想像していたよりも、道路はきちんと舗装されていると遥斗は感じた。


山間の集落というから、てっきり道無き道を行かなければならないのかと思っていたけれど、意外にも道路は広くて綺麗だし、集落の家々も近代的だ。


強いて言うならば、山道に入る直前にコンビニを見かけてからかれこれ20分経つが、あれが一番最寄りのコンビニなのだと思うとやや気が遠くなった。


遥斗の新しい父となった岩倉充は、無口ではあるが優しい性格をしていた。もう可愛げもなくなったような中学生の遥斗のこともちゃんと気にかけて来たし、遥斗もそれをわかっていたから彼のことは好きだ。


母も良い人を見つけたんだと思った。


ただ、今さら苗字が変わることはむず痒い。


吉住遥斗。


15年間慣れ親しんだ名は、岩倉遥斗というやや厳つめの名に変わる。


岩倉遥斗です。


これからは…そう、それは新学期に控えている転校先の中学校での自己紹介の時には、そう名乗らなくてはならないのだ。間違えないようにしなければいけない。


「遥斗、大丈夫?酔ってない?」


母が助手席から振り返って遥斗に言った。


「大丈夫か?一度停めるか?」


続けざまに父も言った。


「大丈夫。もうすぐでしょ?」


「あと5分くらいかな」


「じゃ、平気」


正直、くねくねとした山道に少し頭痛はしていた。


遥斗はカバンからお茶のペットボトルを出してひと口飲んで、気分を整えた。


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「遠いところからお疲れさん」


充の両親がそう言って出迎えてくれた岩倉家は、田舎らしい古い家屋だった。


引き戸の玄関を開けると、広い土間のがあって、年季の入った小さなテーブルと椅子がふたつ置いてあり、簡単な来客ならばそこで話をするようになっているのだと充は遥斗に言った。


母の綾子は何度もこの家を訪れているが、遥斗は初めてだ。


玄関から入ると、中はリフォームされていて意外にも明るく近代的だったが、通された居間の天井を見上げると真っ黒に光る太い梁がインテリアのようにして残っていた。


居間に通されたものの、遥斗は正座が出来ないのでどうするべきか戸惑っていると、充がハッとして「こっちにしようか」と廊下を挟んだ台所の食卓のほうへ招いた。


その時、充の母…つまり遥斗の祖母となる人が小さく「…あぁ」とため息をつくようにして、遥斗の引きずった足に目を落とした。


祖母は小柄だが、歳の割に顔のシワは深く、苦労を感じさせた。


そりゃため息もつくだろう。


遥斗はわかっていた。


きっと彼女は、なかなか嫁が来ない長男を気に病んでいただろう。


今の時代にも、こんな山の中の集落では跡取り、家の繋がりを大切にする風習はまだまだ根強く残る。祖母の世代であれば尚更だ。


それが、ようやく嫁が来たと思えばコブ付きだ。


しかも、身体が不自由と来ている。


これでは、あとを継がせるどころか仕事の手伝いもさせられやしないじゃないかとでも思っているのだろう。


しかし、充の父である祖父はといえば、穏やかにニコニコと食卓の椅子を引いて、遥斗に手招きした。


そして唐突に「野球は好きか」と聞いた。


テーブルにはスポーツ新聞が広げられている。


野球観戦は好きかという意味だろう。


「…えっと…あまり詳しくないです」


「そうかぁ…じゃ、何が好きだ。スポーツじゃなくてもテレビでもなんでも」


「…映画とか」


「そうか!映画が好きか!こんなところじゃひとりで行けないだろう、俺が今度連れてってやる」


充の無口は、父親譲りではなさそうだ。


祖父は、戸惑う遥斗に積極的に話しかけた。


まるで、やっと遊び相手をみつけた子どものようだった。


遥斗自身も、きっとこの祖父が見ず知らずの家族の中で自分の心の拠り所になるのだろうと確信した。


実際に暮らしてみても、やはり祖父は遥斗と積極的にコミニュケーションを取った。


家の古く急な狭い階段には、いつの間にか祖父が手すりをつけてくれたし、学校までは歩いて20分ほどかかるが祖父が朝はいつも軽トラックで送ってくれた。


まわりのみんなより少し早く出れば歩いて行けるのだが、この祖父の親切は誰かに強要されたものではなく、祖父の好意でしかないとわかっていたので、遥斗は悪い気はしなかった。


