(小説) 俯瞰する感情 | さきじゅびより【文楽の太夫(声優)が文楽や歌舞伎、上方の事を解説します】by 豊竹咲寿太夫


俯瞰する
感情








「今日の配給だよ」

 おれの差し出した器に、アラ汁が注ぎ込まれた。死んだ魚のような目をしたおれが、死んだ魚の眼と見つめ合っていた。味付けは塩。幼少のころに咀嚼した祖母の作ってくれたアラ汁は、根菜が入っていて練り物も惜しみなくしかしさりげなく存在を主張していたものだ。今、目の前にあるのは、魚の頭部だけである。おれごとき退役軍人が職につけるだけでもありがたいのだが、そうはいえども、心の可動領域がひしひしと狭くなっていく心地がした。朝の早くから漁に出ても、新参者のおれに任される仕事など知れていて、ひと回りもふた回りも歳下の餓鬼共にこき使われるだけの、何の達成感もなく向上の意欲も沸かない毎日である。そんなことではいかん、と胸の中に未だ巣食う僅かな邁進の精神が進言するのだが、所詮それは贖罪のようなもので、おれの底から沸き上がる言葉ではない。こういうときに、そう思えるおれは、まだ人間として生きているのだ、と再確認するための過程でしかないのだ。そうして今日もかろうじておれは生きていた。
 心というものは魔物が蠢く住処なのではないかと思うことがある。見放され、放置されたこの地では、表情が命輝く瞬間などなかった。だれひとりとして。皆が皆、今この瞬間を生きるのに必死なのだ。おれは他の連中に立ち入ったことを聞くつもりもないし、馴れ合うつもりもないが、少なくとも兵士をやっている時の方が他人の命輝く瞬間を自分の心に刻んでいた。それが、命果てる瞬間のものだったとしても。おそらくそれらの蓄積のせいで、おれの心の領域は狭くなっているのだろうけれど。
 日本という国が実質的な解体をみたのは、おれが十五の時、つまり三十年ほど前のことだ。むろん、対外的な意味合いとしての日本国はあるが、それは所詮形だけのつまらないものだ。

「安藤、どうした、塞ぎ込んで」

 こんなおれにも構ってくる人間がいるから不可思議である。同じ職場の後藤だった。年齢も近く、同じ「藤」の字をもつことが後藤の興味をひいたようだ。おれなんかに興味を持っても、得るものはなにもないというのに。

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「冷めるぞ」

そう言ってきた。おれは無言で頷くと、アラ「だけ」汁を流し込み始める。それは単なる行為でしかなかった。食物を胃の中へ詰め込み、生命活動を続けるというだけの、ただの行為。後藤はそうではないのだろうか。

「美味しいか?」

すでに食し終えている後藤がそう尋ねてきた。とくにとりたてて何も感じなかったおれは、しかし、礼儀作法として「美味しい」と答えてみた。すると後藤は少し嬉しそうな顔をして「そうかそうか」と言った。まったくもって不可思議な男である。おれはこいつが所帯をもっているのかどうかも知らないし、それどころか、下の名前も知らない。後藤もおれのことなど何ひとつ知らない。もしかすると、おれが退役だということくらいは風の噂で聞いているかもしれないが。

