「腹減ってない?」


台所から、ドアを開け放した部屋に向かって雄星が呼びかけた。


「減ってない。ごはん食べたの遅かったもん」


「何食べたの?」


「イタリアン。ピザとパスタと」


「食いすぎ」


「ひとりじゃないよ。あ、女の子とね」


「別に。男でも女でもいいよ。彼氏じゃあるまいし」


香耶が雄星に借りた部屋着を着ながら薄暗い部屋を出て、古い台所に立っている雄星の隣に立った。


「何か作るの?」


「でもお前が食べないならいいや。アイスにしよう。アイスなら食べる?」


「食べる」


冷凍庫には、抹茶とチョコレートのアイスが2種類。


香耶は迷うことなく抹茶を選んで、テーブルで雄星と向かいあわせでアイスを食べ始めた。


「ピザ美味かった?」


「うん...まあまあ...高かったしね」


雄星と会うのは、もうしばらく無理だろう。


先月と今月の小遣いは底をついた。


他の子に比べれぱ小遣いは多いものの、今日なんかはつい晴奈に良い格好がしたくて、育ちの良さをアピールしたくて、少し背伸びをした。あんなところ、普段は家族に連れて行ってもらうくらいだ。


「...そうだ...インターホン壊れてるよ」


「うん、知ってる。別にいらないでしょ」


「...まぁ...確かに」 


玄関のドアを叩く音どころか、シャワーの音も冷蔵庫を開け閉する音も、なんならちょっとした内緒話すらどこにいても聞こえそうな狭さと壁の薄さだ。


香耶の声もどこかよその部屋に聞こえているかも知れない。


「アイス食べたらもう寝るよ、俺は明日仕事だし。朝、その前に出て行けよ」


「...わかった」


雄星は受け答えが冷たい。


お金を払えばなんでもしてくれると言った。  


ならば、もし充分なお金を払えば彼はもっと香耶の話に優しく答えてくれるんだろうか、お姫様のように扱ってくれるんだろうか。


私の奴隷になってくれるのだろうか。


例えば、そう。


その玄関先に脱ぎ捨てた履き古した私の靴も、膝まづいて舐めろと言えば舐めてくれるんだろうか。


「なにニヤニヤしてんの?」


「別になにも」


ーーーーーーーーーーーーーーーーー


朝、雄星が家を出る少し前に追い出された香耶はトボトボと重い足取りで駅までひとりで歩いた。


家に帰るのが憂鬱だ。


とりあえず、その場しのぎは出来たものの塾を黙って休んだことは怒られるだろう。


面倒くさい。


どこかに寄って少し時間を潰してみようかと思うけれど、財布の中はほぼ空だ。


困ったことに、家を出てから思い出した。


明日、部活の仲間でカラオケに行こうと約束していたのだ。まぁ、学生だし平日フリータイムだし、なんとかいけるか。


いや、でもその後でごはんを食べようとか言われたらやっぱり足りない。


香耶には昔からしっかり者のイメージがどうしてもつきまとう。


だから、例えば誰かがお財布を忘れたとか、お小遣いがピンチだとか言い出せば、貸してあげたり、負担にならないような遊びにしようと呼び掛けてあげたりするのは香耶の役目だ。


だから、まさか自分がピンチだなんて言い出せない。


言えば助けてくれるだろうけれど、香耶自身がそのポジションになることが許せない。甘えることが出来ない。


「ただいま...」


かと言って


親にお小遣いを強請るタイミングとしても最悪だ。


いや、それとも親に塾をサボったことを叱られて外出を禁じられたと言おうか。


「香耶、おかえり。体調どうなの」


母は、意外に優しく出迎えてくれた。


どうやら、香耶の嘘をちゃんと信じてくれているらしい。


「...大丈夫。友達の家で休んだら良くなった。課題、もらって来たから部屋でしてくるね」


「無理はしなくていいけど、今から頑張らないと後で大変なんだから頑張ってね」


「わかってるよ」


香耶の両親の叱り方は、基本的に大きな声を出して頭ごなしということはない。


口調こそ温和であるが、そこかしこに香耶は優等生であるべきというプレッシャーを感じる。


思えば、遥斗のこともそうだ。


体の不自由な幼なじみは、香耶の優等生ぶりを引き立てるために最適であったと思う。


毎日、遥斗のために早く家を出て歩幅を合わせて歩き、幼稚園や学校の生活でも手助けをする。


晴奈は、遥斗はなんでも出来るのだから手助けなどおこがましいと言うが、そんなことはない。


幼稚園や小学校の低学年の頃なんて、皆がまだ心身ともに成長しきっておらず、出来ることや出来ないことの差があって当たり前だ。特に幼稚園から小学校にあがった時などその生活の違いに慣れるために誰もが必死なのだ。


