「寒いね、真っ暗だし」


夜遅い商店街は、もうほとんどの店のシャッターが閉まっていた。


ちらほらと、建物の2階部分で営業しているバーから暖かい照明が漏れていたり、24時間営業のコンビニや外国人向けの小さなスーパーが開いているだけだ。


僕と莉久が並んで歩く足音と話し声がアーケードの天井にこだまする。


コンビニに入り、莉久の家に泊まるために必要なものを探していると、莉久が「アイス食べたい」と言い出したのを「寒いのにいらないよ」と言ったけれど、莉久は聞こえないふりをしてチョコレートのアイスをふたつ持ってレジに向かった。


「いいよ。買ってあげるから入れな」カゴを差し出すと「いいよアイスくらい」と言って袋に入れてもらってから、また僕のところへ戻ってくる。


「家に髭剃りある?」


「ないよ。生えないもん」


「嘘だろ?」


「ほんとだって」


「じゃ、買うか」


「明日、仕事?」


「もちろん」


家に帰り、莉久はアイスを冷凍庫に入れた。


「今、食べるんじゃないのか」


「だってお風呂入るでしょ?入ってから一緒に食べようよ」


そう言っていたのに、僕が風呂から出て髪を乾かしてからリビングに戻ると莉久の姿はなく、隣の部屋を覗くと、殺風景なベッドの上で布団もかけずに眠ってしまっていた。


僕は、リビングに戻ってソファの傍にあった毛布とベッドの足元に畳まれていた布団を莉久にかぶせた。


時計を見ると、もう日付が変わろうとしていて僕もいい加減に眠かったけれど、そこに一緒に潜り込むのも躊躇われ、どうしたものかとソファに座りテレビをつけた。


彼は、何を思って僕にそんなに懐くのか。


それこそ、餌付けしたようなものだ。


ただ、自分に優しくしてくれる。


それだけで、こんな僕のようなオジサンを誘惑するようなことをするのか。


僕は深いため息をつき、ソファに寝転ぶ。


中途半端にこっちを向かないで欲しい。


好きになった人にふられることなど慣れている。


いや、ふられる前に諦めることに慣れている。


僕のような者は、純粋に好きになった人にその想いが受け入れてもらえることは少ない。いや、ほとんど無いと言っていい。


嫌な顔をされるくらいなら、僕の気持ちが冷めていくのを待つ方がずっといい。


恋人が欲しければ、同じ志向を持つ者たちの中で気の合う相手を見つけるのが1番いい。


けれど、彼はそうではないはずだ。


だから、中途半端にこっちを向かないで欲しい。


僕の優しさに甘えて、それを愛や恋だなんていうものと勘違いしないで欲しい。


気まぐれに、僕の手を取らないで欲しい。


歳をとると涙腺が緩むというのは本当の話で、僕は涙がこぼれ落ちる前に目を強くこすった。


勘違いしてはいけない。


彼は、僕でなくてもいいのだ。


優しく包み込んでくれる人、一緒に過ごしてくれる人であればきっと誰だっていいのだ。


彼のことを侮辱するようだけれど、そうでも思わない限り説明がつかない。


性別だけの問題では無い。


親子ほどの…現に彼の母は僕と同い年だ。


そんな僕が、彼に愛されるはずなどない。


「なんでそんなとこで寝てんの」


「…起きたのか」


寝転んだまま莉久を見上げると、莉久は手を伸ばして僕を起こそうとした。


「いいよ、ここで」


「じゃ、僕もここで寝る。だってあの部屋寒いんだもん」と言って莉久は隣の部屋からかけ布団と毛布を持ってきて、僕に毛布をかけて、自分はその下で布団にくるまって寝転んだ。


「代わるよ。ソファで寝なよ」


「ここでいい」


毛足が長めのラグが敷いてあるとはいえ、寝心地は良くないだろう。


「痛くないのか」


「大丈夫」


「莉久の上に落ちたらどうしよう」


「寝相悪い?」


「良くは無い」


「じゃ、こっち来る?」莉久は僕に手を伸ばして、僕はなにも考えずにその手を握り返す。すると、莉久はそれをぐっと自分のほうに引いて、僕はその勢いで毛布ごとソファから滑り落ちた。


滑り落ちた。


というより、本当はそこに行きたかった気持ちの方が大きかったのかも知れない。


彼の隣に行きたい。


その寝顔を傍で見たい。


彼に触れたい。


彼を抱きしめて眠りたい。


その全てを見透かすように、莉久はふふっと笑って僕の胸元に滑り込むように抱きついた。


柔らかい髪が僕の鼻をくすぐる。


「おやすみ」


莉久がそう言って目を瞑らなければ、僕はどうしていただろう。


もし、このまま僕の顔を見つめられていたら。


それとも、さっきみたいにキスを求められていたら。


僕は、理性を抑えきれず彼を抱こうとしただろうか。


そして、彼はそれを受け入れただろうか。


それとも拒絶しただろうか。


けれど


受け入れられたとしても、それは地獄のはじまりだ。


求めてはいけないものを求めた罪を償う時が


罰を受ける時が必ず来る。


全て投げ捨てても彼を手に入れたいと思う日が来るだろうか。


それとも、いつかこの想いも呆気なく消えて無くなるだろうか。


彼は、亡くした恋人をもう忘れたのだろうか。


僕の存在がそれを塗り替えるなんてことあるだろうか。


それとも、忘れるために僕を利用しているのか。


その寝顔にいくら語りかけても、答えはない。






「裕太は?まだ?」


「うん。もうすぐ来ると思うよ」


待ち合わせをした中華料理屋で、玲子は時間通りに現れた。


僕は、少し仕事が早く終わったので先に予約していた席についてグラスビールを1杯だけ飲み干したところだった。


「なに飲む?玲子」


「ビール」


「生でいい?」


「うん」


店員を呼んで中ジョッキのビールをふたつ頼み「先に何か食べるもの頼んでおこうか」とテーブルにメニューを広げると、玲子が「裕太が来る前に話したいことがあるの」と言った。


