「晴奈、さっきごめん」


「別に」


移動教室の時も、昼休みも、遥斗は話しかけてはくれなかったし、友達には喧嘩したのかと冷やかされるし、晴奈は少し不貞腐れながら遥斗に挨拶もせずに、階段を駆け下りて帰ろうとした。


「別にってなんだよ。怒ってんじゃん」


天邪鬼というのだろうか、面倒くさい男だと晴奈は思った。


自分の機嫌が悪い時はひとを邪険にするくせに、自分がそうされると焦って追いかけてくる。


「”別に”。”まぁいいけど”。どっちも遥斗の口癖でしょ?」


「だから...ごめんて」


遥斗が自分を追って横に並ぶのを待って、晴奈はまた歩き出し「お詫びになんか奢って」と言った。


「いいよ。なにがいい?」


「たこ焼き。川沿いの公園にカフェカーが来てるの。4時までだから急げば......やっぱいい。いいや、駅前の商店街のたこ焼き屋さんにしよう」


そういう晴奈も、時々自分のデリカシーの無さに呆れることがある。


うっかり、遥斗を急かすようなことを言ってしまった。


悪気はない。


どう考えても、遥斗の足では間に合うわけが無い。


遥斗は手に持っていたスマホで時間を確認して「そっか。ごめん」と笑った。


「じゃ、奢りは今度にするから他の友達と行ってきなよ」


「いいよ別に。奢ってくれるって言うから食べたくなっただけ。キッチンカーなんて雰囲気だけでしょ。商店街でいい」


「なんだ、俺と行きたいんじゃん」


「は?調子に乗るのやめて?」


遥斗とゆっくり歩くのは好きだ。


いつもと、景色が違って見える。


女友達とキャッキャと笑いながら歩く時は、スマホや友達の顔を見て歩く。


ひとりの時は、目的地に向かって一目散に早足で。


あまりたくさん喋らない遥斗と歩く時は、例えば歩道沿いの畑の草が生い茂っていたのが綺麗に刈られているとそろそろ何か作るのかなと考えたり、家の中から赤ちゃんの泣き声が聞こえると眠いのかなお腹がすいたのかなと想像して温かい気持ちになる。


遥斗は、どう思って私と歩いているのだろう。


ふと、晴奈はそう思う。


私は、あなたとゆっくり歩くこの時間が楽しい。


そう伝えたいと思うけれど、それはやはり恥ずかしいし照れくさい。


「ねえ、そろそろ髪染めたら?」


ふいに、頭の上に遥斗の声が降って来て晴奈は慌てて遥斗を見上げた。


「黒いとこ伸びてるよ」


晴奈は身長が小さい。


下手をすると小学校の高学年に負けることもある。


だから、そんなに身長が大きいとは言えない遥斗でも晴奈の頭頂部が見える。


「見ないでよ」


「でも、その自毛もいい色だと思うよ。光に当たると明るくて」


ふふっと晴奈は笑って、自分の頭頂部を撫でた。


「あのさ、遥斗」


「ん?」


「私も...遥斗とゆっくり歩くの好きだよ」


今度は遥斗が短く笑って「なにそれ」と言った。


「ごめんね」


「なにが?」


「私、デリカシーないからさ。...さっきも」


「全然。気にしてない」


「嘘だ」


「嘘じゃないよ...ね、めっちゃいい匂いして来た」


商店街のアーケードの入口、角地のたこ焼き屋の店舗にはいつも中学生や高校生が並んでいて、この時間はいつも店の中はいっぱいだし、外に並べた簡易的なテーブル席も今日は空きがなさそうだ。


「公園行って食べる?」遥斗の提案で買ったたこ焼きを持って少し歩き、川沿いの公園へたどり着くとちょうど最初の目的だったキッチンカーが後片付けを終えて立ち去ろうとしているところだった。


「結局やっぱ間に合わなかったね。ごめんね」


「遥斗のせいじゃないよ。私がなんにも考えてなかっただけ」


公園のベンチに並んで座り、真ん中に味の違うたこ焼きを2パック置いた。少し歩いているうちに、ちょうど食べやすいくらいには冷めていた。


「もうすぐ夏休みだね、遥斗はなんか予定ある?」


「ないよ」


「即答だね」


「晴奈は?どっか行くの?」


「家族旅行はするよ毎年」


「いいね、楽しそう」


「まぁね。今年はバイトもあるしあっという間に終わりそう」


「俺は夏好きじゃないから早く終わって欲しい」


夏休みなんて来なければいい。


夏の匂いは大嫌いだ。


特に、夏の雨の匂い。


「遥斗」


「ん?」


「私たち、付き合ってみる?」


「はあ?」


「ちょっと...食べかけたたこ焼き口から出さないで汚い」


「変なこと言うからだろ」


遥斗にただ、そうやって笑って欲しかっただけだ。


半分は、冗談のつもりだ。


何気ない夏休みの話で、またほんの少し遥斗の目が曇った気がしたから、不安になってしまった。


けれど遥斗はもう一度、大きめのたこ焼きを丸ごと口に放り込んでから「いいよ」と言った。


「え?」


「なんだよ。嘘なの?」


「……ううん」


「でもさ、何が変わるんだろうね」


「確かに。だって...なんだかんだ一緒にいるしね。だから...強いて言うなら...うーん...自分のモノになるかどうかってことじゃない?」


「なるほどね。いいよ、俺は別に。晴奈のモノになってあげても」


どうせ。


誰に求められているわけでもない。


自分を欲してくれるひとがいるだけで幸せなことだ。


それが、気の合う相手なら尚更だと遥斗は思う。


「でも……私……」


「なに?」


「私...デリカシーがないから、きっと遥斗のこと傷つけちゃう」


「そう?なんで?」


「初めて会った時から、ズケズケと話しかけて、踏み込んだこと聞いたり、今朝もそう。うるさいくらい話しかけちゃって。さっきも...急げば間に合うとか言って」


遥斗は食べ終えたたこ焼きのパックをつぶしてビニール袋にまとめ、それを掴んで立ち上がった。


「あ、いいよ捨てに行くよ私」


遥斗は晴奈がそう言うのを無視して、片足で跳ぶように数メートル先のゴミ箱までそれを捨てに行き、また同じように帰ってくると、勢いよく、さっきより晴奈に距離を詰めて座った。


