「香耶は怒ってるんだよ」


「ふられたから?」


遥斗の隣に寝転んで、鼻がくっつくくらいに顔を見合わせて春菜はその顔をじっと見る。


「一方的ではあったけど…でもそんなつもりなかったよ。香耶にとって重荷になってると思ってたし、それが自分にも重荷だったから離れたかっただけ」


「でもあの子は遥斗のこと好きだったんだよきっと。そうじゃなきゃ、私にそんなに執着しないよ。遥斗が鈍感すぎたんだよ」


「ごめん。香耶がそんなことすると思わなかったから」


「わかるよ。そんな子じゃなかったんでしょ?きっと。でも、人って変わるんだよ。悪い方にも良い方にも」


そう言って、思わず遥斗の手を握りそうになって、晴奈は手を止めた。


「…いいよ。手ぐらい今まで繋いでたじゃん」


遥斗は晴奈が引っ込めた手を握る。


「ごめんね…遥斗」


「晴奈はなんにも悪くない」


「でも、ちゃんと嫌なことは嫌って言って」


「うん」


「…突然別れるとか言わないで」


晴奈には、香耶の気持ちが少しわかった気がした。


きっと彼女は、遥斗のために献身的に尽くすことが彼のためで、それをきっと喜んでくれていると思っていたんだと思う。


遥斗が、何も言わないから。


嫌だと言わないから。


でも遥斗は遥斗で、香耶のことを想ったから離れようと思ったのだ。自由にしてあげたかったから。


香耶が好きだと言わなかったのも、遥斗にまだこれからも必要とされると思っていたから。


突然、突き放されて目の前からいなくなるなんて思っていなかったから。


でも、晴奈は思う。


もし、香耶がちゃんと遥斗に気持ちを伝えていたらどうなっていたんだろう。遥斗がちゃんと、香耶に自分の思っていることを伝えていたらどうなっていたんだろう。


今、こうして遥斗の傍にいたのは晴奈ではなかったかもしれない。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「香耶、怒らないからちゃんと説明して」


いつかは、この日が来るとは思っていた。


バレるのは時間の問題だった。


怒らないなんて嘘だ。怒るに決まってる。


香耶が、手をつけてはいけないと言われた通帳から最近になって頻繁にお金を出していることが母にバレたのだ。


「…いろいろと…高校になって出費が多くて」

 

「足りなかったら言えばいいでしょ?こんなに一度に何万円も何に使ってるの。正直に言いなさい」


正直に?


男を買ってますって?


それで怒らないからって?


