そうだな。それなら、足が痛む原因が父親にあるんじゃないかって考えるのは当然だと思う。それをずっと疑問に思ってたけれど聞けなかったんだろ?」
遥斗は黙って頷く。
「それを意を決して聞いてみたらはぐらかされて、それは傷ついて当然だ。…でもな…それを話すにはお母さんには突然すぎたんだよ」
「なにか知ってるの?」
「知ってるよ」
「…教えてくれないの?」
「教えてやってもいいが…きっと傷つくと思う」
「それでもいいよ」
「綾子は、自分のせいだと思い込んでる。でも、そうじゃない…お母さんは何も悪くない。それだけはわかって聞いて欲しい」
「…わかった」
充は缶ビールの最後のひと口を飲み干して、テーブルにそれを置いたタイミングで、遥斗に告げた。
「君のその足は、本当のお父さんに虐待されたせいだ」
こんなに、辛いことを告げる経験など今までなかった。きっとこんなことはこれからもないだろうと、充は奥歯を噛み締めた。
「命にかかわるほどのことだったそうだ…遥斗はまだ小さかったから覚えていないはずだけど、不思議なことに心のどこかにその記憶があって、それが蘇って足が痛むのかもしれないな」
充は、遥斗の顔を見ることが出来ない。
ただ、遥斗の前に置いたアイスがじんわりと溶けていくのを見つめるしかなかった。
「…そっか…やっぱりそういうことだったんだ…なんだ…良かった」
「え?」
予想していなかった遥斗の言葉に、思わず充は顔をあげた。
その顔は意外にも穏やかで、戸惑いは浮かんでいたものの、ほんの少し微笑んでいるようにも見えた。
「俺がこんなふうに生まれたせいで、お母さんが責任を感じてるんだと思ってた。こんな身体で生まれて来なければ…って思ってた」
「遥斗…悲しくないか」
「悲しくなんかないよ。愛してくれなかった人のことなんかどうでもいい」
「…そうか…」
「でも…でも、やっぱりちょっと苦しいね…」
そう絞り出すように言うと、遥斗は両手で顔を覆って、また泣いた。
綾子は、きっとそれが怖かったのだ。
身体を傷つけられたことよりも、愛されていなかったという事実を突きつけるのが怖かったのだ。
充ですら、こうやって傷ついて泣いている遥斗を見るのは胸が痛い。今更だが、伝えて良かったのかとすら思う。
ただ、遥斗は顔を覆ったまま充に言った。
「ありがとう」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「だってさ」
「だってさ…って…そんな軽く言わないでよ」
朝、学校で顔を合わせた途端、春奈に「顔がパンパンなんだけどなんで?」と聞かれた遥斗は、まるで晩御飯はなんだったのかと聞かれたかのように何気なく昨日の両親とのやり取りを話した。
「だって、どうせ隠したらすねるだろ?」
「すねるとか言わないでよ…でも大丈夫?」
「全然大丈夫じゃない。考えれば考えるほど悲しいし腹も立つし全然寝れなかったし…でも言っても仕方ないし…父親なんて最初からいないもんだと思ってたけど、本当は心のどこかで会いたかったんだと思う。いつか会えるとも思ってたし。その想いが断ち切れただけでも良かったよ。僕の父は今の人ひとりだけだよ」
「そっか…じゃ、話せて良かったね」
「今日バイト休みでしょ?」
「うん、そうだよ」
「じゃ、そんな可哀想な俺になんか奢って」
「あーごめん」
「え、なに?なんかあんの?」
「香耶と遊ぶ」
「は?なんでそんな仲良くなってんの?どうせ俺の悪口言うんだろ」
「なんか、彼氏に誕生日プレゼントあげたいから一緒に選んでって。すっかりフラれちゃったね、遥斗」
「うるさい」
その日の放課後、晴奈は駅で香耶と合流して少しだけ足を伸ばして大きな街の方まで出るという。
晴奈はいつも通り、駅まで遥斗と歩くつもりでいたが、遥斗は自分も寄り道をしたいからと学校を出たところで晴奈と別れた。
遥斗は、さりげなく晴奈に気を使ったつもりだ。
待ち合わせ相手が香耶ならば遥斗の足のこともわかっているし、多少遅れてもいいとは思ったけれど、やはり誰かを待たせるかもしれないと思うと晴奈も気が焦るだろう。
駅までゆっくり歩きながら、ふと新しく建った大きなマンションを見上げる。