「こっちの方が早いかなと思ったけど疲れるね」


「当たり前じゃん」


「晴奈、覚えてるかな。フルーツサンドのお店行った時に...」


「元カノ?」


「元カノじゃないってば...でも、あの子の話なんだけど」


「うん」


「あの子、幼なじみで。しっかりした子だったから小さい時から何かと俺の面倒見させられてて可哀想だったんだよね。優しいからさ、嫌な顔しないでずっとその役目をしてくれてたんだけど...俺はそれが嫌だった。俺のせいでやりたいことも自由に出来なくて縛り付けてるみたいだったし、俺自身もなんだか自由に身動きがとれない気がして。だから...晴奈くらい気を使われないほうが俺は居心地いいかな」


「……褒めてんの?それ」


「めんどくさいでしょ?俺って」


「うん」


「どうする?それでもいい?」


恋愛感情はない。


晴奈は今もそう思っている。


けれど、それってなんだろうとも思う。


同じ速度で隣を歩きたいとか、笑って欲しいとか、その仄暗い目の理由を知りたいとか、そういうことと何が違うんだろう。


「私...遥斗の彼女になりたい」


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夏を前に、じっとりと湿気の多い空気が重くのしかかる。


夜になってから、雨も降り始めた。


遥斗は、雨が嫌いだ。


あの日、雨が降らなければ。


何度も何度も、そう思ったことだろう。


雨の匂いは、血の匂いだ。


遥斗にとっては。


壁の時計の針は、もう深夜の0時をとっくに回った。明日はまだ学校があるし、その後はバイトもある。しかも初日だからきっと疲れるに決まっている。


だから、早く眠りたいのに怖くて眠れない。


悪い夢が待っているからだ。


今日は、それを確信している。


一旦、寝ることを諦めて部屋をそっと出て、階段を降りる。


古い家の急な階段の下は真っ暗闇で、自らその闇に入っていく感覚が恐ろしくもある。けれど、今日は何故かほんのりとどこかから明かりが漏れている。


そう言えば、今日は食卓に父の姿がなかった。


地域の寄合いに出ていると言っていた。今頃、帰って来たのだろうか。


「おかえり、遅かったね」


「ただいま。どうした?」


「喉乾いた」


明かりが漏れていた部屋の扉をそっと開けると、やはり台所の食卓で父がひとりで残り物で食事をしていた。


「ごはん、食べて来なかったの?」


「食べてきたけどその後呑んでたら腹減った」


「...明日から、迎えお願いします」


「あぁ、明日からな。わかった」


遥斗がアルバイトをすると言った時、不安に思ったのは綾子だけではない。充もそうだ。


去年の秋頃は、ずっと家の中に重い空気が淀んでいた。


遥斗を連れて出て行くと言った綾子をなんとか引き止めることは出来たけれど、それが正解だったのかは今もわからない。ただ、見守ることしか出来ないそんな自分の元を離れた方がもしかしたら2人は幸せなのかもしれないと考えることも、今でもある。


けれど、遥斗は自分で少しずつ立ち直ってくれたと思う。


でも未だ、安心出来るとは言えない。


今日だってそうだ。


雨が降るとあの日のことを思い出すのは遥斗だけではないのだ。


遥斗は台所で水を飲むと「おやすみ」と言って部屋を出ていった。


「おやすみ」


きっとそうは言っても眠れないのであろうその遥斗の背中を見送り、トン...トン...と一歩ずつゆっくりと階段を上っていく足音を聞き、綾子から聞いた衝撃的な言葉を思い出す。


全部、私のせいだから。


あの子の足が悪いのは、生まれつきなんかじゃない。


綾子と遥斗をどうしても自分の元から離れさせたくないと強く思ったのは、綾子のその告白があったからだ。


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「あの子の足が悪いのは、赤ちゃんの時に父親に虐待を受けたからです」


綾子は、泣きながらそう話した。


「あの子はよく泣く子で...私も初めての育児だし毎日どうしたらいいかわからなくて。でも、あの子の父親はそれを助けてくれるような人じゃなかった。家に帰ってきて、あの子が泣いていると怒るから、毎日どうにか泣かせないように必死だった」


綾子から、別れた夫の話を聞くのも初めてだった。


ただ、遥斗が幼い頃に別れていて、遥斗は父親の顔も覚えていないと聞いていただけだ。


「ある日…1歳になったばかりの頃。それでもまだ夕方になるとよくぐずる子で。泣いているところに帰ってきた主人が、なかなか泣き止まないのに腹を立てて、私からあの子を奪って床に投げつけたの」


一時は、命の危険もあったと言う。


綾子が、私のせいだと言ったのは夫のその凶行を止められなかったから。いや、遥斗をそんな目に合わせてしまうまで、そんな夫の元から遥斗を連れて逃げる勇気がなかったからだと言う。


夫が子どもを愛していないのはわかっていたはずだ。


けれど、今は大変な時だから愛せないだけで、いつか育児が落ち着けば愛してくれると信じたかったせいもあると。


遥斗自身はそのことを知らない。


けれど、動かない足だけがはっきりと証拠として残っている。


だから、充は愛してやりたいのだ。


綾子が育児に大変だった時のことは何も知らない。


遥斗が初めて喋った日も、その不自由な足で立って歩いた日のことも知らない。


血の繋がりもない。


だからこそ、その知らない時間を埋められるくらいに愛してやらなければいけない。


血の繋がり以上に、愛して守らなければいけない。


そう思った。


だから、充はいざとなればこの家を自分も離れることを考えている。


歳のいった両親のことは心配だ。仕事のことも考えれば充が家を離れることは得策では無い。


しかし、自分が守るべきはどっちなのか。


そんなことは、考えるまでもないことだ。


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「晴奈、晴奈これ見た?」


最寄りの駅から、学校まで歩く間に必ず誰かが晴奈に声をかけてくれる。そして、その誰かとそのまま学校まで歩き、途中でまた仲の良い友達と出会ってその人数が増えたりもする。