馬鹿馬鹿しくてつい笑いがこみあげそうになる。


「…ごめんなさい…つい…ゲームに課金を…」


「ゲーム?」


「ちょっとストレス発散のつもりで始めたらムキになっちゃって…もうやりません。ごめんなさい」


「…あなたのお金だからいいけど…香耶のために残してるお金なんだから使い道…」


「わかってるってば!ごめんなさいって言ってるでしょ?」


「香耶!」


「もう…うるさい!もう行くね、友達の約束に遅れちゃうから」


別に、頭ごなしに叱られたわけじゃない。


もう一度、ごめんなさいと言えば治まった話だろう。


けれど、香耶はもうその場から逃げ出したくて我慢出来なかった。


部屋に戻り、財布とスマホだけをカバンにつっこんで家を飛び出した。


友達との約束などもない。


もう、使えるお金は取り上げられてなくなってしまった。


電車を乗り継いで、学校のいつもの最寄り駅から、香耶は必死に泣きながら走った。


「雄星!!」


香耶はいつもの建築現場で仕事をしていた雄星を見つけて、体当をするように後ろから抱きついた。


「おい!仕事中!」


「もう終わるでしょ」


「離せって」


雄星は香耶を引き剥がして、突き飛ばした。


けれど、香耶はそうされるのは予測して身構えていたので、少しよろける程度で雄星から離れた。


「とりあえず…どっか行け。あと20分で終わるから待ってろ」


香耶は、突き飛ばされながらもその言葉にホッとした。


帰れと言われなかった。 


それだけで、ホッとして身体の力が抜けそうで、香耶はフラフラとしながら近くのファストフード店に入り、飲み物だけを頼んで窓際のカウンターに座った。


そう言えば、ここで晴奈を待ち伏せたことがあった。


あのふたりは、どうしているだろう。


ショッピングモールで出会った時には、意地の悪いことを言ってやった。あの様子では、まだ本当に”なにもないのだろう”。


泣きそうな顔をしていたじゃないかと、香耶は思わず顔がほころぶ。


男なんて、愛してない女でも抱けるんだから、遥斗があの子に何もしないなら、どうせそれまでなんだろう。


「おい」


走り疲れたせいか、いつの間にかテーブルに突っ伏してウトウトしていた香耶の肩を雄星が叩いた。


「電話したんだから出ろよ」


「…あ、ごめん…でも、ここにいるのわかった?」


「外から寝てるの丸見え。みっともない。…どうする?店、出る?」


「なにも…考えてない」


「は?まぁ、いいや。俺、腹減ったしなんか食うわ、あっちで待ってて」


雄星は注文カウンターに向かいながら、香耶に奥のソファー席に移動するように促した。


香耶は飲み物のカップを持ってソファー席に座り、雄星の姿を目で追う。


周りから見たら、私たちはどう映るんだろう。


仕事帰りの作業着姿で飾り気のない男と、こんな風に一緒にいるところを学校の友達が見たらなんて言うだろう。


まぁ、今はもうそんなことどうだっていい。


「…ねぇ、多くない?」


席に帰って来た雄星のトレーには、どう考えてもひとり分にしては多すぎる量のハンバーガーとポテトやサラダが乗っていて、香耶はテーブルに頬杖をつきながらそれを眺めて、思わず笑った。  


「これと、これはお前の分」


雄星は自分のトレーからサラダとハンバーガーをひとつ掴んで、香耶の前に置いた。


「私の?…奢ってくれんの?」


「いいから。食えば?お口に合わないかもしれませんけど?お嬢様には」


「…ポテトも欲しい」


「ちょっとだけな」


「ありがと」


「…それで?どうした?なんで来たの?今日、約束してたっけ?」


「してない…だって…お金ないもん」


「だろうな」

 

「だろうなって何よ」 


「当たり前だろ。バイトもしてない高校生がそんな金あるかよ。どうせ親の財布から盗んだかなんかでバレたんだろ」


当たらずとも、遠からずだ。


「…盗んでないよ…私のお金だよ。ただ…使い道を問い詰められて…」


「親と喧嘩して他に行くとこないのか」


「ないよ」


「まぁ、とりあえず食えば?食ったら行こう」


「どこへ?」


「俺ん家でしょ?他にどこ行くんだよ」


「だって…」


「家に来るくらいで金なんかいらないよ」


「…いいの?」


本当は、雄星は今すぐにでも横になって眠れるくらいに疲れていた。


昨日の時代遅れな女はしつこかった。


疲れ果てている上に寝不足で、昼間の仕事中も何度も倒れそうだった。


だから、普通なら香耶に会いたいと言われても断るところだ。


けれど、この見栄っ張りな女が人目もはばからず、薄汚れた作業着姿の自分に抱きつくようなことをするなんて、余程なにか追い詰められるような理由があるのだろうと雄星は思った。


親もいて、友達もいて、なのにどうして彼女はここに来なければいけないのだろう。


「暑い…」


「仕方ないだろ一日中閉め切って来てるんだから」


立て付けの悪い雄星の部屋の窓を開けたが、今夜は風がなく生ぬるい空気が混じっただけだった。


外の風は諦めてクーラーをつけ、雄星は疲れが限界に来て着替えもせずベッドに寝転んだ。


「着替えないの?」


「ちょっと寝たらね」


「私も寝ていい?」


「いいけど…寝る前に風呂入って来たら?勝手に使っていいよ」


「ちょっとだけ。走って疲れた」


そう言って香耶は雄星の隣に寝転んだ。


「あんまりくっつかないでくれる?」


「だって狭いもん」


「臭いよ?俺」


「私もたぶん汗臭いから大丈夫」


雄星はそれを聞いて笑いながら、壁に向かって寝返りをうって香耶に背を向けた。


ほんのりと、汗とほこりが混じったような匂いがした。


「…寝ててもいいから聞いてくれる?」


香耶はその背中に語りかける。


「独り言だと思ってくれていいから」


「いいよ…寝るかもだけど」


「私ね…認めたくなかったんだけど、大好きだった人にふられたの。ずっと好きだったんだよ。小さい時から」


「ふーん…」


「その子、少しだけ身体が不自由で。だからずっと私が一緒にいて助けてきたの。ていうか…最初は大人に押し付けられたんだけど。大人にありがとう偉いねって言われるのも嬉しかったし…嫌だなって思う時もあったよ。お荷物だなって思った時もあったんだけど」


