HATSUKOI 1981
    
  第6話 沈潜     

 目撃した次の日、洋平は一本早いバスに乗った。もう、彼女と会うことはできない。会ってあの笑顔を見たら、彼女への思いがより深くなるだろう。その思いの深さに比例して心の傷も深くなる。彼氏がいたって友達としていられるだろうが、洋平にとって、このことに関しては《オール・オア・ナッシング》なのだ。50%とか、60%とかは考えられない。恋人になれるのか、他人のままなのか。どちらかなのだ。彼氏がいるのであれば、もう《0》なのだ。友達でなんかいられない。そんな大げさな、でも彼にとってはリアルな思いが広がる。

 その次の日は、もっと早いバスに乗った。近所の高校に通う友達なんかこの時間まだ起きちゃいない。牛乳屋のおっちゃんにも会わない。掃除するおばちゃんだって見かけない。いさばかっちゃは、見かけるけど、いつもの『ゆでだこおやじ』なんか現れない。そんな時間を通学時間として設定したのだ。朝の楽しみだったヒューマンウォッチングなんか、どうでもよかった。単語帳や、教科書をひろげ、勉強するふりをするが、何も頭に入りっこない。どうしても、あのシーンが蘇ってくる。彼女の肩にまわした男の手… 自分には関係ない、なんでもない、どうでもいいことだと必死に言い聞かせる。実際、彼女と付き合ってたわけじゃない。彼女が自分の恋人だったら… そう妄想していただけだ。まだ何も起きていないし、何かを失ったわけでもない。

いや、もう『何か』が起きたし、《何か》を失った。洋平の心の中で起きたことだが、それはもう現実以上のものとしてそこにあった。そしてそれは洋平の心の真ん中にどっかりとすえられてしまった。それがあの日から、《何か》を引き起こした当の彼女は、触れてはいけないもの、近寄ってもいけないものになってしまった。自分の心の中心にあるのに近づくことも、触れることも許されない。自分で勝手にそう禁じているのだが、他人に強いられるよりはるかに強い《法》なのだ。起きた事を、起きなかったと考える。あるのに、ないものとして生活する。その自虐的喪失感に押しつぶされ、飲み込まれそうだった。忘れようとしても浮かんでくる彼女の笑顔や、あの心地よい声、あいさつの時手をあげるしぐさ… それらと一緒に、あの男の顔と彼女の肩にまわした手がぐしゃぐしゃに入り混じり、渦を巻きながら迫ってくる。それから逃げるため洋平は、ただひたすら、その失った《何か》の残像を、頭から消し去り、これまで作り上げようとしていた彼女へとつながる道を、すべて塞ぐ作業へと自分を追いやっていた。

            

              

                 続く・・・