「じゃあ」

何か会話が発展するわけでもなく、また、何か知りたいことがあるわけでもないので、おれはぶっきらぼうにそう言うと席を立ち職場を後にした。

 独りは楽だ。心からそう思う。もうほとんどない心ではあるが、実にそう思う。漁港を出ると、おれは早速に独りで暮らす四畳半のアパートに向かった。

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これもいつものことである。いつもと同じ、ただ惰性の行動。行為。仕事をすることも惰性。食事をすることも惰性。生きることさえ、惰性。それがおれだ。破れたアスファルト、隆起してなお整備されることのない道を歩きながら、街を行く。すれ違う人間と目を合わせないように気をつけながら。背中を少し丸めるといくぶんか楽だ。足元ばかり見ていると、それはそれで人とぶつかるので、視点を合わせないように視界をぼんやりとさせて歩く。朝の露店をやり過ごし、広場に出た。
 とたん、異様な鋭い眼光に射抜かれたのが分かった。脊椎が反射したかのように、小刻みに身が震え、視線を眼光の主にやらざるを得なかった。鷹に睨まれた雀の気持ちがよく分かった。そういえば、戦場でもたまに経験した感覚だ。おれの前をふたりの男が横切っていくところだった。背はおれと同じくらいか。見れば分かる、筋肉の細部に至るまで神経が行き届いている。引き締まった体躯に、切れ長の眼。黒のライダース、黒のパンツ。そして、背中には、ライフルケースを背負い、手にはガンケースを携えていた。米国よろしく自衛のための銃器が許された昨今ではあるが、これは目立つ代物だった。そしてその後ろの男もまた、引き締まった体躯の持ち主であった。ライフルケースの男よりかは身長は低く、胸板もやや劣るか。しかし、分かる。その重心のぶれない動き。丹田で動いているのが一目瞭然だ。その男は左肩に弾薬箱を担いでいた。そして、右手には、白杖。男は、目が見えないのである。

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 時間にしてみれば、ほんの数秒。ふたりの男がおれの前を横切るたった数秒。
 おれの筋肉は現役兵士の訓練後のように疲労感を得、汗腺は情けなくも不要な汗を惜しみなく流していた。
 そうしてから、おれは、感じた視線がふたり分だったことを思い出した。






 酒が欲しい。
 今にも崩壊しそうなアパートの一室でおれは唸った。勘違いはしないでほしいのだが、おれは決して酒に溺れているわけではない。なにせ酒を買うだなんて、豪富有のなせる業である。酒に溺れるなどという贅沢を一度は味わってみたいものだ。それこそ、昔おれを雇用していた政府の連中くらいにならなければ、夢のまた夢である。日本は実質的に解体するも、未だ政府という組織は残っていて、何をしているのだか国を纏め上げようとしているのかそれとも破滅への拍車をかけているのか、とにもかくにもおれの元上司たちはきっとこんな底辺の暮らしなど想像もすることなく、ボード上の戦争と内乱をやりくりしているのだろう。それが彼らのビジネスなのだから仕方がない。おれは別にそこをどうだこうだとありがたく語るつもりはないし、そもそも興味がない。おれは生きているだけで精一杯である。
 しかし。
 軍にいるころに飲んだ、酒は格別だった。
 命と精神を磨耗したあとに飲む酒は、現実を忘れさせてくれた。自分が、誰かの命を奪ったという罪を、ビジネスだと変換してくれた。
 そうなのだ。
 要は現実を退けたいのだ。軍を退き、のうのうとこうして平和に暮らすおれは、情けないことに、自分の命は失いたくない。自ら死を選んで現実から退く勇気も根性も持ち合わせてはおらず、それなのに現実から退きたいと願う。矛盾とエゴの塊であるのだ。
 そうして、なぜこんなことをうだうだと逡巡しているのかというと、やはり朝方のあの鋭い視線のせいなのである。あの視線に全てを見透かされたような気がしたのだ。
 鷹のようだった。
 まるでおれの中に弱者を見出し、獲物としてマークした時の猛獣のようだった。
 あれから彼らがどうしたのかおれは知らない。無論追ってなどいないし、それどころか、真っ直ぐこの寝ぐらへ戻ってきてからこのかた、おれは一歩も外に出ていないのである。
 他人と関わらない。
 もう、他人の命が果てるところに出会うのは、御免である。
 おれは今日も、ひとりの夜をただ生きていた。





