店じまい
「明日、妻の実家がある田舎に越すことになりましてね。近所をふらふら散歩してきました。遅がけに来て長居をしました」
その時初めて気が付いたように勇作を見つけ、微笑みかけながら「坊ちゃん、いくつ?」と聞いた。
「この春から国民学校1年生ですわ。早いもんです、子どもの成長は」
徳次郎が代わりに答えながら熱い茶を注ぐと、元法務官の男は湯呑に目を落として両手を添えた。
そして、「そうですか」と小さくつぶやいた後、茶をすすった。会話が途切れると、客の居なくなった店内に茶碗や皿を片付ける音が響く。
「私は退官して随分経ちましたが、嫌な噂や情報は耳に入ってきます。あなた方も名古屋を離れた方がいい。家族は一緒に居るのが一番だが、預け先があるなら坊ちゃんだけでも早いところ田舎の方に移った方がいいかもしれません」
それだけ言い終わると、コートを手繰り寄せて席を立った。
幸子は、おかしなことを言う人だと思いながら外まで見送りに出たが、暖簾を外して店に入ると、徳次郎はいつになく思いつめた表情で立っていた。
大本営発表は勇ましい知らせばかりだ。日本が、それも名古屋が爆撃されることなど考えられない。
ところが、それ以来、徳次郎は店を閉める決意を固めていった。そしてついに、
「店を売った金で、しばらくゆっくりするか」と言い出した時、幸子は
(若い弟子たちが次々に召集されてしまっては仕方がない)と、腹をくくった。
住み慣れた土地を離れるのは不安が大きい。だが心臓に持病がある夫が、このまま店を続けることは無理だった。
4月、勇作の国民学校入学に合わせて、夫の郷里へ転居を決めた。
それから半月後の4月18日。名古屋に初めて米軍戦闘機による奇襲攻撃があり、街に焼夷弾が落とされた。
(つづく)