その上、遥斗のように身体に不自由があれば尚更だ。


そんな誰もが必死な中で、もちろん香耶もそうだった。なのに、それに加えて遥斗のことも補ってやらなければいけなかった。


「香耶ちゃん助かるよ」


「香耶ちゃん偉いね」


「香耶ちゃんいつもありがとう」


正直、泣き言を言いたい時もあったけれど、大人にそうやって褒められることは自身にも喜びであったし、なによりそれを傍で聞いている両親の誇らしげな顔も嬉しかったのだ。


香耶は、それが自分の存在価値なのだと思っていた。


大人だけではない。


遥斗がみんなについていけなくて不安な顔をしていても、自分が助けてあげれば笑顔で「ありがとう」と言ってくれる。


それが、なによりだった。


だから、遥斗がいなくなってからはまるで自分の価値が半分になった気がした。


頼れるしっかり者の欠けてしまったパーツを埋めるのに必死になった。


香耶は、部屋のベッドに財布の中身をばら撒き、残った金額を数えた。


いくら数えても増えるわけもなく、ため息をついてそのままベッドに寝転んだ。


私も、雄星のように身体を売ればいいのか。


そして、それで彼を買えばいいのか。


いや、そもそもどうしてそんな想いまでして、大金を払ってまで会いに行かなければいけないのか。


彼のことが好きなのか。


いやまさか。


ただ顔がいいだけで、こんな年端もいかない高校生から容赦なくむしり取った金で生きているような男だ。改めてそう考えると虫唾が走る。


好きな顔の男に抱かれることは、ストレスの発散だ。


なのに、ストレスは容赦なく増えていく。


両親の期待も、自分自身の優等生へのプライドも、遥斗のことも、晴奈のことも。


だから、香耶は雄星にどんどん依存していく。


私はしっかり者の優等生なのに、何故あんな男に依存し見下されなくてはならないのか。


そしてまたそれもストレスになる。


大きな声で狂ったように叫べば、少しくらいスッキリするだろうか。


今、そんなことをしたらきっと母が血相を変えてとんでくるし、下手をしたら病院行きかもしれない。それは困る。


心配して束縛されても困る。


私の自由はどこにあるのか。


どうせ、私の価値なんて学校のカバンの中にしかない。


ーーーーーーーーーーーーーーーー


8月が始まった。


晴奈は遥斗のおかげで夏休みの課題をすっかり終わらせてしまった。


夏休みの宿題なんて小学生の頃からまともに新学期までに仕上がったことなんてない。けれど、今年は遥斗もお互いの家を行き来して一緒に課題を進めるのが楽しかったし、終わったら晴奈の行きたいところに遊びに行こうと遥斗が言ってくれたから頑張った。


本当は、海を見に行く予定だった。


遥斗はあまり乗り気じゃなかったけれど、晴奈の行きたいところに行くという約束をしてしまったからには、しぶしぶ付き合うことにした。


けれど、朝から雨が強く降った。


「雨だね、残念」


遥斗がそう言うのを「嬉しそう」と皮肉に感じてしまうほどには晴奈はガッカリしていた。


電話越しにも晴奈が落ち込んでいることは伝わっただろう。


遥斗は「でも、行こうよ」と言った。


「海に?」


「うん。行こうと思ってた海水浴場の近くに晴奈が好きそうなカフェがあるよ。海が見えるってさ。それに、昼頃には雨も少しマシになるみたい。そしたら、砂浜を散歩するくらいは出来るんじゃない?」


「...調べてくれたの?」


「なにが?」


「私の好きそうなお店調べてくれたの?」


「そうだけど。なんで?」


付き合う前から、遊びに行くところやごはんを食べるお店を決めるのは絶対に晴奈の方だった。どちらかというと、晴奈の行きたいところ、やりたいことに付き合ってもらうことばかりだ。