 翌朝、水揚げを終え、おれが配給のアラ汁を抱えて座るところを探していると、後藤が近づいてきた。知らぬふりをして席を探していたが、なんとも厚顔なその男は、空気を読まずにおれの隣に立って「安藤、ここからちょっと離れようぜ」と声をかけてきた。
 後藤と連れ立ち、おれは汗の匂いと熱気と魚の生臭さが混沌とする市場を抜け、露店街との中間に位置する広場に出た。広場といっても、なんのことはない、本当にただ誰も専有していない何もない場所というだけである。数年前の空襲でこのあたりはコンクリートが抉られ、未だ整備されていない場所が多いのだ。整備するといっても、このあたりは政府の庇護下に置かれていない上に、政府に対立する自治組織の眼中にもないため、住民たちが地道に復興に取り組んでいるのだ。まさしく塵も積もれば山となるというように、山となった塵芥をこつこつと取り除いているのである。

「安藤、聞いたか」

後藤は隆起したコンクリートに腰掛け、おれは地べたに胡座をかいた。

「余所者がこの街に入り込んだらしい」

おれが答えようが答えまいが関係のないこの男は話を続けた。きっとおれが行くあてもなくこの街へ彷徨いたどり着いた時も、こうして噂になっていたんだろうな、と思った。

「よくあることじゃないか。どうせどこかの戦場から心神喪失して逃げてきたか、生きているのが嫌になって死に場所を探しにきたか、そんなところだろう」

おれはぼそぼそとそう言った。

「いや、そうじゃないんだ。そいつらは」
「そいつら?  ひとりじゃないのか」

珍しくおれはよく喋っていると自分で思った。もしやと思っているのも分かった。

「ふたりなんだそうだ」

どうやら、後藤は伝聞の情報をおれに伝えようとしてくれているらしい。知ってはいたが、そうか、こいつにはおれの他にも興味のある人間、「友達」がいるのだと思うと、少しばかり的外れな寂しさを感じた。

「ふたりとも、おそらく、現役だ」

後藤は話を続けた。
 奴らだ。
 おれは昨日のふたりを思い返す。奴ら以外にありえない。この街で、あの目をした人間は存在しない。現役の目だ。未だ死線をかいくぐっている、現役の目だ。

「この街も、もう駄目なのか」

おれは呟いて、地面を見つめた。この地に来て数年。おれは生きる目的こそないものの、幾分か平和に暮らしてきた。退役といってもほとんど逃げるように軍から去ったおれには、もう居場所もない。ここの住人たちはいい意味で他人に無関心だったから助かった。天国では決してなかったが、地獄でもなかった。あのふたりがどちら側の人間か知らないが、「現役」の人間がやってきたからには、この土地ももう駄目だということだろう。なにせ空襲という伏線は張られていたのだ。もともと目はつけられていた、それだけの話である。
 この街がなくなれば、もう行くところもないな、とおれはそう思った。
 おれはアラ汁を飲み干すと、立ち上がり、後藤を見た。こんな風にまっすぐこいつを見たのは初めてかもしれない。後藤も怪訝な顔をしておれを見返した。

「後藤、世話になったな」







 夕焼けが明々と四畳半を照らしていた。おれは唯一の家具である、ローテーブルを部屋の隅に立てかけると、久方ぶりに床材を剥がした。それはおれがこの部屋にやってきた日にいちど剥がされたきりで、それから今日に至るまでおとなしくテーブルの下で穴を覆っていた床材だった。別に誰かをこの部屋に招くわけでもなかったので、隠しておく必要もなかったのだが、これはおれの精神的な問題である。これらを目にしたくはなかったが、棄てる勇気もなかった、ただそれだけである。
 おれの、銃と弾薬。

