大殿のお墓参りに行く。

ちょうど殿一族のお墓はわかりやすく1列に並んでいるので、

右から左へと時系列にご先祖様が並ぶ。

大奥様は若くして亡くなっているので、

すでに大殿の入るお墓はあるのだけど、

そこに新しく掘られた文字がある。

 

亡くなった日とか、名前とか、出生地とかあって、

養子に来たとか、そういうのがあるのは

我が家のお墓でもなじみがあるので、びっくりしないけど、

まさか大殿の名前の上に職業名があるとは思わなかった。

そこに殿の強烈な自我を見た気がした。

職業がアイデンティティの1つであることは当たり前なんだけど、

それ、お墓にもいる?とか思っちゃう。

けど、そこに殿の譲れない思いがあるんだろうな、と思う。

そこから”ぼぅ”に対する期待の滲み具合を察するわ。

 

大殿も体が動く限り、仕事をしていた。

殿もそれに近い状態になるだろう。

多分、仕事をしている自分こそが自分である、に

近い何かを持っているはず。だからこその墓碑よねぇ。

 

そこに刻まれた文字をなぞった瞬間、

涙が出てしまった。

思い出すことこそあれ、お墓に来れなかったこと、

大殿とそんなに時間を共有したわけではないけど、

でも大殿からもらった優しさ。

何より、孫たちを抱いてくれたこと、

手紙でのやりとりをしてくれたこと。

婚外子なのにねぇ。

大殿に対する気持ちがあふれてしまった。

不思議ね。

 

大殿のお墓の隣はお墓1つ分、土地が空いている。

そこに殿と本妻さんが座す予定。

私には関係ない。”ぼぅ”は・・・どうするのだろう。

”ぼぅ”分はない・・・のでいいのかな、

もともとお墓的にもそういう予定だったし。

 

今度は行きたい大学に受かったよ、報告をしに、

ここへ参りに決ます、とつぶやいた。

1度はちゃんとみんなでお墓参りに行かないと、

なんだか落ち着かないわ。

そういうところは古いオンナなのかしらねぇ?