いくつかの小さな集落の子供たちが集まる転校先の中学校は、ほとんどの生徒が保育園からの幼なじみであったので、3年生になってからの転校生にみんな戸惑っているようだった。


教室に入る時、あえて遥斗は足をひきずっているのを誤魔化さないことにした。


最初から、見てわかるほうが説明しなくて済む。


別に、友達も出来なくてもかまわない。


どうせ、1年だ。


1年後にはどうせバラバラになって高校でまた新しく友達を作らなければいけないのだから。


「岩倉くん」


そんな風に思っていたこともあって、転校して3日目にしてようやくクラスメイトに名前を呼ばれた時、自分のことだとは気が付かなかった。


「岩倉くん」


2度目に呼びかけられて、そうだ自分は岩倉になったのだとハッとして顔を上げた。


「ごめん、なに?」


前の席の木谷和真が後ろを向いて、じっと遥斗の顔を見つめていた。


野球部で坊主頭、色黒で、目鼻立ちがはっきりして、頬にいくつかのニキビが目立つ。


「土曜日、暇?」


「土曜日?明日?…別になにもないけど」


「一緒に出かけない?」


「え?俺と?…なんで?」


「高校のオープンスクールがあるんだよ。行く約束してた友達が風邪ひいていけなくなった。…もうどっか決めてる?」


「決めてないけど」


「だったら、付き合ってよ」


正直、休日は暇だ。


車がなければどこにも行けないし、バスや電車もまだよくわからない。なにせ、バスも電車も1時間に1本来ればいいほうだ。


まだ、自分自身オープンスクールに行く気になってはいなかったが、休日の暇つぶしにはいいだろうと、遥斗は和真の頼みを引き受けることにした。


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「爺ちゃん、明日駅まで送ってくれない?」


学校から帰ると、祖父母が居間で夕方のニュースを見ていた。


祖母はソファでうとうとしていたらしく、遥斗の声にハッとしてまるで寝ていなかったと誤魔化すかのように、足元のカゴに入っている畳み掛けの洗濯物に手を伸ばした。


普段なら、遥斗が帰ってきた時間には祖父は畑に出ているが、今日は夕方から天気がぐずついたので早めに帰ってきた様子だ。


「遥斗。送って欲しかったらちょっと手伝うか」


祖父は読んでいた新聞を畳んで立ち上がって言った。


「…手伝えることなんてあるもんかね」祖母は居間から出ていく祖父と遥斗を目で追いながら呟いた。


祖父は遥斗を連れて外に出ると、家の裏手にまわった。


そこにはいくつかのビニールハウスの骨組みだけがあり、その中は雑草が伸び放題だった。


「もうすぐ苗の種をまくから草刈りをしたいんだ。手伝ってくれるか」


「…いいけど」


手伝えることなんてあるもんかね。


祖母の言う通りだ。


草刈りと簡単に言うけれど、僕に出来るだろうかと遥斗は少し暗い顔をした。草刈りとなると長い時間しゃがみこんでの作業だと思ったからだ。


すると祖父はまるで心の中を察したように「婆さんはなんであんな意地の悪いことを言うんだろうな」と言って、農機具の倉庫から電動の草刈り機を持ち出し、遥斗に差し出した。