今日も、海に行くと決めたのは晴奈だし、なんなら乗り気じゃない遥斗を強引に付き合わせるつもりだった。


だから、晴奈が雨でガッカリしているだろうと思って、それでも出来るだけ晴奈の希望を叶えてくれようと調べてくれたのが嬉しくて、晴奈は泣きそうだった。


「だって、そのために課題頑張ったんでしょ?行こうよ」


電車を乗り継いで、駅を出ると潮の香りがした。


駅のまわりは観光地になっていて、水族館やお土産物屋が立ち並んでいるが、雨のせいで歩く人はまばらだった。海を見ながら土産物屋の通りを抜け、堤防沿いに歩いていくと、海水浴場の砂浜に降りるコンクリートの階段がある。


それをひとまず通り過ぎると、白い一軒家のような佇まいの店が見えた。


雨は未だ強く、ビニール傘をバタバタと叩く。


時折、車道を走る車が水しぶきを跳ねあげるので、車道側を歩く遥斗の色の薄いデニムは濡れて色が変わってしまっていた。


「大丈夫?遥斗」


「大丈夫だよ」


ようやく、目的のカフェの軒下にたどり着いて傘を閉じていると、中から店主らしき長い髪をお団子にまとめた女性が出てきて、タオルを貸してくれた。


「こんな雨の中、ありがとうございます」


店内には、間もなくお昼時だというのに2組ほどの客がいるだけだ。きっと、天気さえ良ければ海水浴や観光の客でごった返しているのだろう。


空いているおかげで、遥斗たちは海側の大きな窓の席に座ることが出来た。


けれど、雨は強く霞がかかっていて、決して景色が良いとは言えない。


店主が持ってきたメニューには、晴奈が好きなフルーツのたくさん乗ったパンケーキや、フレンチトーストもあって、それを眺めているだけで楽しい。


「好きそうでしょ?晴奈」


「うん、ありがとう遥斗」


「良かった」


晴奈は嬉しそうにメニューを眺めて、ベリーとチョコレートソースがかかったパンケーキを選んで、遥斗は甘いものの気分じゃないと言ってトマトソースのパスタを注文した。


ふたりの注文したものが届いた頃には、予報通り少し雨音は静かになり、空が明るくなりはじめた。


「食べ終わったら散歩出来るかもね」


「うん。来て良かった...パンケーキ美味しいし。雨で諦めなくて良かった」


「うん」


遥斗が半ば強引に晴奈を海に連れ出したのは、雨だったからなのかもしれない。


夏の雨は、遥斗の胸を締めつける。


ひとりで雨の音を聞いて過ごすのが辛い。


あの時の記憶と、雨の音と、血の匂いが今も鼻の奥にある。


「遥斗、どうしたの?」


「ん?ううん、なにも」


晴奈もまた、不安になる。


出会った頃より、遥斗は明るくなったと思う。いろんなことを話してくれるようになった。


それでも、まだ時々、目が陰ることがある。


今もそうだ。


「ありがとうございました」


遥斗たちが店を出る頃には、雨はほとんど止んでいた。


「あの...砂浜に降りたいんですけど、どこから降りるのが一番いいですか?」


晴奈が見送ってくれた店主に聞くと、店主は遥斗の様子を見て察したようで「駅から少し遠ざかりますけど、あっちのほうへ少し歩いてもらえば大きくて緩やかな階段で降りられますよ」と的確なアドバイスをして、ふたりが来た道と逆のほうを指した。


「ありがとうございます。ご馳走様でした」


店主の言う通り、店を通り過ぎてしばらく行くと、さっき見つけた急でひとりしか通れないような階段ではなく、ちゃんと手すりもあって安全な階段があった。ふたりは傘を閉じて、並んで砂浜に降りた。


やっと顔を出した太陽が、キラキラと海に反射した。


「私、今日起きて雨だったからすごく悲しかったんだよね」


「うん。泣きそうな声だったもんね」


「でも...雨で嬉しかったかも」

 