眠ってしまったのか、雄星は返事をしなかったけれど香耶はただ吐き出したいだけで、それでいいと思い話を続けた。


「いつも一緒にいたから情がわいただけなのかな…そうかも知れないけど。でも、気がついたらその子のことが大好きになってて。中学生になって手助けがいらなくなっても私のことを頼ってくれたから、私は特別な存在だと思ってた。必要なんだって思ってたのに…急にもう忘れてって言われ…て…」


そこまで話して、急に香耶は息苦しくなって、ヒュッと大きく息を吸った。


息苦しいのは、いつの間にか泣いていたからだ。


言葉が出なくなって、ただ嗚咽を漏らすしかなかった。


どうして、あの時ちゃんと好きだと言わなかったんだろう。


好きだから一緒にいたんだと伝えられなかったんだろう。


遥斗が思うほど、私は遥斗といる時間が嫌じゃなかった。むしろ幸せだったのだと言えなかったのだろう。


伝えられていたら、もしかしたら私の隣に今もいてくれたかもしれないのに。


せめて、忘れたかった。


私じゃないひとが遥斗の隣にいるところなんて、見たくなかった。


部屋には、香耶の泣く声だけが響いた。


しばらくひとりで泣いて、顔を拭こうとベッドから手を伸ばしてベッドの脇にあったタオルを手に取って顔に当てた。


「…くさっ」


さっきまで雄星が首に巻いていたタオルは、汗の匂いがした。


「失礼だな、お前」


雄星は体勢を変えて振り返り、香耶からタオルを奪った。


「起きてたの?」


「起きてたよ、うるさいから」


「…ごめん。タオル貸してよそれ」


「臭いって言っただろ」


「いいの」


「めんどくさ…」


雄星はベッドから起き上がって、洗面所から持ってきた洗いたてのタオルを香耶に投げた。


「それで?」


「え?なにが?」


「なんかわかんないけど、話して気が済んだ?」


「…少しは」


「じゃあ…やらせてよ」


「は?」


「俺がやりたいんだからタダだよ。いいでしょ?」


拒否する理由は香耶にはない。


「…今?…私、汗臭いよ?」


「お互い様だろ」


雄星の汗の匂いは、不思議と嫌じゃなかった。


もう少し、いつもみたいに優しくしてくれてもいいのにと思うくらいの強引さと、香耶にかかる身体の重みも、嫌じゃないどころかもっと欲しいとさえ思った。


本能のままに求め合うとは、こういうことだろうか。


こんな男のことなど愛しているわけはないけれど、どうせ何もかも嫌になって死ぬとしたら、こんなふうに雄星に抱かれながらでもいいんじゃないかと香耶は思う。


「どうせ泊まるんでしょ?」


ベッドから降りてクローゼットを開け、雄星が香耶の着替えを探していると、ふと香耶には見覚えのあるものがあった。


「ねぇ、それ制服?」


「どれ」


「その端っこのハンガーにかかってるの」


「あー…そうだよ。一応、高校生だったから」


「西高?」


「うん」


「ふーん…」


「なんだよ。バカなんだなって思ってるだろ」


「まあね…でも…さっき話してた私の好きな人もそうなの」


「へえ…じゃ、頭良くないんだ」


「そんなことないよ」


「まぁでも…どちらにせよ俺は知らないな。去年の夏には辞めたから。早く風呂入って来て。早く寝たい」


雄星はクローゼットから出したスウェットの上下を出して香耶に放り投げた。


「…やだな…」


「文句言うな。それしかないよ」


「違うの」


「じゃ、なに」


「…寝たら明日になっちゃう…もう嫌だ…家に帰るのも学校も全部嫌だ…」


ーーーーーーーーーーーーーーー


意外だった。


そんなに、情のある人間だと思わなかった。


明日が来るのが嫌だと香耶は、結局お風呂にも入らずにずっと泣き続けて、子どものように泣き疲れて力尽き、寝てしまった。


その間、雄星は何を言ってくれるわけでもなかった。


先に風呂に入ると言って、戻ってきたかと思えばまだ泣き続けている香耶にうんざりしたような顔をしてため息をついて、背中を向けて先に寝てしまった。


その時は、やはり酷い男だと思った。


やることだけやって、そのあとは無関心なのだこの男は。


どうせ朝になったら、有無を言わさず外に放り出すのだろう。


けれど、すっかり眠りこけていた香耶を、雄星は自分の仕事に行く身支度をすっかり整えてから起こして「好きにしてろ。帰るなら鍵はポストに」と言って出かけて行った。


泣きすぎたせいで、頭がガンガンと痛い。


冷蔵庫を開けると、500mlのミネラルウォーターのペットボトルが何本か入っていたので、あとで買って返しておこうとそれを1本取って一気に飲んだ。


「…生き返った…」


そう呟いて、シャワーを借りて汗を流し、自分の脱いだ服と洗濯機に入れっぱなしの雄星の作業着を洗うことにした。ここ何日か天気が良くなかったが、今日はしっかりと乾きそうだ。


昨日から、すっかり存在を忘れていたスマホを開くと、母から何度も着信があった。


きっと、昨夜は香耶が帰らないことで大騒ぎだったんだろう。


けれど、返信する気も起こらない。


ここにいることなんて誰もわかるわけがない。


ここは安全だ。


誰も、ここに香耶がいることを知るはずもない。


狭くて、古くて、少しカビ臭いけれど、今の香耶にとってここは天国だ。


洗濯物をベランダに干したあと、しばらく雄星のベッドの上で枕元の本棚にあった漫画を読みふける。


そんなふうにして昼頃まで過ごして、ベランダに出ると今日の日差しはとても強くて、洗濯物はもう乾いていた。


ふと、勝手に洗濯なんかして怒られないだろうかと思ったが、好きにしていろと言われたのだからかまわないだろう。


それならと思い立って、水周りのカビや水垢が気になったので掃除をすることにした。


きっと、自分はひとに尽くすことが好きなのだ。


誰かのためになることが嬉しい性分なのだろう。


けれど、無償では嫌だ。


やはり、見返りは欲しい。


ありがとうと言って欲しいし、特別に思って欲しい。


見返りを求めるのはいけないなんて、本当にみんな心の底からそんな高尚なことを思っているのだろうか。


でも、あの男には関係ない。


感謝するどころか、どうせ余計なことをするなと言うだろう。


これはお返しだ。


ほんの束の間でも、安全な場所を提供してくれたのだから。


香耶は、今日はそのお返しを兼ねて雄星に尽くすことにした。


それに一生懸命になることで、家のこと、勉強のこと、遥斗のこと。そういう日頃のストレスを忘れていられる気がするのだ。


それにしても


家中…と言っても見渡せるくらいの範囲でしかないが、この家には全く女の気配がない。父親と暮らしているとはいえ、実質、男のひとり暮らしなのだなら少しはどこかにあってもいいものだ。