工事が終わったので、遠回りする必要がなくなり、雄星と再会したあの場所を通るようになった。
もう、会えないのかな。
ふと、遥斗は思った。
「遥斗」
そんなことを思ったからだ。
幻聴が聞こえたのだと思った。
雄星の声が聞こえたのは気のせいだ。
例え、そこにいたとしても遥斗の名前など呼ぶはずがない。
彼の記憶からは、なくなったものなのだからと。
遥斗より少し大きな影が、目の前に伸びた遥斗の影を覆っても、その影が再びその名前を呼んでも、遥斗は信じなかった。
「おい、無視するな」
「無視したのはそっちだろ」
「謝ればいいのか」
「…悔しい」
「悔しい?」
「俺も仕返ししたい。雄星のこと無視して逃げたい。でも、出来ないのが悔しい…」
「だったら諦めてこっち向け」
「あと…それでもまだ会いたいと思ってた自分が悔しい」
遥斗が振り返りもせずにそう言うと、雄星は大きな歩幅で遥斗を追い越して、遥斗の前に立ちはだかった。
「俺も会いたかったから待ってた」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「香耶の彼氏ってどんなひと?」
「バカっぽい」
「なにそれ」
駅ビルのデパートの1階でハイブランドの化粧品をひやかした後、もうひとつ上の階で自分たちにも手が出そうな安価なコスメコーナーを片っ端から巡り、ひと息つこうとふたりはジューススタンドに立ち寄った。
まわりは同じような高校生の女の子が多かったが、それに混じってカップルも多い。
「でも、セックスは上手」
「ちょっと、もう」
晴奈の反応に肩を震わせて笑いながら、喉が乾いていた香耶は一気にオレンジジュースを半分ほど吸い込んだ。
「ていうかさ、誕生日プレゼント買いに来たんでしょ?さっきから自分たちのものばっかり見てるよ私達」
「だって、決まってないんだもん。何にするか」
香耶はそう言ったが、そもそも誕生日プレゼントを買うというのは口実であり、嘘だ。
「ピアスにしようかな。バカみたいにつけてるから」
「バカって言いすぎじゃない?好きなんだよね?」
「好きだよ。どんなことでもしてあげたいくらい」
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秋が深くなり始めて、雄星の家に着く頃にはあたりも暗くなり始めていた。
相変わらず、ほのかに古くてかび臭い。
最後に遥斗がここに来たのは、夏休みの終わる頃。
雄星が開けた窓から入る風は、あの時のようなムッとした熱と湿度を帯びた空気ではなくて、爽やかで少し冷たい。
ダイニングテーブルの上の朝食べたまま放置されている菓子パンの袋を雄星はくしゃっと握り潰してゴミ箱に放り込んだ。
「いい加減うんとかすんとか言えよ」
ただ、ずっと黙り込んであとをついて来て、未だに玄関で靴も脱がずに立ちすくんでいる遥斗を振り返り、雄星はそう言って笑った。
「……なんで?」
遥斗のその声はあまりに小さく、雄星は「え?」と聞き返す。
「なんで急に会いに来たの」
「とりあえず、靴ぬげば?」
遥斗は玄関の少し高くなったところに座って靴を脱ぎ、雄星が差し伸べた手を握って立ち上がって、傍にある椅子の背もたれをひいて座った。
すると、雄星もその向かいに座って、遥斗の未だに不貞腐れて俯いた顔を覗き込んでふふっと笑った。そして、遥斗の肩越しに見える誰もいない部屋を見つめて言った。
「親父が死んだ」
「……え」
「まぁ、いつかはって思ってたけど」
遥斗は、自分がまだ幼い頃に出会った雄星の父の姿しか知らない。
浅黒く焼けた肌と、半袖のTシャツから伸びる太く力強い腕と、大きく豪快な笑い声。
だから、雄星に病気で入退院を繰り返していると聞いた時にもそんな弱った姿を想像出来なかったし、死んだと聞かされても遥斗には実感がわかない。
ただ、顔をあげて目に入った雄星のニッと歯を覗かせる笑顔にあの頃の雄星の父の顔が浮かんで、無意識に遥斗の目から涙が零れた。
「なんでお前が泣くんだよ」
「…なんで雄星は笑ってられるの。悲しくないの」