「なんで?」


「雨だったから、遥斗が雨でも楽しめるようにって私の好きそうなところ調べてくれたのすごく嬉しかったし、こうやって誰もいない海を遥斗とふたりきりで見るのも楽しい」


「...そっか。良かった」


「それに、歩いてる時も遥斗が車の通る方を歩いてくれたでしょ?私...ちゃんと遥斗に大事にしてもらってるって思えて本当に嬉しいよ。ありがとう」


「なにそれ」


「なにそれってなに?」


「別に」


「照れてるの?」


「別に」


「...もう...いいけどさ」


晴奈は不貞腐れて、繋いでいた手を離して、ザクザクと足音をたてて波打ち際に近づいた。遥斗はそれを追うように歩いて、隣に並んでまた晴奈の手を握る。


「俺は雨が嫌い。忘れたくても忘れられない嫌な思い出があるから」


晴奈はその手をぎゅっと握り返して、黙って遥斗の横顔を見上げた。


「だから、今日は雨で良かった。雨の日に晴奈と過ごせて良かった」


「じゃ、これからずっと雨ならいいのに」


「なんで?」


「そしたら、毎日遥斗に会いにいく理由出来るじゃん」


遥斗はふふっと笑って「それもいいかもね」と言った。


「ね、このあとどうする?遥斗なにしたい?」


「んー...ゲーセン」


「ゲーセン?」


「涼しいから」


ーーーーーーーーーーーーーーー


夏休みのショッピングモールのフードコートは家族連れでごった返して、子供の泣き声や、学生グループの喋る大きな声で頭の中が混乱しそうだ。


「駄目だね、空いてないしうるさい」


香耶は塾の夏期講習が終わり、同じ塾の友人たちと晩御飯を食べようとフードコートを訪れたが、やはりフードコートはやめて最上階のレストラン街に行くことにした。


晩御飯だけでなく、学校と塾の課題も一緒にやろうということだったので落ち着いたところがいいのは当然だが、フードコートなら千円程度で充分なはずの出費も、レストランとなるともう少しかかってしまう。


どうせ食後にはデザートも食べるのだろう。


それなら、コンビニでデザートでも買って家に帰ってごはんを食べてひとりで勉強したほうがいいと香耶は思うけれど、これが女同士の付き合いというものだ。


これを蔑ろにしては、社会生活に不便が起きる。


仲間はずれなどになっては大変だ。


女社会とは、そういうものだ。はみ出てはいけない。


8月に入ってすぐのこの出費で、もらったばかりの小遣いはそこそこ減ってしまう。


まぁ、こんな風にみんなと塾の帰りにごはんを食べるくらいなら、そんなに困ることはないくらいは貰っている。なんなら、少し足りなくても、欲しいものがあれば両親に頼み込めばいい。


