僕は毎朝、同じ時間に、念の為かけておいたアラームよりも少し前に起きる習慣がある。
だから、今朝もふと自然に目が覚めたけれど間もなくアラームが部屋に鳴り響いて、それを止めようと枕元に手を伸ばしたが見当たらなかった。
昨日、どこかに置きっぱなしにしたまま眠ってしまったらしく、隣で眠っている莉久を起こさないように、手を伸ばしてソファの上を探す。
やっと、クッションの下に滑り込んでいた携帯を見つけてアラームを止めた。
そっと莉久とふたりでくるまっていた毛布から抜け出し、眠い目をこすって洗面所に向かい、顔を洗う。
さすがに床で寝てしまうと、あちこち痛い。
そしてまたリビングに戻り、仕事用の服に着替えて、ソファの下で眠っている莉久を踏まないようにソファに座って、昨日買ってきておいたコンビニのサンドイッチを食べる。
起きかけているのか、足元でゴソゴソと動き始めている莉久の寝顔を見ていると、正直...とんでもないことをしたんじゃないかと自己嫌悪に苛まれて頭を抱えてしまう。
「莉久。そろそろ仕事行くよ」
その考えを振り切るようにそう呼びかけると、毛布から目を出して「もう行くの?」と僕の顔とテーブルの上の置時計を見比べた。
「うん。もう時間だよ」
「...じゃ、起きる」
「まだ寝てな」
そう言ったのに、莉久は気だるそうにしながら身体を起こして僕に向かって両手を広げた。それを抱きしめると莉久は耳元で「また次は日曜日?」と聞いた。
「うん...そうだね」
「長いよ。1週間」
莉久の髪の匂いが鼻をくすぐって、つい昨日の夜のことを思い出してしまう。
「莉久。...うちに来る?今度」
「貴弘さんの家?」
「うん。だったら、いつでも来ていい。日曜日じゃなくても」
「...今日」
「今日?」
「駄目?」
「...じゃあ...ちょっと待って」
僕は玄関に置いた自分のキーケースから、家の鍵を外して莉久に手渡した。
「今日、他になんか予定ある?」
「別に何もない」
「じゃ、先に家に来てていいよ。勝手に家のもの使っていいし、好きにしてて。帰りは送ってあげるから」
僕の家の住所と、最寄り駅、駅からは歩くと少し遠いからバスに乗るようにと伝えて莉久の家を出た。
莉久が家に来たいと言ってくれたことが嬉しくて、ニヤけそうになる顔を隠すように俯きながら歩いた。
本当は、とてつもなく不安だった。
朝、目覚めた時、莉久に昨夜のことが悪夢だったかのように嫌な顔をされたらどうしようとか。我に返って嫌われたりしたらどうしようかとか。
ずっと考えていて、眠れなかった。
眠れないせいで、最悪の結末までたどり着いてひとりで勝手に泣いてしまいそうだったくらいだ。
けれど、莉久は両手を広げて僕に抱きしめて欲しがるし
僕に会えない1週間を寂しいと言ってくれるし、僕の家に来てくれるというのだから、嬉しくないわけがない。
少しづつ、彼は素直に可愛くなっていく。
少しづつ、閉ざした心を開いてくれる。
胃の奥に、少しの罪悪感の塊のようなものが痛む気はするけれど、今更そんなことを考えても仕方ない。
彼が僕に飽きるまで、僕はとことん彼に堕ちていくしかないのだ。
いつかその日は来るし、きっと遠い話ではない。
そのくらいの覚悟は、しているつもりだ。
ただ、今はこの幸せな気持ちをまるごと抱きしめていたい。
仕事がもうすぐ終わる頃に携帯を開くと、ちょうど莉久から家に着いたとメールが届いていた。
「晩ご飯なにか食べたいものある?」と聞くとなんでもいいと返って来た。家に帰って何かを作って食べてもいいけれど、せっかくなら家の近くの定食屋でいいかと思いつく。
味も美味くて安いし、そのうち連れて行ってやろうかと思っていたところだ。
莉久はあまり好みを言わないから、定食屋なら何か好きなものがあるだろう。
マンションの駐車場に車を停め、エレベーターで部屋まで昇り、コートのポケットに鍵を探して、そうだ家には莉久がいるんだったと思い出す。
あんなに莉久が家で待っていると思うと一日中浮き足立っていたというのに、これだから歳をとるのは困る。
職場を出た時に連絡はしてあったので、インターホンを鳴らすとすぐにドアが開いた。
「おかえり」
莉久の笑顔が目に飛び込む。
「...ただいま」
ただいまを言うのは癖だけれど、その相手がいることが嬉しい。
「なにしてた?」
「勝手に本棚の雑誌とか読んでた」
「面白いのあったか?」
「あったよ。時計とか車とか映画とか、いろんなのあって面白かった」