「なにー?」


今、声をかけて来た中学の時からの友人、優香もそのうちのひとりだ。


「これさ、高橋から送られて来たんだけど。ガチのBL動画」


「...もう...私、こういうの好きじゃないんだけど」


優香は中学の時からBLが好きで、漫画やドラマ、映画などそのジャンルは片っ端から網羅していて、それを晴奈にも勧めてくるのだが、晴奈にはその良さがひとつもわからない。


優香が見せてきたスマホの画面には、作り物のドラマや映画とは違う荒い画像の男同士の絡みが映っていて、晴奈はあからさまに嫌な顔をして目を逸らした。


「これさぁ、うちの学校の生徒らしいんだよね...」


「え?...なんで?」


「うちの制服っぽいんだって...」


「そんなことないでしょ。だったら、とっくに誰かわかってるじゃん」


「わかってるみたいよ」


「誰?」


「私たちは知らない人だよ。一個上で去年、夏休み明けに退学になったみたい」


「これが原因?」


「ううん。傷害事件を起こしたらしいよ。ひとを刺したんだって」


「最悪じゃん、それ。……ていうかもう!恥ずかしいからそれ止めて」


そう言えば、昨日の朝もクラスの男子がそんな話をしていた気がする。


教室の真ん中で、何かいやらしい動画でも見ているんだろうとは思っていたけれど。


「それより今日さ、カラオケ行かない?」


「あーごめん、今日からバイト」


「あ、そう言ってたっけ。同じクラスの男の子とでしょ?仲いいんだね。付き合ってんの?」


「うん、まあね」


「え?ほんとに?」


「うん」


「あれでしょ?あの足の悪い子でしょ?いいの?そんなんで」


「...なにが?」


「だってなんか変じゃん、歩き方とか。一緒にいたら悪目立ちするよ?」


「...ひとにいやらしい動画見せる方が恥ずかしいと思うけど」


ぐっと肩からかけたカバンの持ち手を掴んで、晴奈はその場から走り出した。


優香がどんな顔をしていたかも知らない。


悔しくて、カバンを持つ手にどんどん力が入って爪が食い込む。


そのまま、晴奈が学校に駆け込んで昇降口でハアハアと呼吸を整えていると「晴奈」と声をかけられた。


「...おはよう」


「おはよ。どうした?」


その頭の上から聞こえる声が、今は苦しい。


返事をする前に、ぎゅっと瞑った目からハラハラと涙が零れる。


「…ちょっとおいで」


遥斗は、晴奈の手首を掴んで、そのまま中庭を抜けて、特別教室が並ぶ裏門に近い校舎のほうへと引っ張って行った。


「なに、どうした?」


「……別に」


「また、ひとの口癖マネする」


「なんでもない」


「なんでもないのにそんな泣いてたら病気だろ」


昔から髪色を叱られるのも、派手に見られるのも、ずっと悔しかった。持って生まれたものなのに、どうしてそんなことを言われないといけないんだろう。


悔しかったけれど...泣いたことはない。


なのに、どうして遥斗のことを言われたのがこんなに悔しくて泣けるんだろう。


晴奈自身、理由がよくわからないくらいだ。


「...大丈夫」


「まぁ...いいけど」


「ちょっと友達と喧嘩しただけ」


「そっか」


「うん。ありがとう」


「じゃ、行こう」


晴奈は、遥斗が差し出した手を握った。


優香にはわからないだけだ。


こうやって、歩く速度を合わせてゆっくり歩くこの時間の大切さも、ゆっくりと変わる目の前の景色も彼女は知らないだけだ。


---------------


朝、晴奈が優香に無理やり見せられた動画は瞬く間に校内で知らない生徒はいないくらい拡散された。


誰も知らない人物なら噂程度で済んだことだが、優香の言っていたとおり、1学年、2学年上の生徒たちはその動画に映っている人物を知っていた。


晴奈の耳にもそんな話はたくさん飛び込んで来たけれど、その本人はここにはいないのだから、何が真実なのかわからない。


いないからこそ、きっと嘘や大袈裟に誇張されたこともあるはずだ。


「...下品だよみんな」


遥斗は、そんな噂には一切興味がないように晴奈には見えた。


興味が無い。というより興味を持たないようにしているといったところだろうか。


晴奈が思わず口にしたひと言にも、ふふっと鼻で笑うだけで何も言わない。


そんな時だ。


それぞれの席に座って身体だけを向き合い、話をしていた晴奈と遥斗の間にクラスメイトの高橋が割って入って遥斗に聞いた。


「なぁ、お前さ。あの動画のやつと友達なんだって?」


ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべている高橋に対して、遥斗はごく冷静に「なんで?」と答えた。