けれど、香耶はこんなくだらないことに使っている場合では無いのだ。


夏期講習が終わるまでこの調子なんだろうか、平日なら何とかフードコートで安く済むだろうか、いや夏期講習が終われば終わったで打ち上げで遊びに行こうとならないか。


月々の小遣いでは雄星に会える訳もなく、そこにこれまでのお年玉を貯めた通帳から少しづつ足して使っている。


それも、いつまでもあるわけではない。


それに、これは使ってはいけない、巣立つ時のために残しておくのだと両親に言われているのだ。


フードコートからレストラン街に向かう途中、ゲームセンターの前を通りかかった時だ。


こんな時に、嫌なものを見てしまったと香耶はため息をつく。


「ごめん、先に行ってて。パスタのお店だよね?」


香耶は友人たちから離れ、ゲームセンターの中に入り、クレーンゲームの前に立っていた晴奈に声をかけた。


「こんにちは」


「…こんにちは。この前はご馳走様でした」


「ひとり?遥斗は?」


「ちょっと今…トイレに」


「ふーん、いいねデート。夏休み満喫してて」


「…まぁ…」


「あ、気にしないで続けてよ。私も1回してみよう」


晴奈はクレーンゲームにコインを入れたところらしく、ゲーム機のボタンが点滅していた。香耶はその隣のクレーンゲーム機にコインを入れたが、別にその景品に興味はない。


晴奈をからかいたいだけだ。


「ゲーセンなんかでデートなの?」


「いや、朝から海行きました」


「雨なのに?」


「まぁ…楽しかったんで」


「ふーん…この後は?」


「この後…は決めてないけど」


「家に行ったりするの?」


「たまに」


「…へえ」


晴奈はゲームのクレーンを動かしたけれど、香耶が何を考えて話しかけてきたのかわからず気持ちは動揺するだけで、晴奈のクレーンは何もつかまずに帰って来た。


対して、その隣で香耶は器用に景品を掴んだ。


「ねえ、もう遥斗とどこまでいった?」


「は?」


「家行ってんでしょ?やることやってんのよね」


「やめてよ、そういう話」


「…なんだ。まだ何もないとか?嘘でしょ?本当に付き合ってんの?」


香耶は、手に入れた景品のぬいぐるみを晴奈に押し付けた。


「ほんとは、遥斗も別に好きじゃないんじゃない?」


その時の晴奈の顔を見ただけで香耶は、ほんの少しストレスを発散出来た気がした。


遥斗が戻ってきたのは、香耶が友人たちのところに戻ろうと晴奈に背を向けて歩き出した時だった。


「遥斗。久しぶり」


「香耶、ひとり?」


「ううん、友達と。たまたま遥斗の彼女さんと会ったからちょっとお話してたの。またね」


香耶が立ち去ったあと、晴奈を探すと晴奈は遥斗と離れる前にいたクレーンゲームの前にいた。


「…まだ取れないの?」


「うん」


「香耶と話してたの?」


「うん」


晴奈は遥斗の顔を見ず夢中でクレーンを動かす。


けれど、そのクレーンは空を斬って戻る。


「晴奈。ちょっとおいで」


遥斗は晴奈の手首を掴んで、ゲームセンターを出て人の少ないトイレの前のベンチに座らせて「なんか言われた?」と聞いた。


「なんで?別に?」


「じゃ、なんでそんな泣きそうな顔してんの」


「してないよ」


「してる」


「…欲しいぬいぐるみ取れないんだもん…」


「嘘」


「嘘じゃないよ。遥斗は私の気持ちなんかわかんないでしょ?」


「だから、なんで急にそんなこと言い出すの。変だよ。香耶となんかあったんでしょ?言えよ」


「…本当に…付き合ってるのかって言われた」


「は?なにそれ」


「付き合ってるのに、何もないのかって…好きじゃないんじゃないかって…」


香耶のことは、ずっと怖かった。


バイト先で話しかけられた時も、待ち伏せされた時も、香耶が晴奈に会いに来るその度に彼女から感じる悪意がはっきりと輪郭を表していた。


けれど、それを遥斗に言うのは嫌だった。


香耶が昔のことを晴奈にマウンティングするのと同じで、彼女という立場を使って一方的に遥斗を味方につけたくなかった。


自分でなんとかしよう。


そう思っていた。


けれど、今日言われたことが耐えられなかったのは、自分自身も不安に思っていたことだからだ。そのど真ん中にトドメを刺された気がした。


「なにそれ…」


「私も…そう思う…遥斗は私のことを大切にしてくれてるから何もしないんだって思うことにしてたけど…でも…私のこと好きじゃないからかもって…思うじゃん、そんなの言われたら」


