夏休みが終わりかけたある日のことだ。
金曜日、いつものように雄星の家にバイトを終えて帰ると、雄星が具合が悪いと言い出した。熱が少しあったので、遥斗は近所のドラッグストアで風邪薬とスポーツ飲料を買って、早々に雄星を寝かせた。
雄星の父の布団は、セット売りの安物であったが雄星が新しいのを買っておいてくれたので、遥斗はそこで快適に眠ることが出来たけれど、その日は雄星の様子が気になって幾度となく夜中に部屋を覗き、寝息を確かめた。
正直、この生活はとても楽しい。
ほんの少し、家族に心配をかけているのはよくわかっている。
けれど、こんなに楽しく充実した夏休みは初めてだ。
海や遊園地にいくわけでもない。
ただ、アルバイトをして友達の家に泊まる。ただ、それだけだ。でも、遥斗はそれが楽しくて仕方がないのだ。
でも、それももうすぐ終わる。
「大丈夫だから。雄星は寝てな、店長にも電話したし」
翌朝、バイトに行くと言う雄星を説得し、遥斗はいつもより早めに家を出て店に向かった。
店長には昨夜のうちに電話をしておいたので、人手は確保したと言っていた。どうせ雄星は無理をして行くというはずだから、先に手を打っておいた。
心細くはある。
ひとりでバイトに行くなんて初めてだ。
昼の休憩時間に雄星には電話をかけて、朝よりは少し元気そうで安心した。
昼から降り出した雨で街の人通りは少なく、店も比較的暇だった。
建築の現場に勤めているという伊藤も、雨で仕事はあがりだと言って夕方には店にやって来ていつものようにまずビールと餃子を頼み、ビールをカウンターに持ってきた遥斗に声をかけた。
「今日、友達は?」
「風邪ひいちゃって。休みです」
「そうか。じゃ、寂しいなひとりで」
「…うーん…まぁ…そうですね」
「何時にバイト終わる?」
「僕ですか?…9時くらいですかね」
「じゃあさ…俺、このあと飲みに行くから終わったらおいでよ」
その会話を聞いていた店主がカウンターから顔をぬっと出し「駄目だよ伊藤さん。そいつ中学生なんだから」と言った。
「え?中学生?高校生じゃないの?」
「高校生でも駄目でしょうよ」
その場は、それで終わった。
店主の助け舟があって、遥斗は心の底からホッとした。
大人の遊びにまだ興味はない。
伊藤は仕事が早く終わったせいで暇で仕方ないのか、そこから2時間ほど店主や他の常連客、遥斗らを相手に世間話をしつつ居座った。
「遥斗。今日は暇だし雄星もいないから早く帰りなさい」
8時過ぎ、一旦客が途絶えたのをきっかけに店主がそう言った。
既に、遥斗に持って帰らせるオカズはパックに詰められていてそれを受取り、礼を言って遥斗は早々に店を後にした。
ガサガサと鳴るナイロン袋を揺らしながら、遥斗は雄星に電話をかけて何か欲しいものはないかと聞く。店主の好意はありがたいがさすがに油っぽいものは食べられないだろう。何か食べやすいものが欲しいと言うので、遥斗は駅前のコンビニに立ち寄った。
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遥斗から電話がかかって来て、雄星は時計を確認した。
8時半に店を出たと言う。
店から雄星ならばバイクで5分だが、遥斗と行く時は遥斗に合わせて歩いて30分ほどかかる。コンビニに寄るとして9時10分になって遥斗が帰らなければ外に出て様子を見に行こう。
そう考えていた。
体調は良いとは言えない。
熱は朝に少し下がったが、また日が沈む頃から上がって来て、雄星はずっと自室のベッドに寝転んでいた。
もうすぐ、夏休みが終わる。
夏休みが終わったら、きっと遥斗もアルバイトを辞める。
そしたら、この家に泊まる必要もなくなる。
雄星は、夏休みが終わったら学校を辞めるつもりでいる。
どうせ、頭が良い訳でもない。
ただ、中卒では就職先もないし将来苦労するぞと、なんでも自由にさせてくれる父が唯一それだけは強く言うから、勉強しなくても入れる学校を選んだ。
ダンス部に入ったのも、小学校の時にたまたま習っていたからだ。
特に、思い入れもない。
ただ、アルバイト先の常連客の伊藤が”ちゃんとした”仕事を紹介してくれると言う。最初はアルバイト扱いではあるが、18歳になれば正社員にしてもらえると言う。
伊藤のことは信用していない。信用など出来るはずはない。信用してはならない男だ。