「親父が死んだその時はさ、別になんも変わんないと思ってた。ずっと家にひとりだったし。…でも、家に帰って来て、もう二度とここには親父が帰って来ないんだ、本当にひとりになったんだって思った時にやっと実感した。なんだかんだ言って、諦めたふりして、本当はいつか…帰ってきてくれると思ってた。だから…自分でもびっくりするくらい泣いた」
遥斗は顔も拭わず、じっと雄星の顔を見つめて泣いた。
自分とひとつしか違わないのに、ひとりで強く生きている雄星は遥斗の憧れだった。けれど、今初めて雄星のその笑っている顔に心細さと不安が見えた。
遥斗はそれが苦しくて、なぜ笑っていられるのかと聞いた自分にも腹が立った。
「入院してたとはいえ、俺のことはずっと心配していたし。俺もいつかは安心させてやらなきゃと思ってたけど、出来なかった。せめて、もうちょっと大人になるまで死なないで欲しかったんだけどな」
雄星は立ち上がって、背の低い冷蔵庫の上のティッシュボックスを手に取って遥斗の前に投げるように置いたけれど、遥斗はそれに目もくれずグスグスと鼻をすすって雄星の顔を見つめ続けた。
何か言ってあげなければと思うけれど、遥斗には何も思いつかない。
思えば、身内が死んだ経験など一度もないからだ。
「だから、やっぱり遥斗に会いたかったんだ」
「…なんで?」
「遥斗に会ってあの時のことを謝らなきゃ、本当に二度と会えなくなった時に後悔すると思って…」
ずっと会いたかった。
でも、自分のせいで遥斗を酷い目に合わせた。
あの日、ひとりで出かけさせなければ。
あの日、雨が降らなければ。
いや
そもそも、自分と出会いさえしなければそんなことにならなかった。
だから、二度と会わない方がいいとずっと思っていた。
遥斗には思い出したくないことだろう。自分の顔も見たくないだろう。
嫌な顔をされるのが怖かった。
だから、無視した。
「俺は傷ついた」
「知ってる。お前の彼女が言ってた」
「晴奈が?」
「そう。すごい剣幕で怒られた…お前のまわりの女は気が強いのばっかりだな」
「……ばっかり?って?」
ーーーーーーーーーーーーーーーー
ほんの3日前のことだ。
父親が死んでからも、雄星はいつもと変わらないように見えた。
相変わらず会いたいと言うのは香耶のほうで、その日は最近新しく始めた居酒屋でのバイトがあるというので、雄星の部屋で待つことにした。
相変わらず、香耶は塾のあとに友人の家に泊まると言って出て来た。
全く、何も反省していないと自分でも思う。
けれど、やはり雄星をひとりにしていたくなかった。
雄星が死のうとしたところを目の当たりにして、香耶はひとりぼっちになった彼が心配で仕方がないのだ。
来られない日は電話をして、生きていることを確認して、無理にでも会いに来られるのなら、少しでも傍にいたいのだ。
玄関の扉の脇、台所の窓の格子の裏側に隠してある鍵を手に取って、香耶は部屋に入る。
家族が死んだからと言って、仕事に行かない訳にはいかない。生きていかなければならない。
香耶は、自分に置き換えて考える。
例え、すれ違いのある家族であったとしても自分ならしばらくは立ち直れない。学校や塾になんか行く気も起きない。
ただただ、泣いて暮らすだろう。
その気持ちを考えると、香耶は流し台に残っていた洗い物を片付けて気を紛らわせながらも涙が滲む。
父親の死後の手続きや供養については、雄星にとっては会ったこともないような親族が片付けたらしいが、雄星がまだここでひとり暮らしているということは誰も雄星の面倒を見るとは言わなかったのだろう。
雄星さえその気になれば、なんとでも頼る口はありそうだがそれをしないのは、ただ無知なのかそれとも意地なのか、それは香耶にはわからない。
途中で買ってきた菓子パンを齧りながら、台所のテーブルで塾の課題を片付けていると、遠くからカンカンとアパートの外階段を登る音が響いた。
時計を見ると、もう10時になるところだ。
本当はもっと遅くまで働きたいがさすがに今回は年齢が誤魔化せず、9時までしか働かせてもらえないと雄星は不満を漏らしていた。
だから、この足音は雄星で間違いないだろう。
なんなら、遅いくらいだ。
足音は目の前の扉の前までゆっくりと響き、香耶が立ち上がると同時にトントンと扉が叩かれた。
「おかえり」
雄星はチラッと香耶の顔を見ると、靴を脱ぎ捨ててそのまま勢いよく自分の部屋になだれ込んだ。
