熱々のおにぎりをれんげですくって口に入れようとすると、莉久が少し落ち着いた口調で聞いた。


「なんで僕に話しかけたの?」


思わず口をつけようとしていたれんげを戻す僕に、莉久は「それ食べてからでいいよ」と笑った。


僕は、それを口に入れて飲み込むまでの間になんと答えようかと考えていた。


その憂いに満ちた横顔が綺麗で吸い寄せられたからとはさすがに言えない。


そんな気持ちの悪いこと言っていいはずがない。


なにか、うまく言い換える言葉はないものか。


「…寂しそうだったから…かな」


「寂しそう?」


「うん…悲しそうというか…まぁ、場所が場所だし。何かあったのかなって」


「まぁ、楽しい顔するところじゃないよね」


「だけど…だからこそ反省してる」


「反省?」


「ちょっと…不躾に聞きすぎたなって…」


「それで?お詫び?」


「…うん、まぁそういうこと」


「変なの。何もそんなことないのに」


「うん。何もないのかも知れない。寂しそうとか悲しそうに見えたのも全部、俺の主観。勝手な妄想。…だけど、君が僕の不躾な態度にどう思ったかとか傷ついたかとかじゃなくて、その…自分の配慮の無さに呆れてる。お詫びと言ったのもそう。自分がこれで納得してすっきりするためで…」


「あの日…僕の大好きな人が死んだ」


想像通りだった。


だから、その話を聞くことになるかもしれないと覚悟は決めていたけれど、それでもそのひと言が胸に突き刺さる。


彼自身は、小鉢の中をれんげでかき混ぜながらなんでもない風に言ったけれど。


「彼女かと聞いたでしょ?」


「…うん」


「迷った」


「迷った?」


「…だったかも知れないし、そうじゃないかも知れないし」


「微妙なところ?」


「確認したことはない」


「どうして亡くなったの?」


「…言いたくない」


「ごめん。またやったな俺」


「いいよ。別に」


焼きおにぎりを食べ終えて、僕がそろそろ行こうかと立ち上がって莉久に車の鍵を渡した。


「エンジンくらいかけれる?」


「たぶん」


「じゃ、先に行ってかけといて」


莉久を先に行かせて会計を済ませながら、僕は深いため息をつく。


やっと少し、彼があの日のあの憂いに満ちた顔をしていた理由を話してくれたというのに、僕は先を急ぎすぎた。


大切な人が死んだ理由など語りたくないに決まっている。


僕が駐車場に着くと莉久はエンジンをかけて、もう助手席に移動していた。


車を走らせながら、僕は無意識にまたため息をついた。


たくさん聞きたいことがある。


彼について知りたいことがある。


けれど、怖くて聞けないのだ。


さっき、「言いたくない」と彼が呟いた時の唇の震えがどうしても僕の口を塞ぐ。


大きな川にかかる橋を渡る時、また彼が水面を眺めているのだろうかと思っているとこれまで黙っていた莉久が「停めて」と言った。


「え、どうした?」


「…気持ち悪い」


「え!大丈夫か」


「大丈夫じゃないかも」


橋を渡りきって、通行止めの堤防の脇の空き地に車を停めると、莉久はドアを開けて車から降り、地べたに座り込んだ。


「大丈夫か。車に酔った?」


地べたに膝を抱えて座り込み、顔を伏せている莉久の背中をさすった。


すると、その背中が小刻みに震えて僕は更に焦った。


けれど、どうしたらいいかと伏せている顔を覗きこもうとした時、彼は声を潜めて笑った。


「嘘だよ」


「え…嘘?」


莉久は顔をあげてこっちを見て、ニヤッと笑った。


「ごめん、嘘」


「ほんとに?」


「ほんと」


「…なんだよ。ビックリしたよ…良かった」


「怒んないの?」


「いや…ていうか良かった。ほんとは具合悪かったのに我慢して付き合ってくれてたのかとか…なんで気づかなかったんだろうとか。俺、どうも言動が君に対して裏目裏目に出てるからさ…いや、ていうかなんでそんな嘘ついた?…俺といるの嫌だった?それなら早く言ってくれればいいのに…楽しく…はないのはわかってたけどさ」


