今朝から「無知の知」とか

哲学的なキーワードがきております。


先ほどエブエブの
映画レビューを見てて知った言葉
「ニヒリズム」

「虚無る」ときが
たまにあるので面白いと思って調べてみました。

ニヒリズムあるいは虚無主義とは、今生きている世界、特に過去および現在における人間の存在には意義、目的、理解できるような真理、本質的な価値などがないと主張する哲学的な立場である。

ニーチェは積極的ニヒリズムを肯定し、永劫回帰の思想の下、自らを創造的に展開していく、鷲の勇気と蛇の知恵を備えた「超人」になることをすすめた。

「超人」とは・・・ニーチェはその著『ツァラトゥストラはかく語りき』において、人間関係の軋轢におびえ、生活の保証、平安、快適、安楽という幸福を求める現代の一般大衆を「畜群」と罵った。その上で、永劫回帰の無意味な人生の中で自らの確立した意思でもって行動する「超人」であるべきと説いた。

 

 

 

  ①ニヒリズムを克服できていない人の特徴

 

  • 支配や搾取を望み、自分から支配されようとする

  • 失敗や不満を人のせいにする、誰かのせいにしたい

  • 何かにすがり誰かに決めてもらおうとする

  • みんなと同じであろうとする

  • 自分で何かを決断しようとしない

  • 責任を持つことを避ける

  • 言い訳をならべ挑戦しようとしない

  • 指標や目標を見失う

 

  ②ニヒリズムに陥った人の行動のプロセス

 

  1. 自分を導いてくれる絶対的な存在を探そうとする(神仏、宗教、恋人、尊敬できる人)

  2. しかし期待を裏切られ、諦める= 虚無る(受動的ニヒリズム)

  3. 自分で決めて行動する(能動的ニヒリズム)

3番では、この世の全てが無意味・無価値だと理解した(諦めた)上でその上で強く生きていこうとするらしいです。

今まで信じていたもの・観念を外していったときに、無意味・無価値だと感じる境地は共感できるものがあって「虚無」を感じることが時々ありました。
全てはひとつ(ワンネス)のために「私」という実態は本当はない なら、なぜ生きる必要があるのか。
自我が外れた真我の領域が「虚無」と隣り合わせなんじゃないかと思っていました。
徹底的にエゴが削ぎ落とされたとき、自分は世界の中でなぜ存在しているのか?
これまで追い求めていたものが「幻想」だと改めて気づいたときに、一種の虚無感が湧き起こるんですよね。

 

誰かに何かを諭すとき、その人の魂の課題を邪魔することになるし、それは自分の「エゴ」にもなる。へたするとその誰かを「コントロール」してしまうことにもなる。
しかし、人は人と関わらずには生きていけない。

世間から、人から、離れることは楽だけれど、
人と関わることで傷つくこと学ぶことは魂の成長にもなる。

動物のように「我」がない聖人君子みたいには生きられない
「人間らしさ」と葛藤しながら生きていくのは
きっと無意味ではない。

そういう虚無感を経て、たくさんの諦めと受容を経て

それでも命が続くなら、
「じゃあどう生きていくか?」っていうところに立ち返っていく。

それが3番の段階なのかな〜と思います。
ですが②→③に「何を選択するか」も運命の分かれ道・・・

選択はその人の理性・道徳心・価値観・周波数・波動の高さ低さなどに大きく左右されるため以下に分かれていくようです。
 → 絶望・無気力ループ②のままで終わるのか
 → ③新興宗教ルート
 → ③テロリストルート(映画の悪役はここですね)
 → ③超人ルート・自分の人生をポジティブに創造していく


「弱者を正当化しようとする」
世の中の常識・観念が「分離」を助長しているのですね。

 

解釈の多様性

ニーチェは、唯一の真実なるものはなく、解釈があるのみだと考えた。ニーチェにとって、解釈とは、価値、意味を創り出す行為である。そして、解釈は多様である。世界はどのようにも解釈される可能性があり、世界は無数の意味を持つ。 ニーチェがこのように考える背景には、従来的な認識・真理に対する懐疑があった。

 

人の数だけ解釈の数がある。
人はそれぞれ自分の解釈の世界に生きる。

「ニヒリズム」もニーチェの解釈する世界の話です。
いろんな人の解釈の世界はおもしろいですね。

 

哲学者ニーチェが「道徳を最も嫌った」論理的理由 ニーチェは、ニヒリズムについて「絶対的な価値が消失すること」「絶対的な目的がなくなること」「絶対的な意味がなくなること」と toyokeizai.net