長い報告書でしたが、実際の行動がどのようなものであったのかを明らかにした報告書だったと思います。

 

 長年マンガワンに携わっていた方や、小学館内で打ち合わせをしたことがある方なら知っていたことかもしれませんが、私のようなつい最近関わり、メールでのやり取りが中心で、昨年8月の、ヒカリエで行われたマンガワンのイベントの一度しか編集者に会ったことのないような人間には、マンガワンでの連載が決まるプロセスなど知るべくもない情報がありました。

 

 マンガワンは編集会議をせず、ある意味編集者が自由に動けるところだったんですね。

 

 それが良い方向に働いていた時はよかったのでしょうが、今回のように一部の人たちの間だけで物事が進み、自分の言動に問題があってもそれを問題視したりストップを掛けたりするチャンスを逸する原因になったと思われます。

 

 編集者がのめり込むほどに好きな作家・作品と出会い、その担当となるのはきっと幸せなことでしょう。

 

 だからと言って、贖罪の済んでいない人間に再びスポットライトを浴びせるようなことは、誰をも不幸に巻き込むことになると肝に銘じるべきでしょう。

 

 もう一つの作品についても、同じ第四コミック局内のガガガ文庫ではリスクありと見なして手を引いたのに、なぜマンガワンはそれをリスクと見なさなかったのか。

 

「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があります。今回の件で言えば、関係した小学館側の人間は「罪を憎んで作品を憎まず」という考えだったのでしょうか。

 

 商業化しなければ「いい作品」で終わったかもしれません。自身の深い反省をもとに書かれた作品であったそうですし。

 

 いいえ、「本人に知らせると傷つく」という考え方こそが傲慢なのであり、「こういう形で作家活動に復帰したいが、認めてもらえるか」と問うことが必要だったのではないかと思います。そういう時こそ、間に出版社が入って冷静に話を進めることが必要だったかと。

 

 

 

 

 

 

 俳優など顔を出している方たちが不祥事を起こした場合、罪を償い、被害者の許しを得、全てクリアになったところで同じ芸名で活動を再開しているかと思います。

 

 なぜ名前を変えたら被害者を傷つけないという思考になるのか。

 なぜ作家が活動できないと経済的に苦しくなるから編集者が助けなきゃ、という思考になるのか。

 

 後者については、だったら食べていけない全ての漫画家を、編集者は養えるように整えなければならないということになります。そんな理屈は、屁理屈以外の何物でもありません。

 

 こう考えると、結局は「贔屓じゃん」ということになってしまいます。

 

 何とかして助けたいと思える作家だったとしても、きちんとステップを踏まなければだめなのです。

 

 少なくとも、マンガワンに起きた二つの問題は、ごくわずかな「当事者」たちの間で、すぐ隣にいる仲間にも知らされることなく進んでいった事案であったということは分かりました。

 

 だとすれば、やはり情報共有の場を持つこと、人間を上下関係だけで見ないこと、「最後まで面倒を見る」という言葉の意味をはき違えないことが必要なのではないでしょうか。

 

 経営陣他が給与を一部返納するそうですが、マンガワン他の収益も併せて、被害者の皆様が今回受けた精神的苦痛に対する慰謝料(事件が明るみになったことで受けた苦痛は計り知れないものであるはずです)や、社会復帰のための準備金として使われる予定はないのでしょうか。

 

 全ての人が幸せという社会は実現が難しいものですが、それでも、大きな苦しみの中に突き落とされる人が一人でも少なくなるようにと願ってやみません。