「どうしたの?」
香耶が慌ててあとを追うと、電気もつけず真っ暗な部屋で雄星はベッドまで辿りつくことなく床の上で崩れるように倒れた。
「雄星、どうしたの?」
電気をつけて駆け寄ると、雄星は香耶から顔を隠すように腕で頭部を覆う。
「別に。なんもない」
「なんにもないわけないじゃん、ちょっと見せて。怪我したの?」
顔を隠したTシャツの袖は真っ赤に染まって、それを掴んで無理やり引き剥がすと、雄星の顔のそこかしこから血が流れたり、腫れたりしていて、よくこれで帰ってこられたものだと思うほどだった。
「転んだの?喧嘩したの?」
「うるさいな…ちょっと黙って」
「…ちょっと待ってて」
香耶は立ち上がって、洗面所の棚からタオルを手に取って水に濡らした。タオルを絞る手が震える。
確かに、雄星は素行の良い人間ではないけれど、こんなことは初めてだ。誰かと喧嘩をした話も聞いたことがない。
震える手に必死に力をこめて絞ったタオルを持って部屋に戻り、雄星の顔に当てると雄星はその香耶の手を掴んで笑った。
「ちゃんと絞れよ」
そして、香耶の手を引っ張って起き上がり、そのタオルで顔を拭って「大丈夫だって」と言った。
「なにかあったの?」
「ちょっと…変な人にからまれただけ」
「どこで?」
「帰る途中で」
「なんで?」
「うるさいな。しつこい」
「……ごめん」
しつこい。
香耶には、その言葉が刺さる。
また、重荷になってしまう。
また、捨てられてしまう。
「大丈夫なんだったらいいや…課題、途中だし続きやってくるね…」
香耶が雄星の手をほどいて立ち上がろうとすると、雄星がその手に力を込めてそれを引き止めた。
「行くなよ」
「だって、うるさい、しつこいって言うから…」
「しつこいのはお前の取り柄だろ」
「は?意味わかんない…」
「だって俺のこと心配してくれるの、もうお前だけじゃん」
血だらけになったタオルを顔に押し当てたまま、香耶の肩に頭を置いて、雄星は肩を震わせながら泣いているように見えた。
「…なんなの?急に弱気じゃない。なにがあったの」
「お前のせいだよ…」
あの女は、雄星への恨みを忘れていなかった。
雄星の最後の客だったあのガリガリにやせ細った女は、雄星に金を脅し取られたこと、その時「大人を舐めるな」と捨て台詞を吐いたことを忘れていなかった。
どこで知ったのかはわからないが、女は雄星のバイト先を突き止めて帰りを待ち伏せた。
一見、外面は品の良いセレブのように見えるあの女の友人というには、あまりに品のないガタイの良い男を従えて待っていた。
世間というのは、意外に冷たいもので、まだ人の通りの多い街の中で、雄星がガタイの良い男に引きずられるように連れていかれるのを誰も助けようとはしなかった。
見て見ぬふり。
それが、一番賢い選択だ。
誰もが、あからさまに面倒そうな出来事には、例えそれが目の前で行われていることでも平気で見ないふりが出来るものだ。
ひとしきり、雄星が身動きが出来なくなるほどに男に暴行を加えさせ、客の女は最後に倒れている雄星の頭を、まるであの日雄星のスマホの画面にそうしたように何度も踏んで、ようやく満足した顔をした。
「お金は返してね。あと、下手な真似しないでね。でないと次はあんただけじゃ済まないからね」
その時、雄星は女の言葉を心の中で笑った。
あんただけじゃ済まないなんて、雄星には脅しになんかならない。
もう家族もいないのにと笑った。
なんなら、このまま死んでもいいのにと。
死んだところで、誰も悲しまないだろうと。
中途半端に痛い思いをさせられて、これで家に帰るのがめんどくさいくらいだ。
女が立ち去って、雄星はしばらくはそんなことを考えていたけれど、ふと、家で香耶が待っていることを思い出した。
そうだ。
あの女を脅したのもあいつのためだ。
香耶が嫌がるから。香耶が悲しむから。
自分を売って稼ぐのは辞めようと思った。だから、しばらく食いつなぐための金が必要だったからだ。
そうまでして、すぐにでもやめたかった。
いや、やめたかったというより出来なかった。香耶の悲しむ顔が浮かんで、苦しかった。
「お前のせいだよ全部。お前が死なせてくれないからだ」