「ダンス部のやつに聞いた」


「和真?」


「そう」


「...だから何?」


「お前も仲間なんじゃないの?」


「仲間?」


「お前もあーいうことしてんじゃないのかって言ってんの。だから気まずくて知らないフリしてんだろ」


晴奈には、止められなかった。


それくらい、一瞬の出来事だったように思う。


遥斗が、自分の机を大きな音を立てながらひっくり返して立ち上がり、高橋に掴みかかったところまでは晴奈も見ていた。


何か、叫んでいたようにも思う。


晴奈がこれまで見たこともないような怖い顔をしていたようにも思う。


それが、ただ怖くて目を瞑った。


教室中が、ふたりの喧嘩に騒いでいたけれど、晴奈は目を瞑って耳を塞いで震えていた。


「晴奈、晴奈、大丈夫?晴奈」


それに気づいた友人が、晴奈に声をかけて、抱きしめてくれたけれど、晴奈はただ小さな声で「もうやめて」と繰り返すだけだったと、晴奈は後にその友人に聞いた。


気がつくと、晴奈は保健室の一番奥のベッドに寝かされていて、友人が心配そうに顔を覗き込んでいた。


「大丈夫?」


「...遥斗は?」


その名前を口にするだけで、晴奈の目から涙が零れた。


「あの後、すぐに先生が来て...ふたりとも先生たちに連れて行かれたよ。その後はわかんない」


「止められなかった...」


「仕方ないよ。男の子同士の喧嘩だもん」


「...でも...私は、遥斗の彼女なのに」


「晴奈...」


友人は、晴奈をまた抱きしめて、背中をトントンと小さな子供にするように優しく叩いてくれた。


「大好きなんだね、遥斗くんのこと」


そう言われて、晴奈はやっと気がついたのかも知れない。


遥斗と並んで歩く時間が好きとか、そのゆっくり変わる景色が好きとか、それは全部、遥斗のことが大好きだったから。


隣にいるのが、遥斗だったから。


遥斗と同じ景色を見ていたから。


その全部が、愛おしいのだと。


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「じいちゃん...お願いあるんだけど」


居間でひとり、新聞を読んでいた祖父に遥斗はそっと声をかけた。


「なんだ」


「...ちょっと...買い物に行きたいんだけど」


「家から出たらダメなんじゃないのか」


祖父は新聞から目を離さずに遥斗に言う。


「だから、じいちゃんに頼んでるんじゃん...」


遥斗は、高橋との喧嘩が原因で1週間の停学処分を受けた。


ただの喧嘩ではあるが、暴力を振るったことと、クラスメイト達を巻き込んだことがその処分の理由だ。暴力と言っても殴ったりしたわけではない。

ただ、突発的な怒りにまかせて机をひっくり返して、胸ぐらを掴んだだけだ。


遥斗は、最初の三日のうちに思ってもいないような舌先だけの言葉を並べた反省文をぎっしりと書き込み、提出する課題を全て終わらせた。


「仕方ない。俺も買いたいものがある」


平日の午前中、学校の誰にも見つから時間に遥斗は買い物をしたかった。


祖父が車で連れて行ってくれたのは、大きな国道沿いの大型ショッピングモールだ。


「俺はばあさんと食べるおやつを買う。30分したら...そうだな...少し早いが昼飯でも食うか」


30分後に、レストラン街の祖父のお気に入りの和食屋で待ち合わせることにした。


遥斗の欲しいものはもう決まっているので、30分もあれば充分だ。


装飾の賑やかな雑貨屋に立ち寄って目的のものを手に取ってレジに向かう時に、ふと壁にかかっているぬいぐるみのキーホルダーが目に止まった。


韓国発祥だとかいう、中高生に人気のキャラクターだ。


遥斗からすれば、全く何が可愛いのかわからないくらい奇妙なビジュアルをしているのだけれど、これが今どきの可愛いということらしい。


値段を見るとそこそこ高かったけれど、遥斗はそれをふたつ手に取って、今度こそレジに向かった。


約束の時間になって和食屋に行くと、まだ時間が早いおかげで他に客はいない。


席に案内されて、メニューを眺めていると遥斗より10分ほど遅れて祖父が大きな袋を下げて現れた。


「それ全部おやつ?」


「まあな」


当たり前だろうが、祖父は祖母の好きなものをよく知っている。遥斗は買い物袋の中を覗いて思わず笑った。


それらは全て、よく食卓の隅に置かれているのを見かけるものばかりだ。


「お前は何を買ったんだ。この年寄りをこき使って」


「これ、どう?可愛いと思う?」


遥斗が見せたぬいぐるみキーホルダーを、祖父は怪訝な顔でしばらく見つめて「可愛いのか...」と呟いた。


「俺もわかんない」


「そんなもの欲しかったのか」


「これはついでだよ。欲しかったのははこれ」


「...なんだそれ」


「ピアスの穴あけるやつだよ」


「お前はまた...叱られるぞ」


「かもね」


「俺に連れていってもらったなんて言うなよ?俺が叱られるからな」


「わかってるよ。ありがとう」


高橋との喧嘩のことは、叱られなかった。


けれど、また両親に迷惑をかけたことは自覚しているし、もうそろそろ愛想をつかされても仕方ないと遥斗は思った。


「そのぬいぐるみ、まさか充たちにやるんじゃないだろうな」


「まさか。これは...俺の彼女にあげる。たぶん...好きだと思うんだけどこれ」


晴奈とは、あれから連絡はとっていない。


あの動画が、想像していたとおり学校中で拡散されて、その動画に映っている人物が雄星であると特定されていたのは、遥斗も知っていた。


晴奈がその話をした時も、必死になんでもないような顔をした。


晴奈には、知られたくなかった。


それは、雄星と友達だったことではない。


自分も、そうなっていたかもしれないと言うことをだ。


拡散された動画が、もしかしたら自分だったのかもしれない。


晒されて、笑いものにされていたかもしれない。


それを、知られたくはなかったのだ。


だから、高橋に「お前もそういうことしてるんじゃないのか」と言われて、思わず頭に血がのぼった。


つい自分を見失ってしまった。


そばに居る晴奈のことを考えていなかった。


晴奈が泣いていたのも、あとで聞いた。


晴奈を傷つけてしまった。


晴奈に会いたい。


会って、いますぐ謝りたい。


そう思うと、思わず泣けてくるくらいに、晴奈のことが好きなのだと遥斗は思う。


----------------------


祖父との買い物から帰って、テーブルの上に買い物をした袋を置いて、ひとまずベッドに寝転んだ。


すると、ポケットに入れたまんまのスマホが鳴り、あわてて画面を開く。着信は、晴奈からだ。


「晴奈?」


「遥斗、迎えに来て」


「...え?迎えに?...今、どこ?」


「わかんない。遥斗のうちに行こうと思って迷った...」


「は?」


「早く!」


遥斗は慌てて家を飛び出して、駅の方向へ歩き始めた。


駅から晴奈が最短距離を歩いているのなら、進む方向は決まっているが、迷っているというからにはそうとは限らない。けれど、早く晴奈を見つけなければ下手をすると山の中に迷い込んでしまうかもしれない。