一度は信用してしまったからこそ、わかることだ。
ただ、雄星には他に頼るところがない。
背に腹はかえられない。とにかく、これ以上は父に無理をさせたくはない。
早く、自分の生活くらいは自分で。
いずれは、父が無理に働かなくて済むようにしたいのだ。
けれど、それを遥斗には言えずにいる。
遥斗は、自分と同じ高校に行くと言う。
遥斗なら、そんなにバカでもないだろう。他の学校にしろと何度も言った。
けれど、遥斗は譲らない。
それに
雄星は、遥斗が自分とおなじ学校に行きたいのだと言ってくれたことが嬉しくて、それ以上は言えなかった。
でも、言わなければいけない。
今日にでも、学校は辞めると話さなければいけない。
布団にくるまってついうとうとしていた雄星が目を覚まし、慌てて時計を見ると9時半をとっくに回っていた。
遅いな。
そう思い、スマホを開くが遥斗からの連絡はない。
もしかすると、知らないうちに帰ってきて、雄星に気を使って声をかけずにいるのだろうか。
「……遥斗?」
ベッドから起き上がると、ほんの少しさっきよりは身体が軽くなった気がした。
自分の部屋から出て、父の部屋や台所、風呂場を覗いて呼びかけてみても、やはり遥斗の姿はない。
外は、雨も降っている。
何かあったんだろうか。
けれど、そうは言っても雄星の計算上で少し遅くなっているだけで、多少のズレはあるだろう。
そう思い直し、風呂を沸かしてみたり、テレビをつけてみたり、そうしているうちについに時計は10時を指した。
カチッと時計の針が10時を指した微かな音と共に、雄星は部屋を飛び出した。
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遥斗は、店のすぐ近くのコンビニに寄ったことをやや後悔しながら歩いていた。
ここから30分歩かなければいけないのに、右手にはアルバイト先でもらったおかずのパックが入った袋とゼリー飲料の入った袋を下げて、右手には傘をさしている。それが地味に重いし面倒くさい。
もう少し先で買えば良かったなとため息をついていると、ふいに車のクラクションが鳴って、遥斗は後ろを振り返った。
「バイト終わったの?」
「…伊藤さん」
黒い大きめのセダンタイプの車の助手席の窓から顔を出した伊藤は、ほんのり顔が赤く酔っている様子だ。
「乗りなよ」
「…いや、でも」
正直、車に乗せてもらえるのは助かるけれど、警戒心が先に立つ。車に乗ってしまえば、どんな誘いも断れないからだ。
「もう飲みに行こうとか言わないからさ。家どこ?送ってあげるよ」
遥斗が戸惑っていると、伊藤の乗った車に後続車が追いついてクラクションを鳴らす。
「ほら、早く。後ろに怒られちゃう」
急かされて車に乗った遥斗は、声をかけられた時に振り返らずに行けば良かったと少し後悔しはじめた。
運転席には、伊藤と同じくらいかそれとも少し若いだろうか、外国人にも見える彫りの深いニヤニヤと嫌な笑顔を浮かべる男がいた。
笑顔ではあるが、いい印象は一切持てない。
「遥斗くん」
伊藤が後部座席の遥斗を振り返る。
「ちょっとアルバイトしない?」
「アルバイト?」
遥斗の反応に、運転席の男はさらにニヤニヤと嫌な顔を浮かべる。
それだけで、ろくな話では無いとわかる。
「まぁ、ちょっと今から詳しく話したいからついて来てよ」
「…あの、すみません。降ろしてください、歩きます」
信用するな。
雄星がそう言っていたのを、何故忘れてしまったのか。
運転席の男は遥斗の言葉を無視してアクセルを踏んで、車は目的地から離れはじめる。
雄星に助けを求めよう。そう思い、遥斗が肩から下げていたカバンを探ってスマホを探したのを見て、伊藤は言った。
「雄星はこっち側だから助けてくれないよ」
「…こっち側?」
「あいつ、学校辞めてうちで働くんだ。聞いてないか?」
「…聞いてない」
「お父さんに苦労かけたくないんだって。だから、雄星の生活は今、俺にかかってるんだよ。だから、雄星は俺に逆らえないってわかるよね。中学生でも」
黙り込む遥斗に、更に伊藤は笑って言った。
「ていうか…逃げるなら今すぐドアを開けて走って逃げればいい」
これまで一度も、遥斗は自分の足が不自由なことで泣いたことはない。
自分は、そう産まれたのだから仕方がない。
