私は、いわゆる「ざまあ」が苦手です。というのも、昨今の「ざまあ」は、「勧善懲悪」ではないと感じられることが多いからです。
悪人に鉄槌を下す。アリです。むしろしなければなりません。でも、「ざまあ」に苦手意識を持つのはなぜか、考えてみました。
〇そもそも人は本当に人を裁けるのか?
そもそも架空の世界である設定が多いので、法治国家ではなく、独裁・専制が行われているところもあるわけです。
が、それが行き過ぎているように感じることが多々あります。
いわゆる「私刑(リンチ)」でしかないと感じられるのです。
確かに、主人公の側の人間にひどいことをした。それを罰するのは「あり」。
ならば、きちんとしたルールに則った形でなければならないと思うのです。
「ざまあ重視」の作品が、昔、私が見た某国のドラマの傾向に似ているように感じるのは、私だけでしょうか。
・白か黒かの二極対立で、グレーがない。
・黒をやっつけるためなら、黒と同じような手段(白たちが言うところの「悪」)を行う自分たちは「悪」ではない。
・「自分たちは、相手を断罪する権利がある」と主張する。
どんなにいい人でも、その心は真っ白ではない。
同様に、どんな悪人でも、その心の中にほんの僅かでも黒くない部分がある。
私はそう思います。だからこそ、人間は苦しんだり悩んだりしながら、己の目指すものをつかもうと努力する姿に価値を見出すのだと。
そうすると、わざわざ人の手で裁かなくても、いわゆる「お天道さまが見ている」の形で、周りの人も自ずからその人物を「そのように」評価し、その人に対して「ふさわしい」態度を取り、あるいは「類友」だけが集まり……というふうになるのではないかと思います。
〇極端な結論を求めがちなのはなぜか?
よくある「ざまあ」の先は、鉱山や娼館送り、送地下牢や塔への幽閉、死ぬまで魔力なりなんなりの力を吸い取られ続ける、というのが多いですよね。処刑もよくある話です。
敵対勢力を一掃するのは、古代中国でも戦国時代の日本でもあったこと。
古代中国では祖先を祀らないと祟るという考えから、祭祀をさせるために一人生き残らせたということですが、戦国時代の日本では、生まれたばかりの幼子さえ殺されたケースも少なくありません。
今、なぜ極論が求められるのか。
私は、「わかりやすさを求める」傾向と、「抑圧された日々の鬱憤を晴らしたい」願望のあらわれなのではないかと思います。
最近の子どもたちは、一瞬でわからないと次の瞬間に興味を失います。やる気を失います。
「わかるように説明しない大人が悪い」と言います。
それは、大人が子どもに「すぐにできるようになる」ことを求めたから。
一度でできないと「何度説明されたら分かるのか?」と叱られる子どもたちは、必然的に長時間かけて努力することを「無駄」と考えるようになります。いわゆる「タイパが悪い」ということですね。
考えたり調べたりしながら習得すること、さらっと一、二度で習得できるもの。
当然後者を取るわけです。
その代わり、興味を持った者には大人顔負けの集中力を発揮して伸びていく。
発達に凸凹がある子どもほど、その傾向がありますね。
私はSF小説である、フランク・ハーバードの「砂の惑星」シリーズが好きでよく読みました。数年前にまた映画化されていたので、記憶にある方もいらっしゃるかもしれませんね。
宗教的な側面から読むこともできるし、科学技術的な側面から読むこともできる。政治的な面、軍事力の面、心理的な面、生物の進化、様々な側面から読むことができますが、何度読んでもよくわからない所もあります。作者が亡くなっていますので、謎が解決しないままの部分もたくさんあります。
それを想像するのが「楽しい」と思えない人が増えているように感じます。
自由な想像が抑圧されてきたからかもしれません。
学校の国語の授業は、「正確に情報を読み取る」ことにシフトされつつあります。
国際的なテストの影響ですね。
国語の授業とはそういうものだと割り切り、自由に妄想する読みは各自の読書タイムにしてしまえばよいのですが、自由な読みを知らない・したことがない世代が生まれるとなると、今後の「創造」という観点からも問題がありそうです。
また、「抑圧された日々の鬱憤を晴らしたい」という点については、スポーツや芸術、趣味などの他に発散できる場やモノがない人が増えているのではないかと思います。いえ、そういったものに手を出したくても出せない、忙しい人……学生、仕事が厳しい人、介護で疲れている人……そういう人たちが、自分の代わりに「敵」とみなす何者かを制裁してくれている、そう感じたくて、そのためには極端な断罪でないとカタルシスを得られないのかな、などと思うのです。
極論に走りがちという点では……マンガワンの「魔法薬師」のコメントの中に、クレアの家族を「内密に処分」という台詞について触れている方がいらっしゃいました。これを「殺した」と解釈しているようでした。
内密に処分という言葉から、どうしてそこに飛躍するのか。いえ、具体的に書かれていない以上、そういう想像もあってよいわけです。ただ、あのフレデリックのウインクをヒントにすれば、そこまでの処分ではないと私なら思います。最も「処分」だって、「不起訴処分」のように、刑に処することなく行われる「処分」もありますからね。「処分する」と言う言葉は刑罰の場で使われる場合、「罰する」という意味であって、死刑にするとは限りませんので。だからこそ「殺処分」という言葉もあるわけで……。
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こうやって考えてみると、ニーズに乗った作品を書けば売れるということになるのかもしれませんが、「じゃあ、あなたがその立場に立った時、その断罪を心から受け入れられるのか?」と問うてみたい。
売れるなら何でもするというのは、やっぱり違う。
それが好きならよいけれど、わずかでも嫌悪感を持つのであれば、自分の思いや考えのままに、多くの方から共感を得ながら伝えられる、そんな話を書きたい、そう思います。