我ながら、みっともないと晴奈は思う。まるで、自分から求めているみたいだ。


身体の関係などなくても、遥斗は自分を大切にしてくれているとわかっているけれど、香耶の言うことに動揺してこんなことを遥斗に言ってしまう。


それくらいには、やはり自分も不安があったのだ。


「わかった」


遥斗は、そう言うと立ち上がって晴奈の手をまた握って立ちあがらせた。


「晴奈のこと好きだってそれで証明出来るならしようよ。どこでする?俺ん家でいい?」


ーーーーーーーーーーーーーーー


「…やっぱり…やめようよ」


遥斗の部屋には何度も来たことはあるし、遥斗のベッドに寝たことだってある。いい匂いがして、よく眠れて、晴奈はそこがとても好きだ。


けれど、そこで遥斗に抱きしめられている今は、何故かただ怖い。


でも、これは自分が望んだことだ。


愛されていないなんて言って、困らせたからだ。


「なんで?こうしなきゃ信じてくれないんでしょ?」


ずっと望んでいた遥斗とのキスも、遥斗の体温も、見下ろす視線も、全部が冷たく感じた。


こんなに、冷たい目で見られたことが今まであっただろうかと思うくらい怖い。


「…ごめん。嫌だ。やっぱり…ごめん」


「泣くの反則だろ」


遥斗がそう言ってため息をつきながら晴奈から離れた時、晴奈は自分が泣いていたことに気がついた。


泣いたのは、無意識だ。


「ほら、起きて」


遥斗に手を掴まれて身体を起こした晴奈が、髪を直しながら遥斗の隣に座り「…ごめん」と呟くと遥斗はじっと晴奈の顔を見て、鼻で笑った。


「別に泣かなくていいのに。…どうせ出来ないし俺」


「…え?」


「だから出来ないの。晴奈だろうが誰だろうが。好きでも嫌いでも。こういうの気持ち悪いんだよ…」


また、やってしまったと晴奈の胸が痛む。


また私は、知らず知らずに遥斗の傷を抉ったのだと晴奈は知った。


遥斗をそうやって苦しめているのは、遥斗自身が力づくで犯されそうになったあの日の記憶だ。


あの時の無理やり押し倒されるあの男の力の強さや、血走った目や、興奮した息遣いや、汗の匂い、今も、晴奈に覆いかぶさった自分にフラッシュバックする。


いや、今だけではない。


何度だって、そうだ。


春菜のことは愛しているし、身体を求める欲求もないわけではない。手を繋ぐ時も、肩を寄せ合う時も、そう思っている。


けれど、そう思う度に、あの記憶が頭だけでなく全身に蘇って鳥肌がたち、胃の中のものがこみあげそうになる。


「晴奈が悪いんじゃないよ。俺の問題だから。だからさ…俺たち、別れよっか」


「え…なんで…嫌だよ」


「だってやっぱり苦しいよ。晴奈がそばにいるのに何も出来ないし、晴奈が求めてくれることに応えられないの。それに…いつかこういう日が来るって思ってた。だから、もっと早く言うべきだった…」


遥斗は立ち上がって「遅くなったし、送ってくれるように言ってくるから」と言って部屋を出ていった。


「遥斗!」


慌ててそれを止めようと、遥斗が後ろ手で閉めたドアのノブに晴奈が手をかけた時だ。


ドアの向こうで、何かが崩れる鈍い音がした。


「遥斗」


晴奈が部屋を飛び出すと、板張りの狭い踊り場で遥斗が倒れて蹲り、唸るような声を漏らしていた。


「遥斗、大丈夫?」


「…吐きそう…」


そう言い終わるかどうかのところで、遥斗は堪えきれずに胃の中のものを吐き出して、晴奈はその背中をさすりながら「誰か!誰か来てください!」と叫んだ。


その声は階下に届き、ちょうど帰宅した充が顔を出して、すぐに階段を駆け上がって来てくれた。


「大丈夫か。どうした」


「大丈夫…気持ち悪くなっただけ…ごめん…」


充が遥斗を抱えるようにして部屋のベッドに寝かせた。


「ごめん。晴奈、送ってあげてほしい」


「わかった」


晴奈が充に促されて階下へと降りると、外から車のエンジン音が聞こえて、綾子も帰宅した様子だった。


晴奈の服が汚れていたので、充は綾子に着替えを出すように言った。


「ごめんね、汚しちゃって。大変だったのね、ごめんなさい。私の服しかないけどいいかしら」


「…すみません…私のせいです…」


「何があったの?」


「ごめんなさい…ちょっと言えないです。でも、別れるって言われました」


「遥斗が?」


「私のせいです」


「喧嘩?」


「違います。私が一方的に遥斗のこと考えてなくて、遥斗のこと傷つけたんです。私、いつもそうなんです。遥斗には辛いことがたくさんあって、それを知ってるくせに、つい何も考えないでデリカシーのないこと言っちゃうんです。今日は特に駄目だったって自分でも後になって気づくんですけど…私のせいです」