「そっか、それなら良かった。じゃ、僕が着替えたらごはん行こう」
「うん」
「ごめんな、散らかってただろ?」
よくよく考えれば、ソファの背もたれにはまた着ようと思っていた服やなんかが放り投げられたままだ。
「こんなもんでしょ普通」
「ちゃんと迷わずに来られた?」
「ちょっとだけ迷ったよ。駅から遠くて」
「歩いたのか?」
「だってバス待つの嫌だったんだ」
「上着は?」
「着てきてない」
「なんでだよ、歩いて来たんだろ?」
「出て来た時は暖かかったから」
やや厚手のトレーナーを着ているとはいえ、春がそこまで来ているとはいえ、まだ夜は寒い。
「お酒飲みたいし歩いて行くから、これで良かったら着なよ。昔から着てるからちょっと古いけど」
玄関先のポールにかけてあるウインドブレーカーを莉久に着せて、僕たちは目的の定食屋に向かった。
この小さな定食屋は、常連客で昼も夜も混んでいる。
ただ、僕たちが店に入ったのは混む時間のほんの少し前だったので、出入口の風が入るところではあったが座ることが出来た。
あまりに混んでくると、ひとりで来た時には相席にさせられることもあるが今日は莉久と2人用の席に座れたのでその心配もない。
壁に貼られたメニューは基本的に古いが、ここの店主は仕事に意欲的で常に新しいメニューが増えているし、売れないメニューはなくなっていく。
だから僕は、比較的新しいメニューを出来るだけ選ぶようにしている。
「油淋鶏...にしようかな。莉久は?」
「カニクリームコロッケ定食」
「好きだな、カニクリームコロッケ」
「うん」
「うまいけど家でなかなか作れないもんな」
「家で作れるの?」
「作ろうと思えば」
「作ってよ」
「嫌だよ。めんどくさい」
隣の席に食事を運び終えた店員に合図して注文しようとすると、莉久がテーブルに置いた僕の携帯を指さした。
「携帯、鳴ってる」
「あぁ…ごめん、莉久頼んどいてくれる?油淋鶏な」
「ゆーりんちーね」
「あ、あと生ビール」
僕は莉久に注文を頼み、店の外に出てから電話を取った。
電話は玲子からだ。
「どした?」
「今、なにしてるの?ごはん食べない?」
「あー今、もう食べてる」
「え、早いじゃん。どこで?」
「うちの近くの定食屋」
「美味しいって言ってたとこ?じゃ、私も行くわそっち」
「いや、連れがいるから」
「職場の人?」
「いや、まぁ、友達」
「そっかぁ...わかった」
「なにか話でもあった?」
「ううん。暇だったから」
実家に帰ってきてから、玲子から電話が来ることが増えて、時には一緒に食事に出かける機会もある。高校を卒業してからずっと暮らしていた土地を離れてこちらに戻って来たわけだから、遊んでくれる友達もさほどいないのだろう。
席に戻り、しばらくすると莉久のカニクリームコロッケ定食が運ばれて来て「今日は僕の勝ちね」と笑って言った。
「新メニューだからきっと手こずってるんだよ」
「先に食べていい?」
「どうぞ」
僕は油淋鶏定食が運ばれて来るまでに生ビールを1杯飲み干してからふいに思い出した。
「しまった。莉久を送っていくこと忘れてた」
「いいよ。電車で帰る」
「明日、何時までに帰ればいい?」
「朝?」
「うん」
「佳代さんがだいたい...9時くらいに来るよ」
「朝でもいいか?ちょっと早いけど。8時には帰ってたら大丈夫かな」
「僕はいいよ。いいの?泊まって」
「もちろん。ごめんな」
2杯目は、明日に響かないようにノンアルコールビールを頼んだ。
そして、店が一番混み始めた頃になって、ふいに後ろから肩を叩かれた。
「...玲子」
僕が振り返ると、莉久も顔を上げて僕の後ろに立っている玲子の顔を見た。
すると、そばに居た店員が気を利かせて余っていた椅子を僕たちが座る2人席に置いて行った。
「結局、行くとこなかったから来ちゃった」
「ひとりじゃないって言っただろ」
「別に同じ席に座るつもりなかったけどさ。席空いてないんだもん仕方ないでしょ?ごめんなさいね、お邪魔しますね」
玲子が椅子に座って莉久に向かってそう言うと、莉久は小さく会釈して玲子に向かって手を出した。
「カバン。こっちにカゴあるんで」
「あぁ、ありがとう。ごめんね」
玲子はカバンと上着を畳んで莉久に渡して、莉久はそれを丁寧に椅子の後ろにある荷物用のカゴに置いた。
そして僕に向かってニヤッと笑って
「彼女さんですか?」と玲子に聞いた。
「まさか。彼女だったらこんな迷惑な顔しないでしょ?うるさいのが来たなって顔してるじゃないこの人」