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 この街は平和であってほしいなんて、そんな立派なことは思っちゃいないが、この街で戦闘が繰り広げられる様は考えたくなかった。そのうえで止められることのない波がきつつあるのであれば、もはや行き先のないおれが、少しでもその波の到達を遅れさせることはできるのではないか、そう考えた。それでやつらを無事に狩り取れたら御の字。相討ちに持ち込めればいい。おれは自分で死ぬ勇気はないが、殺されるなら、それでいい。それだけのことをおれはしてきた。贖罪だ。
 この世の終わりのように紅い夕焼けが照らす部屋でおれは銃を分解して、磨いていく。最後の手入れだ。今日できっと、最後だ。




 やがて、陽は落ちた。




 電気の通らないこの街は、陽が落ちるとひっそりと静まり返る。鼓動をやめた心臓のようである。人の目も皆無といっていい。おれは銃を携えると、四畳半を抜け出した。やつらがどこにいるかという情報も持たず、ただ当てずっぽうに目的地も定めず歩くことにした。混乱と人の目を避けて、陽が沈んでからという決断にいたったのだが、よく考えると、標的もどこかに身を潜め眠っている可能性も高い。相手もこの街の探索は人目を避けて夜にするだろうと考えたのは、おれの勝手である。こうだから、おれは軍にいるころも冴えなかったんだとつくづく思う。そうでなければ、今頃きっと司令官にでもなって、旨い酒をたらふく含み、愛する女性と愛する子供に囲まれているだろう。そう思ってから、いや、無理だとおれは思い直した。あれだけ人の命を奪っておいて、人は愛せない。

「かは」

嗚咽をもらすように、笑い声がついて出た。とことんおれは自分勝手な男である。

「陽が落ちて、暗闇のなかでひとりで笑っていると、おかしい男でだと思われるぞ」

 ふいにおれの背後で声がした。おれは背筋を強張らせる。早くも邂逅か。おれは銃のセーフティーロックを静かに外す。

「物騒だな、安藤」

後ろの男はそう言った。脂汗が流れるのを感じながら、おれは振り返った。
 後藤がそこにいた。
どうやらおれは緊迫していたらしい。きっと心拍数が上がって、張り詰めていたのだ。毎日聞いている声すら聞き分けられなくなるなんて。

「後藤、なにをしている」

こんな夜遅くに、とおれは付け加えた。お互いさまだろう、と後藤は笑った。

「どうせ、今朝話したふたりをどうにかしようと思ったんだろう」

おれは驚いて後藤を見つめた。

「どうして」
「わかるさ。おれも退役だ。安藤は覚えてないかもしれないけれど、おれの班はたまにおまえの班と合同で作戦をこなしたことがあるんだぞ。この街に来て、ひと目おまえを見ておれはすぐに思い出した。だけれど、どうやら覚えているのはおれだけだったらしい。仕方もない。作戦中はお互いに会話などしなかったしな」

 おれのスタンスは、死ぬかもしれない人間のことは覚えない、だった。昔は、それこそ二十代のころは死にゆく仲間たちのことを鮮明に心に刻みつけ、情熱的に、まるで漫画の主人公にでもなった気分で「闘って」いた。だが、心の強度が足りなかった。次第におれは、班の人間ですら関心を持たなくなっていった。コードナンバーで人を区別し、冷徹に「ビジネス」を心がけた。自分で考えることは放棄した。かといって、野心もなく、与えられる仕事をこなすだけの、駒だった。

「今朝、初めておれの名前を呼んだだろう。その時の目は、死にゆく目だった。おれは今朝からずっとここにいた。安藤がふたたび出てくるのを待っていた」

 後藤はおれの手からそっと銃を取った。おれは抵抗しなかった。

「そうしたら、おれは面白い出逢いをした。安藤、ついてきてくれ」

 後藤はおれの銃を持ったまま、先に立って歩き始めた。おれは後藤の背を見、しばらくぼんやりと立っていたが、やがてその後ろ姿を追いかけ始めた。

 