プライベートの女関係は全くないのだろうか。


まぁ、当然か。


心から愛して付き合っている彼女なんかいたら、あんな仕事はするわけないだろう。


香耶はすぐにそう納得した。


夕方になり、そろそろ雄星が帰ってくる頃かと思ったがその気配はなかった。


さすがにお腹も減って、かといって外に出るのも億劫で、台所のテーブルにあった食パンを1枚だけそのまま齧った。冷蔵庫を探したけれど、ジャムもバターもなかったからだ。


あぁ、そうか…


仕事か…


今頃、どこかで女に買われているのか。


どこかで見知らぬ女の言いなりになっているのか。


昨日、香耶のことを抱いたのもたまには主導権を握りたかっただけだろう。


そう思うと、急に齧っていた食パンが不味くなった。


「…なにしてんの…私」


あんなに平穏だった1日がまるで幻だったかのように、虚しい。


味のしない食パンを、どうにか喉に詰め込んだ時、ドンドンとドアを叩く音がした。


誰だろう。


雄星はいないのに、返事をしないほうがいいだろうか。


けれど、台所の電気は外に漏れているはずだから無視するのも不自然だろうか。


香耶がドアの前で思い悩んでいると


「開けて。俺」


雄星の声だった。


「…びっくりした…知らない人だったらどうしようかと思って」


「なんでだよ。帰ってくるに決まってるだろ」


雄星はテーブルの上にスーパーの袋を置いて「どうせ帰ってないと思った」と呆れたようにため息をついた。


「晩御飯、買って来たから。先に食べてていいよ。シャワーして来る」


「また出かける?」


「なんで?どこも行かないよ」


「…ううん…別に…」


袋を覗くと、半額シールの弁当がふたつ入っていた。


先に食べていいと言われたが、さっき食パンを食べて少しお腹は満たされたし、香耶はそれをレンジで温めてテーブルに並べ、雄星を待った。


「もしかして、掃除した?」


「…した。勝手にごめんなさい」


「なんで?別に謝ることじゃないし」


「泊めてもらったし…」


「お前、帰る気ないだろ」


「なんで?」


「着替えてないしスッピンだし」


「…ごはん食べたら着替えるよ…」


「いいよ」


「え?」


「別に。気が済むまでいても」


「…いいの?」


「ヤケになっておかしなとこ行くよりマシだろ」


「…ありがとう…」


掃除も、洗濯も、ありがとうとは言ってくれなかった。


けれど、そんな言葉はいらないくらい香耶は嬉しくて泣いた。


「よく泣くな、お前」


雄星は、一年前のことをふと思い出した。


あの時も、遥斗が家出して転がり込んできたのが始まりだった。


だから、香耶にはあまり同情してはいけない。


深く関わってはいけない。


ただ、こうやって誰かが家にいると、改めて雄星は自分がひとりでいることが寂しいのだと自覚する。自由で、気ままで、誰になにを言われることもなく暮らしていけるけれど、誰かといることで生じる少しの不自由さが心地よくもある。


香耶は、その次の日も帰らなかった。


その次の日もだ。


雄星が、おかしなところに行くよりマシだと言った通り、香耶は家に帰る気などなかった。だから、雄星に追い出されたらどこに行こうかと考えていた。


お金はない。


香耶には、女子高生というブランドがある。


パパ活でもして、身体でも売って、お金を作ってどこかに行ってしまおうか。そんなことすら考えるくらいに、香耶は追い詰められていた。


でも、そうなればきっともう帰りたくなっても帰れないだろう。


もしかしたら、いっそのこと電車に飛び込んでいたかもしれない。


気が済むまでいてもいい。


その雄星のひと言が香耶を救ったのかもしれない。


香耶は家にいる間、洗濯や掃除をしたり、土地勘はなかったけれど近くのスーパーに出かけて雄星に頼まれた買い物をしたり、簡単に晩御飯を作ったり、出来る限り恩を返そうと尽くした。


夜はふたりで同じベッドに寝たけれど、雄星が手を出したのはあの初めの日だけだ。


それでも、香耶はそれで良かった。


雄星に金を払ってまで発散していたストレスが、今はないのだから求める必要もないからだ。


けれど、雄星の家に来て5日目だろうか。


仕事を終えて帰ってきた雄星が、香耶の作った晩御飯を食べて風呂に入ったあと「ちょっと出かける」と言って出ていった。


香耶は、それがなんなのか察した。


雄星は、仕事に行くのだ。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「あのマンションやっと完成するのね。トラックとか頻繁に出入りしてて危なかったからやっと安心出来るわね」


駅からバイト先に向かう途中、そんな会話を耳にした春奈は、雄星の働いている建築現場のビニールの壁が取り払われていることに気づいた。レンガ風の外壁がオシャレな建物が姿を表して、既に足場は取り払われていた。