「え、こんなの使ったことないよ」


「そりゃそうだろう。ちゃんと教えてやるから」


さっき、遥斗が帰ってくるまでに祖父母は居間でどんな話をしていたのだろう。祖母が、遥斗のことについて何か言ったのだろうか。


そうでもなければ、普段、祖父に何かを頼んで代わりに手伝いをしろなどと言われたことなどないのだから。


祖父は、なんとかして遥斗が祖母に対して肩身の狭い思いをしないで済むようにと考えたのだろう。


祖父は、遥斗が慣れない手つきで草刈り機を扱うのを自分は草刈り機の入らない隅の方の草を手作業で刈りながら、遥斗から目を離さないで見守った。


「また手伝ってくれな。暖かくなると忙しくなるから」


「うん…」


「明日だな。どこ行くんだ」


「高校の見学だって。友達の付き添い」


「どこだ」


あまり興味がなかったので、遥斗は和真に聞いた高校名をなかなか思い出せなかったけれど、やっと記憶を呼び起こしてそれを告げると祖父は笑った。


「あーあそこか。あそこならあんまり勉強しなくていいぞ」


しばらくして、地域の集まりに出ていた遥斗の父が帰って来ると、祖母が晩御飯の支度を始めた。


遥斗の母綾子は、以前の職場を辞めずに車で40分ほどかけて通っていたので、帰りは遅い。というより、この家の晩御飯が早いのだ。


基本、18時頃にはみんなが食卓を囲む。


今の季節なら、そこから各々自由な時間を過ごすが繁忙期になると、忙しなく晩御飯を終えてまた祖父と父は日が暮れる寸前まで農作業に出たりする。


だから、晩御飯の用意が整った頃かそれより少し遅れて綾子は帰宅する。


だから、食事の用意が出来ない代わりに、綾子が食事の後片付けをする。


母と2人暮らしの時は、遥斗も台所に入って手伝っていたが何せ古い因習に囚われた祖母が男子が台所に入ることを良しとしないので、綾子は遥斗に手伝わなくてよいと言う。


人数が増えたのだから、手伝いは余計に必要だろうが祖母にグチグチと言われることのほうが面倒なのだ。


今どき、こんな家があるのかと遥斗は呆れるのだが、遥斗にはどうしようもないことだ。


基本的に、自分は祖母に嫌われている。


だから、なにがあっても仕方がない。


遥斗はそう思って、諦めることにしていた。


なんなら、祖母に「何も出来ない役たたず」と思われている方が都合が良い。


こんな家の跡取りだなんだと期待されては困る。


仕事だって、祖父や父の手伝いくらいはするつもりはあるが、それを生業にするつもりなどさらさら無い。


なんとなく陰鬱なのだ。


ここに来てから。


狭い井戸に落とされたような閉塞感が常にある。


時々、部屋にひとりでいるのに、誰に気を使うこともないのに息が詰まるように感じることもある。


そんな時、遥斗はつい思い出してしまう。


我ながら身勝手に断ち切った香耶のことを。


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香耶がその自分の感情に気がついたのは、小学校の5年生頃のことだ。


