お墓参りの時間まで少し間があるので、時間潰しに近くの上杉神社へ行ってきました。高校時代は毎日のように近くまで行きましたが、やはり興味が無いのでほとんど見学した記憶がありません(^_^;) 境内を散歩します。へ~こんなのがあったんだ~
上杉謙信公家訓十六ヶ条
上杉の城下町米沢ですから、上杉家にゆかりのある方々の石碑や銅像がたくさんあります。他にも、上杉鷹山公の石碑・銅像。天地人関係の上杉景勝公・直江兼続公の銅像、伊達政宗公生誕の地の銅像(最近リニューアルされた様子)。特に天地人関連の前と、鷹山公の「なせばなる~」の石碑の前は人気のようで、人だかりができておりました。
本道へ通じる道 みなさーん墓参りは終わったのかな~(;^_^

上杉家のお宝グッズを集めた稽照殿の隣に、ひっそりと立つ石碑。写真を撮りながらしばらく眺めていましたが、観光客はこの石碑を全く見てくれません・・・。この石碑は赤穂事件殉難追悼碑です。大晦日近くになると必ずテレビでドラマが放送される、「忠臣蔵」。主君浅野家の仇討ちのため、大石内蔵助率いる赤穂四十七士が、吉良上野介を討つことで仇討ちを成功させます。当時の江戸の人たちは拍手喝采。ドラマや本では吉良公は極悪人に描かれます。一方、浅野・赤穂浪士は正に正義の為に戦った、といった具合。
ここで簡単に歴史のオサライ。内容はほとんど教科書には出てきませんが(^。^;)
米沢藩上杉家の初代殿様は言わずとしれた上杉謙信公。
二代目は天地人で北村一輝が演じた上杉景勝公。ちなみに奥様は武田信玄の娘・菊姫・甲州夫人。
そして三代目の上杉定勝公。奥様は肥前の鍋島勝茂の娘。
四代目は問題の上杉綱勝公。正室は会津の保科正之公の長女・媛姫。妹は吉良上野介に嫁いだ富子。ここで事態は急変、後継者がいないまま綱勝公は急死。(吉良上野介による毒殺説、胃潰瘍説など諸説あり真相は不明)
当時の徳川幕府では世継ぎ無しの場合、藩は取り潰し。この最大のピンチを救ったのが保科正之公。さすが徳川幕府のご意見番、米沢藩のために奔走。自分の長女が嫁いだ米沢藩、責任を感じていたのかもしれません。(この恩を終生忘れなかった米沢藩、幕末に会津を助けるためもあって、戊辰戦争に突入していきます。)
その後、先程の吉良上野介と富子の間に生まれたばかりの子供を米沢藩主として据えることで決着、そのお方が五代目上杉綱憲公。奥様は暴れん坊将軍徳川吉宗の実の姉・栄姫。そんな中、今度は吉良家に後継者問題か浮上。次男の春千代を養子に出し、吉良義周として吉良家に。吉良上野介は隠居。
(
赤穂浪士討ち入り事件が勃発
)赤穂浪士は義士として扱われていますが、米沢ではただの乱暴狼藉者扱い。迷惑千万。事件後赤穂浪士に対し、江戸の米沢藩兵が駆けつければ騒ぎが大きくなるという理由で、幕府命令により足止めされています。無念。討ち入り事件の時に元米沢藩士が三人、吉良邸で奮戦しています。新貝弥七郎、山吉新八、村山甚五右衛門。村山の記録は不明ですが、新貝、山吉は奮戦したとの記録が残されています。
余談ですが、山吉新八の子孫で元米沢藩士の山吉盛典は廃藩置県後に明治政府に出仕、第四代福島県令(知事)になっています。
さて墓参り。ご先祖様の墓参りが終わり、例の場所に向かいます。
境内にある吉良上野介の夫人富子の墓です。さぞや無念だったでしょう。法泉寺に行く機会があれば、是非お参りしてください。上の画像にあるように、上杉家の重要人物の墓が多くあります。
米沢には敵方赤穂関係者の供養碑もあります。赤穂藩家老、大野九郎兵衛の供養碑。米沢市板谷地区にあります。国道13号栗子峠から入って行った場所にあるのですが、結構山奥にあります。しかも「熊出没!注意!」の看板が
ここから200メートルくらい歩きます。まさに獣道!熊~っ出てこいやぁ~!と自己啓発しながら足早に進みます。一人で来たことを後悔しながら歩くこと5分・・。
ありました!
どうやらこの話は伝説に近い話だそうで、真相は解っていないそうです。供養碑の脇に「赤穂ロータリークラブ」の文字が。しぶとい・・・。まだ恨んでいるのですか

最近まで米沢では忠臣蔵の放送や歌舞伎関係が上演されなかったそうです。高校の歴史の先生が、修学旅行で岡山県に行くと、「米沢から来ました」と言うと良い顔をされなかった、なんて話していました。
真相はどうだったのでしょうか?
そんなこんなでお盆休みはあと3日間となりました。皆様、有意義に過ごしましょう

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