「あの…」


春奈は慌ててそこに駆け寄り、もう仕事を終えるところなのか顔を覆っているタオルを外してヘルメットを取った雄星の姿を見つけて声をかけた。


「なに?」


声をかけたものの、何も話すことを決めていなかった春奈は「…えっと…あの…」と口ごもった。


「…工事、終わるんですね…」


「そうだね」


「じゃ、ここからいなくなるんですか?」


「まぁ…そりゃね。また別のところに行くよ…それがなに?」


「…別に…」


「新学期までに終わって良かったよ」


「…なんで?」


「どうせ遥斗に聞いてるんだろ?俺のこと」


「…はい」


「俺がいつまでもここにいたら、会っちゃうでしょ?…遥斗も会いたくないだろうし」


「なんで…そんなこと言うんですか。会いたくないなんて…遥斗のこと怒ってるんですか?」


「…怒ってないよ」


「だったらなんで知らないふりしたんですか」


「…確認なんだけど」


「…はい」


「遥斗の彼女?」


「そうです」


「そっか…それなら、幸せそうだし別にいいんじゃないの?悪い友達のことは忘れた方がいいって言ってやってよ」


「幸せじゃないです!」


春奈はつい、大きな声で言った。


通行人が春奈の方を振り返る。


「…遥斗はまだ立ち直れないんです…まだ苦しんでます…私は、それを見ているのが苦しいです…」


「だから?俺にどうしろって言うの?…俺のせいでごめんなさいって謝ればいい?」


「…はっきり言って私は、あなたのせいだと思います。そんな人に二度と近づかないで欲しいです」


「だったら問題ない」


「遥斗がそうじゃないんです!」


「知るかよ!」


雄星が声を荒げたので、思わず春奈は後退りした。


「イライラさせんな、どいつもこいつも。いいか?俺は遥斗にとって何者でもないんだよ。あいつと一緒にいたのはほんの1ヶ月くらいのもんだ。長い人生のうちのそんな短い時間のこと、いつまでもウダウダ言ってんじゃねえって伝えといてくれよ。俺はお前らと違って暇じゃない」


雄星の言うことは最もだ。


誰しも、長い人生の中で辛い経験は何度もあるだろう。他人に嫌な目に合わされることもあるし、少なからずトラウマのひとつやふたつはあるもので、みんなそれを抱えて生きている。