幼なじみの遥斗は生まれつき足が悪く、いつも右足を引き摺って歩いていた。


本人は、生まれついてからこうなのだから何も不便はないのだと言うのだが、それでも元気のありあまる小学生にしてはいろいろなことが制限されていた。


だから、幼なじみである香耶は周りの大人たちに遥斗の面倒を見てやるようにとよく言われた。


普段は、仲の良い遥斗と一緒に行動することになんの問題もないのだが、時には不便な想いをすることもあった。


移動教室や課外授業などで遥斗と行動しようと思うと、仲の良い女の子同士の班に入れなかったりもする。


けれど、香耶の性格ではそれを嫌とは言えない。


ある時、社会見学の班を決める話し合いがあった。


そこでも、香耶は仲の良い友人たちの班に入るよりも遥斗と一緒に行動することを優先しようとした。


そんな香耶の様子を見て、仲良しの愛美が先生に話をしてくれた。


香耶ばかりに吉住くんの面倒を見させるのは不公平です。


香耶だって自由に行動したいと思います。


愛美のそんな訴えを聞いて、担任は香耶を放課後にひとり呼び出し、香耶の気持ちを聞きたいと言った。


香耶はどうしたい。


香耶は、愛美の気持ちは有難いがやはり遥斗と一緒に行動することにすると言った。


本心は、どうだったかわからない。


ただ、担任の目は香耶がそう答えてくれることを期待しているように見えたのだ。


香耶が想像していたとおり、担任は香耶の答えにホッとした顔だった。


大人の期待を裏切れない優等生。


それが、香耶の性格だった。


しかし


社会見学の当日になって、香耶は愛美たち仲の良い女子の班に入って行動することになった。


遥斗が、社会見学を休んだからだ。


「なんで休んだの」


香耶は、社会見学の帰りにまだリュックも背負ったまま遥斗の家を訪れた。遥斗は朝から着替えてもいないのかパジャマのような格好で香耶を出迎えた。


「…頭痛かったから」


「ほんと?」


「つまんなそうだったし」


私もつまらなかったよ。


だって遥斗がいなかったから。


その言葉を香耶はぐっと飲み込んで「仮病なの?」と遥斗を睨んだ。


「うーん…まぁ…」


「最低」


「楽しかった?」


「…まぁね」


「じゃ、良かったじゃん」


香耶は、なんとなくわかっていた。


遥斗は香耶に気を使ったのだ。


愛美たちに誘われているのを知って、それを自分のために断ったと知って、わざと休んだのだ。


確かに、女の子たちと誰に気を使うことも無く遊ぶのは楽しかった。


歩く速度も合わせる必要がなくて楽だった。


なにより、大人の目を気にしなくて済んだ。


でも


みんなは誤解している。


きっと、遥斗もみんなと同じように誤解をしている。


なんなら、自分もだ。


香耶は、決してまわりに強制的に遥斗の面倒を見させられているのではない。遥斗のそばに居たいからそうしているのだと、この時に初めて気づいた。


遥斗に速度を合わせて歩くことは決して嫌なことではなかったとわかった。


だって、そうでなければ今日一日のなんだかポッカリと大きな穴が心臓に空いたような、楽しかったはずなのにこんな虚しい気持ちになっている説明がつかないからだ。


「…もうサボっちゃダメだよ」


けれど、そう伝えるのがやっとだった。


その日、香耶に芽生えた恋心はその先もずっと変わらず続いた。


中学生にもなると、周りからのそういった強制はなくなったこともあり、なんとなく遥斗と距離が出来た。


そして、少し離れて客観的に見てみれば、遥斗には他人の世話などほとんど必要はない。それに、人の手を借りなければいけない場面ではちゃんと自分で友達に助けを求めることだって出来る。


私は、彼に必要だったのだろうか。


香耶はそんなことすら思っていた。


そんなある日のことだ。


放課後、委員会の仕事があり部活に遅れた香耶が廊下を急いでいると、誰もいない教室の真ん中の机に突っ伏して寝ている遥斗を廊下側の窓から見つけた。


遥斗は部活に入っていないので、まだ帰っていなかったのかと声をかけてみた。


「遥斗?なにしてるの?」


その声に気づいて、遥斗は机に突っ伏したまま顔だけを香耶に向け「別に」と素っ気なく答えた。


「帰らないの?」


「…うん。ちょっと足痛くて。痛くなくなるの待ってる」


「え、大丈夫?」


「うん」


部活へと急いでいた香耶だったが、思わず教室に入り遥斗の隣の席の椅子を引いてそこに座り、遥斗の様子を伺った。


思えば、最近はこうやって近くに寄って話すこともなかった。


遥斗は香耶の心配そうな顔を見て、小さく笑った。


「癖ってなくなんないね」


「癖?」


「香耶は俺のお世話係だもんね」


「そういうわけじゃないけど…」


「部活行かなくていいの?」


「…まぁ、1日くらいいいんじゃない?」


「だったら、ちょっと一緒に話しててよ。暇だから」


それがきっかけで、また少し香耶は遥斗と距離を縮められたのだと思う。


「また、困ったら言ってよ…」


何年かぶりに、香耶は部活をさぼって遥斗と一緒に帰り、遥斗の家の玄関前でそう言った。


遥斗から頼られることがやっぱり嬉しかった。


嬉しいと言ってはいけないのかもしれない。


遥斗が頼るのは、自分が辛い時なのだから。


でも、どうしてもその連絡を待ってしまう。例え都合の時良いだけだとしても、心を許して頼ってくれるのを待ってしまう。


けれど、結局…香耶のそんな想いは遥斗に伝わっていなかった。


「もう忘れてくれない?」


呆気なく、もう必要ないと言われたのだ。


結局、香耶はあくまで強制されて遥斗のそばに居るのだとしか、彼は思っていなかったのだ。


あの日、社会見学を休んだのと同じ。


自分がいなければ、香耶の肩の荷が降りるのだと、そう思っているのだ。