「…ごめんなさいね、晴奈ちゃん。面倒くさい子で」


「でも…嫌です。別れたくないです…帰りたくないです…」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


久しぶりに、足が痛くて目が覚めた。


悪い夢を見る予感はしていた。


自分には、物心がついた時から父親はいなかったので、両親が揃っていることの何が良いのかピンと来ないままだった。ただ

周りが「可哀想に」と言うから、そうなんだろうと思っただけだ。


父親がいないということより


「可哀想に」


そう言われることが嫌いだった。


父親がいない理由はしらない。


死んだとは聞いていない。


ただ、いないだけ。


けれど、周りに可哀想にと言われる度に、顔も知らない父親のことを考える度に、遥斗の動かない足が痛む。


その不思議な現象はなんなのだろう。


夢の中で、可哀想という声に取り囲まれていたのは覚えている。そして、その声が大きくなるほどに足の痛みが強くなって、夢の中の遥斗がのたうち回っている。


そんな夢だ。


目を覚ますと、一瞬目が回って天井が歪んだ。


気持ちが悪い。


また、吐いてしまいそうになって、横を向いてゆっくりと身体を起こそうとした時だ。


ふわっと柔らかい匂いがした。


「…晴奈?」


まだ、夢の途中かと思った。


追い返したはずの晴奈が、遥斗のベッドに寄りかかるようにしてそこに眠っていたからだ。


部屋の時計は、もうすでに日付を超えていた。


「晴奈」


肩を叩くと晴奈は目を開けて「…遥斗、大丈夫?」と聞いた。


「なんでいるの。送ってってもらえなかったの?」


「帰らないってごねちゃった」晴奈は笑って言った。


「…なんで?」


「明日も雨だってさ」


「雨…?」


「うん。明日も雨だよ。ひとりでどうするの?…夏休み、私と別れてひとりで雨の日どうやって過ごすの?」


さっきまで笑っていた晴奈が、急に顔をくしゃっと崩して、遥斗の顔を見ながら泣いた。


「私、別れるの嫌だから。だって遥斗をひとりにしたくないもん…遥斗に例え指1本触れられなくてもいいよ…そんなのどうでもいいよ。そばにいたいだけなんだよ」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


この女の喘ぎ声は、隣の部屋に聞こえているんじゃないかと思うほど大きく部屋に響く。


酒焼けした、醜い声だ。


昔は美人だったんだろうが、きっとその頃に男にチヤホヤされていい目を見すぎたんだろう。髪型も、化粧も、服装も何十年も前の流行りのまま止まっている。


自分が一番輝いていたであろう時間を無限に繰り返そうとしているのだ。


雄星に抱かれながら、女はニッと笑って言った。


周りの男はみんな汚いジジイになって駄目。


若い男と遊ぶのが若さの秘訣だと。


自身も同じように老いて醜くなっているというのに、それを認められないでいる。

若さを保っているつもりでいる。


歳を追っても、その年相応の魅力を見いだせない哀れな女だと雄星は思った。


「イっていい?」


「駄目。まだよ」


声だけは大きいが、感度も鈍っているのか。


それとも、強欲なのか。


もうそろそろ終わらせないと割が合わないと思いながら、仕方なく女との行為を続ける。


そんな時は、雄星は自分の抱いている相手が別人だと妄想する。


そうやって、心身のバランスを保つ。


例え、その後に虚しさに苛まれてもその場を凌ぐためだ。


女の耳障りな大きな声に混じって、雄星がその名前を呟いても、女には聞こえない。


「…遥斗」


今、この目の前で自分を欲しているのは、首に手を回して快楽に溺れているのは、愛する人なのだと思えば、求められるままに何でも出来る。


けれど、その後に雄星を襲う苦しさは計り知れない。


「…だる…」


ホテルの外はもう夜も深いというのに蒸し暑く、空気はじっとりと重く、ポツポツと雨が降り出した。


今日は雨が強すぎたため、昼の仕事は休みになり、夜に家を出る時には雨はやんでいたので、何も考えずに原付バイクに乗って来てしまった。


まあ、このくらいの雨ならとフードをかぶって雄星はバイクを停めた場所まで走り出した。


雨は嫌いだ。


あの日、雨が降らなければ


風邪なんてひかなければ


遥斗をひとりにしなければ


あんなにも突然に、遥斗を失うことはなかった。


かと言って


遥斗を手に入れられたとは思えない。


結局は、こうやって誰かにその面影を投影することしか出来なかったと思う。


そして、夏が来る度にあの日ふたりで並んで見た花火を思い出して、泣いていたんだろう。


遥斗と再開したあの日のこと。


土日はアルバイトだからと休んでいた部活に、久しぶりに参加したのは、店主の都合で店が臨時休業になったからだ。けれど、行ってみれば中学生の体験があるという。

面倒な時に来てしまったと憂鬱な気分でレッスン場に向かった時だ。


雄星の前を歩く、その後ろ姿に見覚えがある気がした。


また、 出会えると思わなかった。


一緒に花火を見たあの少年に。


そして、彼も覚えていてくれた。


会いたかった、探していたと言ってくれた。


純新無垢で、清らかな遥斗が好きだったけれど、彼が雄星の自由さに憧れて、少しずつ自分の色に染まっていくのも嬉しかった。


ピアスを開けてやった時には、遥斗の穢れない身体に自分が初めて傷をつけたことに優越感を感じた。


けれど、あの日の雨が全てを奪った。


遥斗はきっと恨んでいる。


出会わなければ良かったと、きっと思っている。