忘れようとしたり、誤魔化したり、気持ちを切り替えたりして。


だから、遥斗だっていつかはそんなこともあったなと言えるようになるのかもしれない。


晴奈は、これまで呑気に生きて来すぎたのだと自分で思う。


髪色や顔立ちなんかをからかわれたり誤解されたりして嫌な気持ちになることはあったけれど、そんなことは晴奈自身の心の持ちようで、なんなら得だと思うことも出来る。


ちっぽけな悩みだ。


怖い夢にうなされることもない。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


カンカンと外階段を上る音が微かに聞こえた。


なんとなく、その足取りが重い気がする。


香耶は台所のテーブルに突っ伏してウトウトしていたけれど、その足音を敏感に感じ取った。


遅くなるからと、雄星は鍵を持って出かけたので、きっと香耶はもう寝ていると思っているだろう。


ガチャガチャと古い鍵を回す音がして、外灯の微かな光が真っ暗な部屋を照らした。


「…びっくりした。電気つけろよ」


「おかえり」


「風呂入った?」


「うん」


「じゃ、俺も行ってくる」


「出かける前に入ったでしょ?」


「いいだろ別に」


カバンを玄関に置いて、そのまま風呂に向かった雄星を少し遅れて追いかけて、香耶は脱衣場に脱いだ雄星の服を洗濯機に入れた。


キツめの香水の匂いが鼻をつく。


古臭い匂い。


「気持ち悪い」香耶は顔をしかめながら、必要以上の量の洗剤を入れて洗濯機を回した。


「着替え…あるの?」


脱衣場から呼びかけると「あ、忘れた」と雄星が答えた。


「適当に出すね」


自分の手にまで、古い香水の匂いがついている気がする。


台所で、食器洗い洗剤を泡立てて手を洗ってから、雄星の部屋着を持って脱衣場に戻ると「もう洗濯機まわしてんの?」と言いながら雄星がドアを開けて顔を出した。


「だって臭いんだもん…ババア臭い…」


「そこどいて。出るから」


洗濯物を空いている部屋のカーテンレールに干して匂いを嗅ぐと、洗濯洗剤の匂いが香水の匂いを消してくれていた。


雄星の父が使っているのであろう部屋はカビ臭く、カーテンは変色していた。


もうしばらく部屋の主は帰っていないのだろうか。


香耶はシーツが剥がされてマットレスがむき出しになっているパイプベッドに座って、しばらくその洗濯物の匂いを吸い込んで深呼吸してから、雄星の部屋に戻った。


雄星はすでに壁際を向いて寝ようとするところだ。


隣に寝転んで、そっとその背中と髪を嗅いでみた。


シャンプーと石鹸の匂いに安心する。きっと雄星もあの匂いを落としたくて仕方がなかったのだろう。


「ねえ、いつまでその仕事するの?」


「…さあ?」


「もう、やめたら?」


「どの口が言ってんだ」


「…そうだけど」


「そうだな…宝くじでも当たればやめるかな」


「買ったことあるの?」


「ないよ」


「じゃ、駄目じゃん」


「まぁ…大事にしたい人でも出来ればやめるんじゃない?」


「彼女が出来たらってこと?」


「そんな感じかな?わかんないけど」


「…じゃ、私と付き合う?」


雄星が肩を震わせて笑って振り向き「はあ?」と香耶の顔を覗き込んだ。


「調子のんなよ」


「いいじゃん別に」


「嫉妬する女は無理」


雄星は気怠そうに小さく「…よいしょ」と言ってベッドから起き上がり、クローゼットを開けて、着なくなった制服の内ポケットに手を突っ込んで、折りたたんでシワになった茶色の封筒を出して香耶に向かって投げた。


「…なによ」


「それ、やるから帰れよ。親に返して謝れ」


封筒を覗くと、一万円札が何枚かまとまって入っていた。


「なに?これ」


「お前が今まで俺に払った分」