とりあえず、最短ルートの方向へ歩き出すけれど、こういう時には自分の足の不自由さが歯がゆい。


こんな何も無いところで道に迷って不安になっている晴奈を早く見つけるために走ることも出来ないのだから。


「晴奈!」


けれど、運良く晴奈は最短ルートを歩いていた。


遠くからでも、その明るい髪が目立った。


遥斗が名前を呼ぶと、晴奈はその明るく長い髪をなびかせて走って来た。


「晴奈、なにしてんの」


「...遠いよ...駅から...バスも本数少ないし...田舎すぎ...」


ハアハアと肩で息をしながら、晴奈は手を差し出して「家、行っていいでしょ?連れてって」と言った。


「どうしても顔が見たかったの」


涙目でニコッと笑う晴奈の顔を見て、遥斗はその手を握って歩き出す。


「晴奈」


「なに?」


「...家に着いたら話したいことがある。聞いてくれる?」


「もちろん」


喧嘩の理由をちゃんと話そう。


でも、それを話すことは隠したかった過去も話すことになる。


だから、怖くて迷っていた。


全て知ったあとも、晴奈はこんな風に笑顔を見せてくれるだろうか。


この手を握ってくれるだろうか。


「でも……とりあえず」


遥斗は立ち止まって、晴奈のほうに向き合った。


「とりあえず、1回抱きしめていい?」


不安だけれど、何も知らない晴奈はもっと不安だったに違いない。


なのに、勇気をだして知らない駅で降りて知らない道を歩き、遥斗に会いに来てくれたのだ。


その愛おしさに、ちゃんと勇気をだして答えなければいけない。


自分の腕の中にすっぽりとおさまる晴奈の小さな身体を抱きしめて、遥斗はその温かさを噛み締めた。

ーーーーーーーーーーーーーーーー


会いたかった。


ありがとう。


そんなふうに、遥斗が抱きしめてくれるなんて晴奈は想像もしていなかった。


遥斗が自分と付き合ってくれたのは、ただのなりゆきで、そこに遥斗の意思はないと思っていたし、その証拠にこれまで一度も遥斗に会いたいとも好きだとも言われたことがない。


晴奈自身、そうだったのだから当たり前だ。


ただ、笑って欲しかったから。


なにそれと言って笑って欲しかったから付き合おうなんて言っただけだ。


抱きしめられて、初めてその体温を身体に感じてしまうと、急に改めて遥斗が男の子なのだと思えて、恥ずかしくなる。


握ったその手が、急に大きくなった気がした。


庭先では、遥斗の祖父が農機具の手入れをしていた。


こんにちは。


晴奈は小さな声で挨拶をしてから、あぁまたやってしまったと心の中でため息をつく。


また、デリカシーのなさが出てしまった。


突然、どうしても遥斗の顔を見たくなって、どうしても心配で、もしかしたらもう二度と会えないんじゃないかとか、最悪なことばかり考えてしまって、我慢できずに遥斗の家に来てしまった。


家に来たことはない。


話に聞いていた住所を頼りに無計画にここに来た。


電車を降りると想像以上に何も無いところで、遥斗の家の手がかりもなく、途方に暮れた。


でも、よく考えてみれば遥斗の家族だっているかもしれないのに、自分の気持ちだけで先走って来てしまった。


「あ、ちょうど良かった。...これ、好き?」


部屋のテーブルに置きっぱなしの袋の中から、遥斗が買ったばかりのぬいぐるみのキーホルダーを出すと晴奈は笑って「好きだけど...どうしたの?」と聞いた。


「良かった。あげる」


「え?なんで?」


「さっき、買い物行って見つけた。晴奈好きかなって思って。俺のも」


「え?おそろい?」


「え?駄目?」


「駄目じゃないけどさ、急に彼氏感出すじゃん」


「怒ってるかなと思って」


「私が?」


「ごめん」


「...いいよ。遥斗は悪くないよ」


「あとさ。ひとつお願いがあって」


「なに?」


遥斗は袋の中からピアッサーを取り出して晴奈に差し出し「開けてくれない?」と言った。


「え、私が?やったことないよ」


「こっち、右ね」 


「だから失敗したら嫌だってば」


「お願い」


遥斗に押し通されて、晴奈はその右耳の薄い耳たぶを触ってみた。


「くすぐったい触り方しないでよ」


「ねぇ、なんで左しか開けなかったの?」


「痛かったから。ひとつで無理ってなって」


「なのに今?」


「うん」


本当は、自分で開けるつもりだった。


もう痛いのは嫌だったけれど、勇気をだしてもうひとつピアスを開けられたら、晴奈にちゃんと話せるんじゃないかと思った。


逆に言うと、そのくらいのきっかけがないと言えない気がした。


「手、震える」


「いいよ、失敗してもいっぱい買ったし」


「そういうことじゃないじゃん...いい?いくよ?」


バチンと鈍く懐かしい音が耳の中に響く。


けれど、何故かあの時より痛くはなかった。


それでも、心臓の音に合わせてジンジンと鈍い痛みがあって、耳が熱を持った。


「大丈夫?」


鏡を覗き込みながら、開けたばかりの右のピアスを触って「左は去年の夏休みに入ってすぐに雄星に開けてもらった」と呟いた。


「雄星?」


「うん...あの動画。見たでしょ?晴奈も」


「少しだけ」


「高橋の言う通りアレは僕の友達の雄星。ひとつ年上で、初めてのピアスも、バイトもきっかけは全部雄星で、大人からすれば悪い友達だったんだろうけど。俺は大好きだったよ。誰がなんと言おうと」