「別に。迷惑じゃないけど...来ると思わなかったからさ」
「ね、なに食べてるの?それ」
玲子は僕の話を無視して積極的に莉久に話しかける。
玲子の目は好奇心に満ちていた。
本当は莉久の食べているものになど興味はないはずだ。
「カニクリームコロッケです」
「あーちょっとオバサンにはキツいかも。ね、若そうだけどいくつ?」
「17」
「高校生?」
「そうです」
「玲子。根掘り葉掘り聞くなよ」
僕が止めるのを玲子は無視した。
「お名前は?私は金井玲子って言います。貴弘とは高校の同級生」
「小寺莉久です」
その名前に、玲子がやや反応した。
けれど、その引っかかった点については玲子も口には出さず、一呼吸おいて更に質問を重ねた。
「貴弘のお友達?ずいぶん若いけど」
「...そうです」
注文を取りに来た店員に、玲子は「焼きホッケ定食で」と言ってまたすぐに莉久のほうに前のめりになって質問攻めにした。
「ね、そのウインドブレーカー貴弘に貰ったの?これ高校生の時によく着てたよね、懐かしい。仲良いのね。どういう友達? 」
莉久が困ったような顔をして僕を見た。
玲子は天真爛漫ではあるが気が強く、やや意地の悪いところもある。そこが僕も裕太も面白くて仕方がないのだが。
僕は、意を決して玲子に言った。
「玲子にだから言うけど...俺たち付き合ってるから。困らせないでやってくれる?」
玲子が驚いた顔をして僕を見るその後ろで、莉久が僕の顔を見ていたので、僕は莉久に「大丈夫。玲子は僕のそういうの知ってるから」と言った。
本当は、のらりくらりと誤魔化しておこうと思ったけれど、莉久があまりに不安な顔をして、今にも泣きそうな顔をしてるよつに見えて、黙っておけなかった。
彼はまだ若い。彼女のような押しの強い人間を言いくるめるような技術はまだもっていない。
「...あぁ...そうなんだ...なるほどね。ごめん、本当に私邪魔だったんだね。もう、言ってよ電話した時にちゃんと」
「ちょっとは察しろよ」
「ごめんね、莉久くん。私、知らなかったから」
「莉久。食べ終わった?ちょっと先に帰ってて」
僕は莉久に部屋の鍵を渡した。莉久もそれを受け取って玲子に会釈をして黙って店を出ていった。
玲子は莉久の座っていた席に移動し、するとちょうど焼きホッケ定食も運ばれて来た。
「玲子、奢るからビール飲む?」
「奢りなら飲む」
僕は店員に生ビールを頼み、届いたそれを玲子は半分くらい一気に喉に流し込んだ。
「信じられない。本気?」
「莉久のこと?」
「それ以外なに?...そりゃ...男と付き合うのはわかってる、理解してるそこは。これまでもそうだったしね?だけど...17歳?ありえないんだけど。ショタコンなの?」
「まぁ、そう言われりゃそうだな。ていうか玲子も言ってたじゃないか年齢とか関係ないって」
「…言ったけど」
「どうせ成就しないと思ってたんだろ?からかってたわけだ。酷いね」
「そんなつもりじゃないけど…まさかと思うじゃない」
「それに、莉久に対してあんな風に困らせるようなことばかり言って。なんとなく察してたんだろ?意地が悪いよ」
玲子の言葉に怒っているわけではない。
莉久を困らせたお返しだ。
少しくらい、毒を吐いたっていい。
「...あの子は小寺真梨子のなに?関係あるんでしょ?だから、私に真梨子のこと聞いたんでしょ?」
「あの子は、小寺真梨子の息子だよ」
「理解が追いつかないのよ。こんなこと言いたくないけど...そもそもあなたもう40よ?自分の子どもでもおかしくないような、現に昔の友達の息子でしょ?...それをさぁ...」
「あのさ」
「なに?」
「僕が小寺真梨子のことを知ってることだけはあの子に言わないで欲しいんだ」
「...それくらい...ちゃんとさっきも飲み込んだでしょ?私だって言っちゃいけないことくらいわかったわよ」
「あんまり詮索すると嫌われちゃうからさ」
「何言ってんの?情けない」
「わかってるよ。理解してもらおうなんて思ってない。玲子は大事な友達だけど、かと言ってこんなこと無理やり理解させるつもりはない。だから、僕のことが情けないとか、気持ち悪いとか思うならそれでいい。友達でいたくないというならそれも仕方ない」
「...本気?」
「あの子には僕しかいないからね」
「思い上がりよそんなの」
「かもね」
頭を抱えるようにして僕を睨むように見つめている玲子を置いて、僕はテーブルの上の3人分の伝票を握って席を立った。