「なんで?」


「子どもから巻き上げた金で飯が食えるかよ」


「…バカにしないでよ。そんなの返してもらわなくていい!」


バンッと大きな音を立ててクローゼットが閉まる音に、香耶はビクッと肩をすくませた。


「じゃ、手切れ金な。二度と来るな」


「嫌だ」


「出ていけ!」


香耶は雄星に腕を捕まれ、玄関まで床を引きずられるようにして連れて行かれた。


「ちょっと待ってよ!こんな時間にどうやって帰れって言うの?」


香耶が言うと、雄星は舌打ちして手を離し、香耶はその勢いで台所の冷たい床に転がった。それを横目で見下ろし、雄星は黙って部屋に帰り中から鍵をかけてしまった。


雄星の逆鱗に触れてしまった。


雄星に投げつけられた封筒は、香耶の手の中でぐしゃぐしゃになった。


こんな、ぐしゃぐしゃになるような薄っぺらい封筒に入る程度の金でひとの身体を買っていたのかと思うと、情けなくて涙が出た。こんなもので、優越感に浸ってひとを見下していたのかと。


「ごめん…ごめんなさい」


泣きながら床を這いずって、雄星の部屋のドアを力無く叩くけれど、返事は返ってこない。


「ごめんなさい…」


泣いているのは、雄星にバカにされて悔しいのか、それとも自分の愚行を恥じているからなのか。


それとも、雄星に拒絶されたからなのか。


あんな男、好きなわけがない。


冗談のつもりで付き合ってみるかと言った。


ただの冗談を拒絶されただけで何故こんなに悲しいのか。


そもそも、どうして雄星から知らない女の香水の匂いがしたことがあんなに悔しかったんだろう。どうして、好きでも無い男に嫉妬したんだろう。


「…ごめんなさい。…始発で帰るから。ごめんね」


朝になったら、この家を出よう。


もう、誰も私のことなど愛してくれない。


始発の電車が出たら、すぐそこの踏切に飛び込もう。


そして、粉々になって跡形もなく消えるのだ。


雄星は、そんな事故があったことすら気づかないだろう。


私が死んだことも知らずに、いつものように仕事に行くのだろう。


「だから…お願い。隣で寝かせて」


しばらくして、部屋の鍵が開く音がして、香耶がそっとドアを開けると雄星はもうベッドに戻って香耶に背中を向けていた。


香耶はその背中を見ながら、まぁこんな人生の終わり方も悪くないかと思う。


愛はなかったけれど、初めての男にこっぴどくふられて人生が終わるのも悪くない。


人間はどうせ死ぬんだ。


もしかしたら、死にたくなくても明日死ぬ運命だってあるのだ。


香耶は、熟睡した気はしなかったが、なんとなく夜明け前に微睡んでいたようだ。


ハッとしてベッドから起き上がった時には、雄星が隣にいなかった。


始発に出ると言ったのに、もうそんな時間だったのかと部屋の時計を見ると、雄星が仕事に出るにはずいぶん早い。なんなら、まだ始発は出ていないだろう。


真夏でなければ、日も昇っていないはずだ。


「雄星?」


部屋中を探す。


こんな狭い部屋を探し回って、風呂場まで見てもその姿はなく、まさかと思いながらもベランダから下を覗いても見つからない。


「まさかね、飛び降りる理由なんて……」


それに、2階から飛び降りたところで死ぬわけもないだろう…そう呟いた時、香耶の背中は冷水をかけられたようにゾクッと鳥肌がたった。


「そんなわけ…」


台所のテーブルには、昨日雄星が帰ってきて置いたままのカバンがそのままあった。


香耶は外に飛び出そうと靴を履くが、焦りすぎて何故かうまく履けずにイライラした。


自分が雄星に借りた着古したTシャツとスウェット姿だということも忘れて、アパートの階段を駆け下りて走った。とはいえ、こんな時間に外を歩いているのは犬の散歩をしている人くらいだろう。


(雄星!)