多少は、悔しいこともあったし、自分の身体を呪ったことが全くないわけではない。
みんなのように走れたらとか、跳べたらとか、踊れたらとか、思ったことだって何度もある。
けれど、それを口に出したとてどうなるわけでもないし、何故か母はそれを自分のせいだと思っているし、特に母の前では悔しいと言ったこともなければ、泣いたこともない。
けれど、遥斗は泣いた。この時だけは。
走って逃げられないこと。
それを嘲られたこと。
いや、それよりも”そこにつけこまれたこと”が悔しかった。
まだうまく歩けない子鹿が、親からはぐれるのを待っていたのだ。この伊藤というハイエナのような男は。
「…何すればいいんですか」
遥斗が喉から絞り出すように聞くと、伊藤は前を向いて「もう着くから」と言って、運転席の男に車を地下駐車場に入れるよう指示した。
車を停めたのは、有名な名前のビジネスホテルの地下だったが、車を降りた伊藤と外国人風の男、そして遥斗は地下からエレベーターに乗ってホテルの一階に上がり、そのままフロント前を通り過ぎて一旦外に出た。
雨は止み、ジトっとした空気の中をほんの数メートル歩いて、5階建ての長細い形の雑居ビルに入った。狭いエレベーターは、3人も乗ればいっばいだったが、外国人風の男は不自然に遥斗に身体を密着させて後ろに立っていた。
男は背が高く、鼻息が耳にかかるようで不快だった。
遥斗が眉間にシワを寄せるのを見て、伊藤は「ケン」と窘めるように男に言った。
それが、この男の名前らしい。
エレベーターは最上階に到着し、扉が開くと狭いエレベーターホールの先にはひとつの扉があり、左手は行き止まりで右手には狭い非常階段がある。
ここに来て、遥斗は未だ逃げる方法はないかと思っていた。
しかし、エレベーターは呆気なく下に降りていき、非常階段はあるがとうてい逃げられるわけはない。逃げようとしても、きっとすぐに捕まって笑われるだけだ。
伊藤が扉を開け、ケンと呼ばれた男が遥斗を押し込むようにして部屋の中へ誘導した。
伊藤は後ろ手で扉を閉め、鍵をかける。
最悪の光景だと、遥斗は震えた。
「…なんですか…これ」
その反応は、伊藤の思い通りだっただろう。
だから、すぐに鍵をかけた。
殺風景な部屋の中には、安そうなソファと、真ん中に大きめのベッドがひとつ、三脚にセットされたビデオカメラがソファとベッドそれぞれに向けられており、さらにベッドの奥には身体を拘束するような器具が何台かそびえていた。
遥斗の手首は、ケンという男にすでにしっかりと掴まれている。
「世の中には物好きがいるんだよ。既存のAVでは規制が厳しくて満足出来ないリアルを求める貪欲な客がたくさんいてさぁ…俺はそういう可哀想な人向けのコンテンツを供給してやってるんだよね。ほんと人間の欲って厄介だよな」
「…AV…?」
「見たことくらいあるだろー?中学生男子なんて真っ盛りじゃないか。でもなぁ、うちが作ってるのはちょっと君たちが好きなものとは違うかもな」
伊藤はソファの方向を向いているカメラを覗き、満足気に頷くと遥斗の前に立った。
「とりあえず、脱ぐか」
「…無理です」
遥斗が答えると同時に、パァンと乾いた破裂音が部屋に響いた。
伊藤が、その大きめの手で遥斗の顔を平手打ちした。
「いいから。心配しなくていい。ケンは手慣れてるから任せておけばいいよ」
伊藤のその言葉を合図に、ケンは遥斗の腕を引っ張り、カメラが向けられているソファに放り投げた。
「嫌だ!やめろよ!」
抵抗する遥斗の腹の上に、ケンは容赦なく全体重をかけるように乗り、圧迫された遥斗の喉からグッという声が漏れる。
「いいよ、すげーリアル。なにかっていうとやらせだ仕込みだって言われるからなぁ…いいよ」
そう言いながらカメラを覗く伊藤とは対照的に、ケンは終始無言で、相変わらずニヤニヤとした笑みを浮かべ、遥斗の腹の上に乗ったまま着ていたTシャツを脱いだかと思うと、今度はベルトに手をかけ、手際よく下着一枚の姿になった。
遥斗は、抵抗しながら気づいた。
遥斗が抵抗し、叫べば叫ぶほど、身をよじればよじるほど、彼らは喜ぶのだ。それを求めているのだと。
この状況すら、彼らにとって商品になる。
そしてやがて、力尽きて抵抗しなくなるのを待っている。
遥斗自身も、もう無理だと諦めかけていた。
どうせ、時間の問題だ。