「今は?」


「雄星がひとを刺して捕まってからは会ってもいないし、連絡もしてないし、何してるか知らない」


あまりに遥斗が淡々と話すので、晴奈は不安が募る。


なぜなら、高橋に激昂したあの時もそうだった。


動画のことも、まわりが騒いでいても気にしない素振りをしていたし、高橋に詰め寄られた時ですら、最初は落ち着いて話していたはずだ。


でも...本当に彼は落ち着いていたのだろうか。


ふと記憶を辿る。


そう言えば、それより少し前にも教室で高橋たちが騒いでいたことがあった。あの時、晴奈の目には遥斗が机の下で震える手を必死に隠していたように見えた。


もしかしたら、落ち着いているように見えたあの時も、本当は机の下でそうやって震える手を隠していたのかもしれない。今度は、晴奈に悟られないように、晴奈に気を使わせないように、必死に平静を装っていたのかもしれない。


ふと、晴奈はさっきからずっと耳を触っている遥斗の手に視線を移す。


「遥斗...無理しなくていいよ」


そう言って、その震えている手を晴奈は両手で包むように握った。


「もう私の前で我慢しないでよ……」


せっかく、遥斗に久しぶりに会うからと駅に着いてからトイレに飛び込んでちゃんとメイクを治した。なのに、道に迷って汗だくになって、その上こうやって泣き出してしまって、もう晴奈の顔はボロボロになってしまった。


そんな晴奈につられて、遥斗も晴奈の手を握り直して泣き出した。晴奈はそれが嬉しかった。我慢して、ひとりでじっと震えている遥斗なんて、もう見たくなかった。


「雄星は...守ってくれたんだよ...俺のこと。雄星が助けてくれなかったら、あんな風にみんなに晒されて笑いものになっていたのは自分だったかもしれない...なのに、雄星があんな風にバカにされてるのを知らないふりして何も言えないし、何も出来ないなんて…俺は最低だよ」


ーーーーーーーーーーーーーーー


三回ほど、綾子は家の階段を往復した。


今日は早めに仕事が終わり、台所では姑が晩御飯を用意していたのでたまには配膳くらい手伝わねばと、まず夫婦の部屋に荷物を置いてこようと慌てて階段をのぼろうとした。


それを、トイレから出てきた充に「彼女来てるらしいから静かに」と言われ、それに驚きつつ気を使って階段をのぼった。


この家に遥斗が友達を連れてくることだけでも珍しいのに、彼女が出来たことも知らなかったし、ましてやここに連れて来るなんてと、邪魔をするつもりはなかったけれどほんの少しの好奇心で、綾子は扉の前で様子を伺った。


そして、自分の部屋にカバンを置いてまたそっと階段を降りた。


部屋から聞こえてきた声は、決して楽しそうな浮かれた雰囲気ではなくて、とても深刻そうで、なんとなく...遥斗が泣いているような気もして、綾子は早々にその場を離れた。