 歩いていると、秋の夜風が肌を撫でていく感覚に気づいた。おれは思わず鼻で笑った。これから一戦交えようといきり立って出てきたのにもかかわらず、この薄着。おれはどうしてしまったんだ。平和に毒されたのだろうか。どうぞご自由に、焼くなり煮るなり好きなように殺してくださいといっているような格好だ。これがおれである。所詮この程度の男なのだ。なにも、ない。空っぽの、風船のようにふわふわと当て所なく彷徨っているだけの、そんな男なのだ。なにが狩りとる、だ。なにが相討ち、だ。そんな立派なものじゃない。おれは、ただ楽に死のうとしていただけではないのか。
 歩いていくと、ぽつりと行灯が地面に置かれていた。

「これはなんだ」

蝋燭の火がゆらゆらと揺れている。普段お目にかかれない代物だ。後藤はとくに気にすることなく歩いていく。
 行灯はぽつりぽつりと行く先に姿を現し、まるで道案内をしているようだった。それに伴って、こんな時間に外を出歩かない街の人間がちらほらと目につきはじめた。

「みんなこんな時間になにをしているんだ」

後藤は答えない。おれはそんな彼の背中を追った。やがて露店街にたどり着くと、どっと人が多くなった。朝しか開いていない露店が、朝の活気そのままに開いていた。朝は生で売っている魚が、店先で炭火で焼かれ、別の店ではトウモロコシが火の上で何本も回っていた。明日、食べるものが無くなるのではないかというほど、皆が皆今朝採れた作物を店先に出していた。

「あら、あんた!」

 声の方を見ると、漁港の配給の婆さんがいた。露店を間借りして、婆さんはアラ汁を振舞っていた。

「来ないと思っていたのに、意外ねえ」

そう言って婆さんは手招きすると、おれと後藤にアラ汁を手渡してきた。

「なにが起こっているんだ」

おれが尋ねると「あたしもこれから知るのさ」とよく分からない言葉を返してきた。
 やがて露店街を抜け、あの広場へとやってきた。広場には行灯がぐるりと置かれ、街の人々はそこに集っていた。広場の中心部のコンクリートの高台を囲うようにして。
 そうして、その高台の上に、奴らがいた。

「座ろうぜ」

後藤は困惑しているおれを手招きして、地面に胡座をかいた。

「何が始まるんだ」
「おれも知らない。だが、物語だ」

後藤はそう答えた。

 高台の上にいるふたりの内、ライフルケースの男はライダースジャケットを脱ぎ、ガンケースに掛けると、ライフルケースを手に取った。おれは身体を硬直させた。この人数を前に何を始めるつもりだ。そして、街の人々はどうしてこうも平然としているのだ。

「大丈夫」

後藤がおれの肩に手を置いた。
 白杖の男は、杖を置き、弾薬箱を漁り始めた。彼は箱の中から、板を三枚、それと小さな横棒を取り出して、それらを組み合わせ始めた。できたのは、二十センチほどの高さの小さな椅子だった。男はそれを尻に敷き、正座した。ライフルケースの男も正座をすると、ケースを自身の前に置き、蓋を開けた。蓋がおれたちに背を向けて開き、その中に何が入っているのかがよく見えない。男は中の物を何やらいじっている。
 そして、音が響いた。
 太い、重厚な、弦の音。
 ライフルケースから出てきたのは、太棹の三味線だった。あまりに驚いたおれは危うくアラ汁を自分の膝にひっくり返すところだった。同時に全身から力という力が地面に流れ出ていく感覚を覚えた。
男は三味線を構えると、調弦を始めた。糸巻を締めたり緩めたりしながら、音を整えていく。人々は呼吸を忘れて、彼らを見ていた。
やがて、調弦を終えたのだろう、男は背筋を伸ばしおれたちを見下ろした。あの目で。空気がきんと張り詰めるのが分かった。武器を使わずに、命のやりとりを行わずに、緊迫の糸を彼は紡いだ。おれは息をのんだ。男の筋肉が繊細にぴりと動いた瞬間、撥が下りた。腹に響く音が、するどい刃のように広場を刺した。
 演奏が始まったのだ。
 しかしそれは到底伴奏だとは思えなかった。その撥が、音が、何かを表現し始めているように思えた。
 呼応して、白杖の男が深く息を吸った。しかしそれは無鉄砲な息ではなく、静かな息だった。
 瞬間、男がキッと眼を見開いた。白く濁ったその眼が、張り詰めていた空気をさらに絞り上げた。
 そうだ、この感覚だ。
 たしかにあの時おれが感じた、二人分の視線はこれだった。
 男は空気を手中に入れたまま、声を発し始めた。
 あろうことか、三味線の音を凌駕する太い息で包み込む、途方も無い大きな声だった。しかしそれは大声や怒鳴り声のような不快な声では決してない。広場にいるどの人間の耳にも均等に届く旋律だった。