いずれ力尽きて、この男に犯されるのだ。
そして、その様子を見知らぬ誰かに供給されるのだ。
そのまま、この人生は狂っていくのだ。
けれど、全ては自分のせいだ。仕方がない。誰を恨むことも出来ない。自分の身勝手が招いたのだ。
そう思いながらも、やはりどこか諦めきれず、ただ藻掻くしかなかった。
伊藤はその様子を見ながら笑って言った。
「雄星よりしぶといな、お前」
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雄星は、息を切らせて階段をかけあがった。
家を出たあと、アルバイト先に電話をすると、店主は「まだ帰っていないのか」と驚いて大きな声で言った。
そして、伊藤に飲みに誘われていたことを聞いた。
そこで、雄星は察した。
察するしかなかった。
まさか、遥斗にまでその手が伸びるとは思っていなかった。まだ中学生だ。
しかし、伊藤の理性がそんなことで働くわけもなかった。
どうして、ひとりでバイトに行かせてしまったのか。
どうして、熱なんて出してしまったのか。
エレベーターは、雄星の目の前で閉まり上の階へと行ってしまった。病み上がりに、急な非常階段を5階まで駆け上がると、肺が潰れそうに苦しかった。
「開けろ!!!!開けろよ!!!!」
それでも、その扉を全体重をかけて叩いて叫んだ。
「遥斗!!!!遥斗!!!!!」
何度、そう叫んだだろう。
叫んだところで、扉は開かないかもしれない。
けれど、この声が階下や外に届けばいい。誰かが、様子を見に来ればいい。あわよくば、警察に通報してくれやしないかと微かな期待をして扉を叩いて、声の限り叫んだ。
すると、その意図を察したのだろうか。
突然、扉が開いて伊藤が憎々しげな顔を見せて、雄星の腕を掴んで部屋の中へと引っ張りこんだ。
「…うるせぇな」
伊藤の手を振り払い、雄星は一直線にソファの上で遥斗に馬乗りになったままこちらを振り返る男に向かっていく。下着姿の男は、遥斗の上から降りて雄星の前に立ちその髪をつかんだ。
「…邪魔すんなよ。これからなんだよ」
男の声は、焼けたようにしゃがれていた。
「変態野郎」
雄星の言葉に男はニヤニヤと笑みを浮かべて「またお前もやるか」と言った。
男が目の前に立ち塞がっているので、雄星から遥斗の様子は見えない。
遥斗は、こっちを見ているのだろうか。
男は、そのニヤニヤとした嫌な笑い方をやめない。
遥斗には、知られたくない。
雄星も、ここに騙されて連れてこられて、この男達の餌食になってしまったこと。
「…遥斗、大丈夫か」
男の身体越しに呼びかけたが、返事がない。
「大丈夫。まだなーんにも始まってない」
伊藤が靴の音を部屋に響かせながら、雄星とケンを通り過ぎて行った。
「お前の方が諦めが早かったよ。なかなか頑張って抵抗したな、遥斗は」
「やめろよ」
「でもなぁ、ショック受けたよなぁ…大事なお友達の雄星がこんなことしてただなんてなぁ」
「やめろ!!」
雄星はケンの身体を押しのけようとするが、ケンの強靭な身体は動かない。
そして、ケンの身体を押すその力を、雄星が諦めたようにふと抜いて、右手を後ろに回す。その様子を見て、伊藤が「ケン!」と叫んだが、逆効果だった。
ケンは振り返り、雄星から目を離した。
その瞬間、雄星は一歩後ろに引いて勢いをつけてから、ケンにもう一度全身の力をこめて体当たりした。
いざという時のためだった。
使うことがないように願った。
ただ、仕方がなかった。
必死だった。
自分の命を守るためではない。遥斗を守るため。
やがて、雄星の目の前に立ち塞がって視界を遮っていた男の身体がぐにゃりと曲がり、ドンッと鈍い音を立てて床に崩れ落ちて、男は呻き声をあげた。
すると、雄星の視界がはっきりとした。
力尽きて朦朧とした様子の遥斗と、目が合う。
「離せ。遥斗から離れろ」
伊藤が遥斗の腕をつかんでいたその手を素直に離したのは、懸命な判断だろう。
雄星が震える両手で小刀を持ち、その刃先から、鮮血がポタポタとこぼれ落ちているのだ。
雄星は、ケンを刺した。
その小刀は、暴力団員であった父が護身用にと昔身につけていたものだ。足を洗った今では、死んだ母の仏壇にしまわれていたものだが、雄星はそれをポケットに忍ばせて遥斗を助けに来たのだ。
どんなことをしても、遥斗を守ると心に決めて。