「遥斗はあとでいいみたいなんで、取っておきますね」


姑にそう言って、綾子はそっと晩御飯のおかずを二人分よけておいた。


そして、時間を置いては部屋の前まで行き、三度目でようやく笑い声が聞こえたので、綾子は胸をなでおろしてやっと扉をノックして声をかけた。


「遥斗、ごはん食べる?お友達も一緒に」


ーーーーーーーーーーーーーーーー


「ねえ、大丈夫?私、やっぱりあつかましいよね。ごはんまで食べさせてもらって」


晩御飯を終えた家族が、それぞれの部屋に帰っていったあと遥斗と晴奈は向かい合って、綾子が温め直してくれた晩御飯を食べた。


「なに今更。もうほとんど食べ終わってんじゃん」


「だってさぁ...何回も言うけど私、デリカシーが欠けてるからさ...後になってヤバいって気づくんだよね」 


「いいから。食べな」


「...うん」


「食べたら送ってくってさ。お父さんが」


晩御飯の時間になるまで、長く話をしていた感覚は晴奈にはなかった。綾子に声をかけられて、ようやく外が暗くなっていたことに気づいたくらいだ。


家族の話も聞いた。


両親が再婚であること、時々この家にいるのがとても息苦しく感じることもあること、けれど家族がいてくれなければ立ち直れなかっただろうということ。


去年の夏休みに起こったという事件については、聞いている晴奈もとても心苦しかった。


これまでの人生の中で一番楽しかったはずの夏休みが、最悪の終わり方をしてしまった。そして、それは全て自分のせいだと遥斗は思っている。


自分さえ、間違えなければ雄星がひとを刺すこともなかった。


雄星の人生を狂わせてしまったのは自分だと、遥斗はずっと自分で自分を責めている。


「...会えるといいね」


「うん...」


それで、自分の罪が許されるわけではないけれど、雄星に会いって謝りたいのだと遥斗は言った。


それは、初めて吐き出す想いだ。


「私にも会わせてね。遥斗の大事な友達なら」


晴奈には正直まだわからない。


遥斗がそんなにも大切に思う理由が。


雄星の人生を狂わせたのは自分だと遥斗は言うけれど、そもそも遥斗をそそのかしたのは彼の方ではないのか。


まだ中学生の遥斗にピアスをさせて、親に歯向かう要因を与え、黙って家に泊めてアルバイトもさせて、結果的に犯罪に巻き込んだのは彼ではないか。


彼がいなければ、遥斗はこんなふうに苦しまなくて良かったのではないか。


遥斗を守ったと言うけれど、自分の撒いた種を刈り取っただけではないか。


けれど、そうでなければ晴奈は遥斗と出会えなかったかもしれない。


出会っていたとしても、お互いに引き寄せられることはなかったかもしれない。


こんな風に、向かい合って話せなかったかもしれない。


「ご馳走様でした」


帰り際、遥斗から食事を作ったのは祖母だと聞いて、居間に立ち寄って晴奈は遥斗の祖母に声をかけたが、テレビに夢中で聞こえないのか、こちらに顔も向けなかった。


「気にしなくていいよ。あの人にとっては俺は空気だから」


遥斗がこの家に来た頃は、そうではなかった。


祖母にとって自分は目障りではあったが確かに”存在”していたはずだ。けれど、あの事件のあとからはその”存在”すら消された気がしている。


「ごめんね、急に来てごはんまで食べさせてもらっちゃった」


綾子の車で充に駅まで送ってもらい、遥斗は無人駅のホームで晴奈を見送った。


「ううん、ありがとう」


「...じゃ、またね」


「晴奈、似合うよそれ」


遥斗は手を伸ばして、晴奈の右側の耳をそっと触る。


「痛いよ、まだ」


綾子が部屋に声をかけにくる少し前に、予備に買ってあったピアッサーで「私にもしてよ」と遥斗に頼んで開けてもらったピアスに触ると、まだジンジンとして痛い。


別に、ピアスがしたかったわけでもない。


ただ、遥斗と同じ痛みを共有したくなった。


「ほんとに似合う?」


「うん」


「......いい?」


「え?」


「...可愛い?って聞いてるの」


可愛いとか、遥斗がそんなことを言ってくれるタイプではないのは晴奈もわかっている。


思っていた通り、遥斗はふふっと笑って「電車来たよ」と遠くから近づく電車の灯りを指さした。


晴奈が不貞腐れながら近づいてくる灯りに目をやると、その隙をついて遥斗が顔を近づけて、右の頬にキスをした。


「まぁ...可愛いと思うよ」


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「香耶、ちょっとコンビニ寄りたい」


「いいよ、私も飲み物買いたい」


同じ部活の友人、奈々に誘われて帰り道にあるコンビニに立ち寄り、香耶は大好きなジャスミンティーのペットボトルを買い、お腹も減ったのでレジ前のフライドポテトを注文した。


「ケチャップつけますか?」


「あ、いらないです。あ、袋もいいです...」


ふいに顔を上げて店員の顔を見て、香耶は小さく「...あ...」と言った。


背が小さめで、明るい髪の少し派手目の顔...もしかするとハーフにも見える可愛い女の子だ。


よく覚えている。


香耶の反応に、不思議そうな顔をしていた店員だったか彼女もしばらくして「あぁ...」と愛想笑いをした。


「遥斗の彼女ですよね」香耶が財布から小銭を取り出しながらそう聞くと、「あ...はい...まぁ...」と曖昧な返事だけれど否定はしなかった。


香耶としては、カマをかけたつもりだった。


けれど、本当に彼女だと知って少し戸惑う。


晴奈にしてみれば、香耶に以前会ったその時は、まだ彼女どころか遥斗とは出会ったばかりだったので、曖昧な返事をするしかなかった。


「私、幼なじみなんですよ」


「あ、聞きました」


「遥斗、ちょっとチャラくなっててビックリしました」


「...そうなんですか。私、出会った時にはあんな感じだったんでわかんなくて」


香耶は商品を受け取って、入口近くであとから来た奈々を待ちながら、晴奈の働く姿を目で追った。


再会した時、彼女の影響で遥斗があんな風になったのかと思い込んでいた。ピアスをしたり、制服を着崩したり、女の子とふたりで流行りのカフェに行ったり、香耶の知っている遥斗はそうではなかったし、派手で軽そうなつまらない女につかまって悪い影響を受けたものだと呆れていた。


その反面、たった1年で大人びたなと感じた。


香耶の知っている遥斗は、ちょっと世の中を斜めに見るようなところはあったけれどまだまだ子どもだった。


そんなことをいえば...香耶だってそうなのかもしれない。


小さい頃からずっと傍にいたのに、いきなり突き放されて、どんなに悲しかったか。香耶にしてみれば、環境が大きく変わっていく遥斗のことをこれからももっと支えていくつもりでいた。遥斗にとって必要だと思っていた。


なのに


一方的に突き放していなくなって、やっと再会したと思えばこんな派手そうな女の子と一緒にいるところだったなんて、悔しくないわけがない。


しかも、さっきよく見れば遥斗と同じピアスもしていた。


とはいえ、いつの間に自分はその悔しさのあまり見知らぬ他人に幼なじみだとか、昔の彼を知っているのだというようなつまらないマウントを取る女になったのか。


「お待たせ、香耶。なに怖い顔してるの」


「別に怖い顔なんかしてない。ね、奈々これあげる」


「なんで?ポテト食べたくて買ったんじゃないの?いいの?」


「食欲なくなった」


「変なの...」


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「ねえ、俺の制服知らない?」


「ああ、そうだ忘れてた」


綾子は自分の部屋のクローゼットからクリーニングに出していた遥斗の制服を出して遥斗に渡した。


どんな喧嘩の仕方をしたのかは知らないけれど、ホコリだらけで着られたものではなかったからだ。けれど、クリーニングから引き取ってきて遥斗に渡すのを忘れていた。


「ムカついて捨てたのかと思った」


「捨てるわけないでしょ、高いんだから」


学校で遥斗が喧嘩をしたと聞いた時は、本当に落ち込んだ。


去年の夏の初め頃から、遥斗が少しずつ変わっていって、夏の終わりのあの事件からは、見た目だけでなくもっともっと深い部分から変わってしまったような気がした。


自分なりに、出来る限り大切にして来たつもりだった遥斗が壊れていくように思えた。


だから、少しは立ち直って学校にも行けるようになってホッとしていた矢先に揉め事を起こしたと聞いて怖くないわけがない。


けれど、よく話を聞けば遥斗が怒るのは仕方がない。


親バカかも知れないけれど、遥斗は何も悪くない。


遥斗の深い傷を抉ったのは相手ではないか。


まわりの生徒たちも、喧嘩をしかけたのは相手の方だ。遥斗をわざと怒らせたのだと証言したらしいが、先に手を出したのは遥斗で、だから遥斗が「加害者」であり喧嘩をしかけた方が「被害者」だというのが学校の言い分であった。


綾子も充も腑に落ちなかったが、かといってこれ以上は事を大きくしたくなかったし、遥斗もそれでいいと言うので、綾子と充が相手側の保護者に謝罪することで終わりにしようと判断した。