 それは物語だった。

 たったひとりとひとりで、全てが物語られていった。節に乗せて情景を説明していたかと思えば、子供達が現れて手習い小屋で元気に騒ぎ始めた。するとそこへ女性が出てきて、子供達を嗜める。戸浪というこの女性はどうやら手習い小屋の先生の奥さんのようだ。もうすぐ新入生がくるから今日はお勉強はお昼までよ、と言うと、子供達は無邪気に喜んで素直に勉強を始める。やがて新入生がやってきた。新入生の小太郎を無事に迎え入れると、手習い小屋の先生が帰宅した。
「いずれを見ても山家育ち」
ぼそりと酷いことをつぶやく夫、源蔵である。妻は新入生を夫に引き合わせた。その子を見た源蔵は急にご機嫌になる。様子がおかしい夫を見、妻は子供達を奥へやると「どうやら様子がありそうな。気遣いな、聞かせて」と尋ねた。実はこの手習い小屋、要人の子をかくまっていたのだ。敵対する勢力の要人にそのことが明らかになってしまったと夫は話した。
「あの寺入りの子を見れば、まんざら烏を鷺とも言われぬ器量」
夫は若君の身代わりに、新入生の首を落とすと言いだした。若君には変えられない、地獄に堕ちる覚悟だと夫は言い、妻も覚悟を決めたのだった。
やがて敵がやってくる。二人連れの敵方は、源蔵の予想通り、若君の首を討ちにやってきたのだ。片方の男は若君の顔を知らない。もう片方の男が若君の顔を見知っていて、その男が首実検をするようだ。彼の名は、松王丸。
彼らは若君の首を討てと迫った。
「生き顔と死に顔は相好が変わるなどと身代わりの偽首、それもたべぬ。古手なことして後悔すな」
松王丸が釘をさした。
 おれの手はいつの間にかぐっしょりと汗で濡れていた。これはなんだ。目の見えないはずのこの男が、おれの目の前に物語を描いていく。全ての登場人物と情景をひとりで語っていく。そして、三味線がその情景に奥行きを加え、彩りをさらに鮮明にしていく。
 これはなんだ。
 物語か。
 人生か。
 やがて、苦渋の覚悟で身代わりの首をさしだした夫婦は、緊迫の首実検を迎える。松王丸が首をためつすがめつ眺め、若君のものであるか確かめるのだ。
「『ここぞ絶体絶命』と思う内、はや首桶引寄せ、蓋引きあけた首は小太郎」
観客であるおれたちはもはや物語に飲み込まれている。目の前にはなにもない。なにもないのに、松王丸が支配するその場の張り詰めた空気が、広場を席巻した。
「眼力光らす松王が、ためつ、すがめつ、窺ひ見て」
間。
張り詰めた静寂。
「『ム、コリヤ、菅秀才の首討ったは紛いなし、相違なし』と、言うにびっくり源蔵夫婦、あたりきょろきょろ見合はせり」
天が味方したか、彼らは小太郎の首を若君の首だと断言し、持ち帰った。夫婦がほっとしたのも束の間、そこへ、小太郎の母が子供を迎えにやってきた。一難去ってまた一難。源蔵は刀を後ろ手に、小太郎の母を通した。斬りかかる源蔵。母は寸でのところでそれを避けた。またも源蔵は斬りかかる。母は小太郎の道具箱で魔の刃を受け止めた。ぱっくりと割れた道具箱から出てきたのは「南無阿弥陀仏」と書かれた幡だった。
「小太郎が母涙ながら『若君、菅秀才のお身代り、お役に立てて下さったか、まだか様子が聞きたい』」
母は知っていたのだ。そこへ、驚くべき人物が帰ってくる。
「『女房喜べ。倅はお役に立ったぞ』」
小太郎の父。そしてその男は、なんと、松王丸であった。
 かつんと頭が割れた心地がした。この松王丸という男は、自らの主君に敵対する人物の息子を助けるために、我が息子を差し出したのだという。毅然と彼はその経緯を源蔵に話して聞かせた。彼の家は、元は源蔵側の勢力に仕える家だった。松王丸の兄弟は皆そちらに仕えたというのに、自分は仕方のない事情から敵方へ着くことになってしまったという。
 まるで、今の世界じゃないか。
 善悪の価値がわからなくなって退いたおれの住む、今の世界じゃないか。おれはそんな人間を見てきた。お上への忠義に尽くす人間をたくさん見てきた。心から心酔している人間もいれば、その関係に裏では苦しんでいる人間もたくさんいた。愛情の種類もたくさん見た。命の価値も様々だった。何が大切で、何を切り捨てるのかの判断をたくさん見てきた。命を奪った。命を奪われた。権力に押しつぶされた。権力に使われた。権力は絶対だった。
 だから、おれは、力を手放した。
 松王丸は我が子の死に際を源蔵に尋ねた。
 源蔵は言った。
「『若君菅秀才の御身代りと言い聞かしたれば、潔う首さしのべ』
『あの、逃げ隠れも、致さずに…ナ?』
『にっこりと、笑うて』
『につこりと笑いましたか! 笑いましたか… 笑い、まし、たか』」
 それまで毅然としていた松王丸が、そこで初めて涙を流した。
 松王丸夫婦は、我が子の遺体を引き取ると、あくまでも若君の遺体として、葬送するのだった。