思わず、早口でまくし立てた。


具合が悪くなったのが嘘で、それに安心したと同時にそんな嘘をついてまで車を降りたかったのかと思うと、これまでの不安な気持ちが一気に押し寄せて止まらなかったのだ。


莉久は地べたに座り込んだまま、僕を見あげて「なんで?楽しかったよ?」と不思議そうな顔をした。


「じゃ、なんでそんな嘘…まぁ、もういいや。ちょっと待って。タクシー呼んであげるからそれで帰りな」


「なんで?怒った?やっぱり」


「お金とか心配しなくていいから」


僕がポケットから携帯を取り出すと、莉久はやっと立ち上がった。そして、僕の手を叩くようにして携帯を奪い取り、その勢いで僕の携帯は地面に落ちた。


「楽しかったって言ってんじゃん!」


莉久のその突然の強い口調に、つい反発して同じように大きな声で「じゃあ!なんなんだよ!」と僕も大人げなく言い返す。


「だから嫌なんだよ…ほんっとに。大人はすぐオジサンだから若いもんと合わないとかなんとか言って、若いだけで馬鹿にしてろくに信用しないんだよ。じゃ、最初から近寄って来んなよ」


「言ってることが支離滅裂なんだよ、君は」


 莉久は深いため息をついて、足元に落ちた僕の携帯を拾って手で払い、僕の手に押し付けるようにして返しながら


「…楽しかった。だから、帰りたくなかった。だから嘘ついて咄嗟に車停めた。…これでいい?ずっと言ってるよ?楽しかったって…言ってんじゃん」


携帯を手のひらに押し付けた彼の手は、震えていた。


「僕の言うことが信じられないなら…もう二度と話しかけたりしないで」


僕は、その言葉に何も返せなかった。


彼の言う通りだ。


自分がオジサンだからとか


彼は若いからだとか


全部、自分が勝手に思って蔑んでいただけで


彼は、そんなことひとつも言ったりはしなかった。


なのに、こう思っているはずだとか、そうであるはずだとか、勝手な思い込みで、あんなに僕に笑ってくれて、僕の勧めたものを美味しいと言って喜んでくれて、楽しいと言ってくれたことをひとつも信用しなかった。


「…とりあえず、店まで送って。タクシーは勿体ないから」


「家まで送るよ」


「いい」


ほんの5分の距離だったけれど、長い時間に感じた。


僕は、また…いやなんなら前に会った時よりずっと彼を傷つけたというのになんて言えばいいかわからない。


商店街の裏路地に入り美容室の裏手のほうへ向かうと、その周辺には何台かの車が道の脇に停められていた。近くには塾があり、その送り迎えの車だろう。


「ここでいいよ」


彼はその様子を見て、少し手前で車を降りた。


「ご馳走様でした。ありがとうございました」


そして、礼儀正しく頭を下げて助手席のドアを閉めて、振り返りもせずに歩き始めた。


一度くらい、振り返ってもいいじゃないか。


そんな、抑揚のない挨拶で帰らなくてもいいじゃないか。


せめて、少しくらいは笑顔を見せてくれてもいいじゃないか。


「待って!」


咄嗟に、僕はエンジンをかけたまま車を飛び降りた。


僕の声に、莉久は足を止めてはくれなかった。


美容院の裏口から2階へと続く外階段を昇っていき非常口のドアを開け、階下まで追って行った僕を見下ろして「おやすみなさい川野さん」と言うと姿を消し、ドアをパタンと閉めた。


中から、鍵を閉める音がハッキリと聞こえた。


彼は、ここに住んでいるのだろうか。


僕は一体、どうすれば良かったというんだ。


帰りたくないという彼に何を言えば良かったんだろう。


その理由を僕はなぜ聞いてあげられなかったんだろう。


楽しかったという彼の言葉に、素直に喜んであげられなかったんだろう。


今も、この階段を駆け上がってドアを叩けば出てきてくれるだろうか。


それとも、無様に追い返されるだけか。


階段の手すりをつかんだまま動けないでいると、すぐ側の学習塾から子供たちが一斉に外に出てきて、待っていた車に乗り込んでいく。


こんなところで、騒いでどうするんだ。


だいたい、彼の家族におかしく思われるじゃないか。


顔見知りなのに気まずい想いをするじゃないか。


僕は、また自分を守った。


人目があることを言い訳にして、僕はその場を離れた。


仕方ない。


そう呟いて。