ただ、その謝罪の場に遥斗は同席させなかった。


それだけは、綾子たちの唯一の抵抗だ。


相手側も、決して自分の子が潔白ではないのはわかっているのだろう、それで納得した様子だった。


学校に行けない間も、ずっと遥斗は部屋にこもっていたし、落ち込んでいたように思う。


綾子たちにとっても、どうして今頃になってまたあのことで嫌な気持ちにされられなければいけないのかと重い気持ちをずっと抱えていた。


学校に戻る日が迫るほどに不安だった。


正直、晴奈に会った時も綾子は複雑だった。


派手な雰囲気の女の子だと思った。


けれど、見た目によらず礼儀正しく見えたし、なによりあの日から遥斗の顔が少し穏やかになったように思えた。部屋から出てくる時間も増えたし、会話も増えた。


遥斗の気持ちが少し明るくなったのだとわかる。


今も、晩御飯を終えて制服を受け取ると、電話が鳴ってあわてて部屋に戻って行った。


本当は、どんな容姿でもどんな性格でもかまわない。


ただ、今度こそ遥斗を傷つけないで欲しいと綾子は願うしかない。


「バイト終わったよ、今から帰る」


「遅いね、今日」


「うん、次のシフトの子が遅刻...あ、そうだ。今日ね、元カノ来たよ」


「だから、元カノじゃないってば。香耶のことでしょ?」


「うん。話しかけて来てくれたよ」


「ふーん...なんて?」


「遥斗がチャラくなったって」


「なんだよそれ。まぁ、いいけど。気をつけて帰ってよ」


「明日から学校来るでしょ?待ってるね」


「うん」


晴奈と一緒に始めるはずだったアルバイトは白紙になった。


停学になって、学校からの許可が取り消しになってしまったからだ。


「大丈夫だよ、遥斗」


正直、学校に行くのは不安だ。


みんながどんな目で見てくるだろうかとか、あの動画の件はもう飽きただろうかとか。


そんな遥斗の心の声が聞こえたかのように晴奈は大丈夫だよと言った。


「バイト無い日はまた帰りにどこか行こうね」


晴奈との電話を切って「あぁそうだ」と思い出し、晴奈にあげたものと同じぬいぐるみのキーホルダーをカバンにつけた。よくよく考えれば、どうして自分の分まで買ったんだろう。こういうものをつけるのはあまり好きじゃない。


けれど、きっと晴奈はよろこんでくれるのだろうと、お揃いのピアスを嬉しそうに触っていたその顔を思い出した。


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もう何個目か数えるのはやめた。


小さめの薄い耳たぶには、もう空きがなく、昨日いくつめかの軟骨のピアスを開けたが、まだジンジンと痛む。


きちんと消毒しないと膿んでしまったら困るなと思いながら、雄星はベッドに寝転んでスマホのアプリを開き、自分宛に届いているメッセージをチェックする。


その中で、条件の合う相手を選び、返事をする。


返事がなければ交渉不成立だと思ってもらいたいものだけれど、中には察しが悪く何度も何度もメッセージを送ってきては返事を要求する者もいるし、前に断られた相手だと言うことも忘れて同じ条件で交渉してくる者もいる。


そういうのは、完全に無視をするのが一番だ。


無事に今日も一件、交渉が成立した。


早速、風呂に入って準備をして、待ち合わせ時間にちょうど間に合うように家を出た。


指定されたビジネスホテルの部屋のドアを等間隔で5回叩く。


相手から指定された合図だ。


すると、中から鍵の開く音がした。


返事はない。


勝手に入れということか。


面倒くさそうだなと思いながらも、ドアを開ける前にひとつ愛想笑いを練習して、口角を上げたままでドアを開ける。


狭い通路を抜けると、大きな窓のカーテンは大きく開いて隣のビルの窓から覗かれそうだ。きっと、そういうのが趣味なんだろう。


「こんばんは」


左側の壁にクイーンサイズのベッドがひとつ、その上ですでにほぼ全裸のような格好でガリガリに痩せこけた中年の女が座っている。


これが、今日の客だ。


「あまり時間がないから早くして」


自分で呼んでおいて、時間がないとはどういうことだ。


まぁ、考えようによっては早く仕事が済む。


「じゃ、風呂入ってきてるんでこのまんまでいいですか」


そう言うと、女は唯一体を覆っていたショーツを脱いで「どうぞ」と言った。


カーテンが開いたままの窓は少し気にはなったが、仕方なく雄星は服を脱いでベッドに乗り、ガリガリの全裸の女の上に覆い被さる。


カーテンを開けて電気をつけままの明るい部屋で見ず知らずの若い男に金を払って抱かせるこの女は、普段はどんな生活をしているんだろうとふと考えたりもする。


年齢からいって、もしかすると子どもだっている可能性はある。


まぁ...自分には関係ない。


こんなことが世の中にばれても、破滅するのは女のほうだ。


自分には、なくす物なんかもう何もない。


終始、この客の女には気味悪さがあった。


行為中は声も出さず、ときおりカーテンの開ききった窓の外を気にする。やっぱり、誰かに見て欲しいという悪い趣味を持っているのか。


「いくらだっけ?」


女は服も着ずに窓際の椅子に置いていたハイブランドのバッグの中から、バッグと同じブランドの財布を出して聞いた。


雄星が指を出して値段を示すと、しばらく女は考えこんで「このあと、予定あるの?」と言う。


「別に。帰って寝るだけです」


「じゃ、これだけ足すから朝まで付き合って」


女は、雄星が言った金額から更に1万円札を2枚足して差し出した。


「時間ないんじゃないんですか」


「気が変わった。添い寝してくれるだけでいい」


どうせ、予定はない。


隣で寝ていればいいのだから、朝家に帰って昼の仕事にも行ける。


女は、雄星の隣に寝転ぶとろくに会話もせず、すぐに小さないびきをかいて寝てしまった。


軽く肩を叩いて、女がぐっすり眠っているのを確認すると雄星は女に寄り添うようにしながら、手に持っていたスマホのカメラを自分と女に向けた。


もしかしたら、いつか困った時にこの写真が役に立つかもしれない。


雄星は写真を撮り終えると、その痩せこけた女に背中を向けて浅く眠った。