 演奏が、いや、一つの世界が幕を閉じた。
 その場にいた誰もが、世界を共有し、閉じた世界の沈黙を味わっていた。たったひとりの語り手と、たったひとつの楽器から産まれた、身を震わすほどの感情のるつぼに飲み込まれていた。武士というのは、今の日本の前、日本が日本として機能していた時代のさらに以前、世界との関わりを遮断し幕府が国を取り締まっていた時代の人間である。その物語が、こうもおれたちの心を揺さぶるとは。人間というのは、いつの時代も人間たり得るのだと、強く思えることができるとは。
 人は、感情を持つことを許されるのだ。
 おれも感情を持つことを許されるだろうか。 

「安藤」 

 後藤が、高台の二人を見据えたまま、おれに声をかけた。

「おれは思うんだ。力以外の方法で人を揺さぶることはできないか、って。人間が人間である以上、どの人種の人間も感情を、情を持っていると思うんだ。その情の方向性や種類は違えども、誰でも持ちうるものだと思うんだ。それを、三本の弦とひとつの喉だけで、こいつらは教えてくれた」

きっと後藤は、おれに話しかけたのではなかった。それは確かに彼が彼自身に問うた言葉だった。それでもおれは答える。

「おれもそう思うよ」



 去り際、おれは奴らに接触を試みた。ほとんど口をきかなかったが、二人がこうして語り芸をしながら旅をしているということは分かった。


 ライフルケースの三味線の男の名は、青葉。
 白杖の男の名は、茜。





 そして、彼らの語り芸の名称は、ジョウルリというのだそうだ。