走り出して、ほんの5分ほどで雄星の姿を見つけた。


香耶は名前を叫んだつもりだったけれど、喉が貼り付いて声が出ない。


昨日の夜、ずっと眺めていた雄星の背中を追った。


カンカンと踏切の警報機がひとの気配がない町に響く。


「雄星!」


警報機の音に香耶の走る足音と気配が隠され、香耶の存在に気づいていなかった雄星は、いきなり後ろから襟を掴まれて引っ張られ、弾かれるように後ろに倒れた。


倒れた雄星に、香耶は覆いかぶさる。


「雄星!なんでよ!」


雄星に覆いかぶさった香耶の後ろを電車が通り過ぎて、その風が背中を撫でていった。


雄星は香耶の肩越しに過ぎ去る電車を目で追って、やがて電車の音が遠ざかり聞こえなくなると、香耶の腕をつかんで突き飛ばした。


「お前…鬱陶しいんだよ」


「なんで死のうとするの」


「…お前はどうなんだよ」


「…私?」


「どうせ、家に帰る気なんてなかっただろ。どこかに消えるか…死ぬつもりだったんだろ」


雄星に突き飛ばされて地面に尻もちを着いた格好のまま、香耶は黙り込んだ。


「俺は、すぐにこうやって誰かに情がわいてしまう。けど、結局はどうしてやることも出来ないんだ。どうしても悪い方へ悪い方へ変えてしまう。救いを求めてくれるのに、いつももっと苦しめてしまう…」


「雄星…」


「俺だって…苦しいんだよ」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「痛いってば…」


香耶の膝には擦り傷がいくつも出来た。


雄星を止めようとした時の傷だ。


雄星はその膝に、カバンから絆創膏を出して貼りながら「ごめん」と小さい声で言った。


俺だって苦しいんだよと雄星が言ったあと、香耶は傷だらけの膝をついて、雄星を抱きしめて言った。


私は、そうはならない。


自分でも、何を言っているのかと香耶は可笑しくなった。


雄星に出会って、自分が勝手に堕ちるところまで堕ちて、死のうとしていたくせにと。


けれど、香耶がそう言うと雄星は香耶の腕を掴むようにして声を殺して泣いた。ずっと、そのあと何本も電車がその踏切を通り過ぎるまでそうやって泣いていた。


「ちゃんと…家に帰るから。すごい怒られると思うけど大丈夫だから。これは全部私が勝手にしたことよ。ひとつも雄星は悪くない。…だから、雄星も私のことで苦しまないで。…あとこれ」


香耶はくしゃくしゃになってしまったあの封筒を手で伸ばして台所のテーブルに置いた。


「これは使っちゃったものだからもういらない。親にはちゃんと自分でバイトして返す。雄星がもし使うの嫌だって言うなら…これで部屋のカーテンとベッドのシーツ買い換えて。臭いから」


「…わかった」


雄星が仕事に行く少し前に香耶は家を出ることにした。


駅まで送ろうかと言われたけれど、せっかく家に帰るつもりになったというのに2人乗りで補導されたくはないし、ゆっくり歩きたかった。ゆっくり歩いて、まず親に会ったらなんと言うか考えなくてはいけない。


お金を無断で使ったうえに、何日も音信不通で家出をしたのだ。


「やっぱ緊張するね…」玄関のドアを開ける手が震える。


こんな時にも、この男は気の利いたことのひとつも言えないのかと香耶は思う。仮にも助けてやったのに。


「…いいから」


「え?」


「どうしてもダメなら戻ってくればいいから」


雄星にそう言って抱きしめられて、やっぱり生きたいと香耶は思った。


また、こうして抱きしめられたい。


私を救ったことを、誇りに思えるようにちゃんと生きていきたい。


やっぱり私は、誰かと寄り添わないと生きてはいけない。