「…なに?裕太に内緒のこと?」


「ううん。裕太には関係ない話だから」


「なんだよ」


玲子はひとつため息をついて深刻な顔をした。


「こないだ、真莉子の話をしたでしょ?」


「あぁ…うん」


「私、地元を離れてしばらくは真莉子と連絡取っててね。彼女、女優になりたいって言ってたの…覚えてないか」


「覚えてるよ…ていうか思い出した」


「有名ではなかったけど細々と頑張ってたのよ。私は大学生だったしそのうち時間とか会話も合わなくなって連絡が途絶えてしまったんだけどね。それで…」


店員がジョッキをふたつテーブルに置いたので、僕は「食べるものはもうひとり来てからで」と伝えた。店員はどうやら本場の中国人らしく終始無言だったが、しっかりと頷いて下がって行った。


「貴弘から名前を聞いて懐かしいと思ってね、どうしてるのかと思って共通の友達に聞いてみたんだよね」


彼女が深刻な顔をしている理由はもちろんわかっている。


小寺真莉子は刑務所にいる。


けれど、知らないふりをしないといけない。


「…人を刺して刑務所に入ってるって。信じられない。あんな大人しい子がそんなこと」


「人を…刺して?」


「うん。…聞かなきゃ良かった。貴弘のせいだからね」


「ごめん。…それで?…理由とかは?」


「どうもお金に困ってたみたい。子どもがいたけど…相手が妻子ある人だったとかで。それで…」


「…それで?」


「働いていた会社のお金を横領して…それを告発しようとした人を刺してしまった。という話よ」


玲子の聞き伝えの話ではあったが、小寺真莉子には借金があった。


女優として端役を貰いながらアルバイトで食いつないでいた矢先、妻子ある男と付き合い妊娠した彼女には、仕事を辞めて子供を育てるほどの蓄えは殆どなかった。


妊娠がわかったのが、男と付き合っている時なのか別れてからなのかは不明だが、どちらにせよ男の援助はもらわなかったのではないかと思われる。


その男というのが、あの美容院の店主の息子であり、生まれた子どもが莉久ということだろう。


莉久を育てるため、生活のために借りた金は少しづつ少しづつ増えていった。


「子どもを産んで働き始めても、大きくなれば大きくなったでお金がかかるでしょ?…優秀な子だったらしくてね。だからこそ勉強をさせるためにはお金もかかるでしょ?苦労させたくなくて必死だったんでしょうね」


生まれて来なければ良かったんだ。


莉久の声がフラッシュバックした。


生まれてきたことが悪い。


そうも言った。


「誰かに相談すれば良かったのに…」玲子が言った。


莉久は、母親に似ているのか。

 

自分の弱さをひとに見せるのが苦手なのだ。


苦手…というより、助けを求めることが出来ないのだ。


些細なSOSをまわりの人間が見逃している限り、助けを求めることも出来ずに、ジワジワと追い詰められていく。


「その借金はどうなった?子どもは?」


「私にはそこまでわからない」


これまで、どんなに苦しくとも援助してもらうことがなかったのに、どういう経緯で莉久があの家に引き取られたのか。


そして、莉久もどうしてそれに素直に従ったのか。


優秀だったというあの子がどうして学校に行かなくなってしまったのか。


知れば知るほど、疑問が増えていく。


「玲子が暗い気持ちになることはないよ。仕方ない」


「そうなんだけど」


「ごめんね、僕が変なこと思い出しちゃったからだね」


そうしているうちに、裕太が遅れて店にやってきて、そのおかげでこの重い空気が救われた。


「帰り、どうするんだ?貴弘は」


「あぁ…僕は歩くよ」


「けっこう遠いだろ」


「酔い醒ましに歩きたい。お前たちは?」


「俺と玲子は方向が同じだからタクシーに乗り合わせようかと


「そうか。じゃ、ちゃんと連れて帰ってやってよ。僕は大丈夫だから」


裕太が呼んだタクシーを一緒に待つ間も、話は尽きなかった。


かれこれ裕太が来てから3時間は中華料理屋でそれぞれの近況を話したり冗談を言い合って、酒もよくすすんだ。

それでもまだ、話すことがあるのだから不思議だ。


「じゃ、おやすみ。また」


生ビールをグラスと中ジョッキで一杯ずつ。


濃いめのハイボールを二杯。


玲子と裕太はそこに杏露酒や紹興酒も飲んでいたが、僕は苦手だ。


ちょうど心地の良い酔い方をしたと思う。


家路を歩きながら、玲子から聞いた話を反芻する。


自分を育てるために、母親が罪を犯したというのであれば「生まれて来なければ良かった」と彼が思うのは不思議ではないと思う。


他に頼るところがなく、あんな針のむしろのようなところで生きている。しかも、忠実に言うことを聞いて、真面目に働いて、それでも家族にはしてもらえずに孤独を感じながら暮らしている。


彼は、なにを生きる糧としているのか。