お月見 | 早期晩年に想う

お月見

 約二週間前の9月5日は立派な満月であった。昨晩は、わが地では快晴であったが、久しぶりにきれいに天の川を見ることができた、新月であった。

 そこで、ふと、お月見をしたのは、もういつの頃だったかと思った。記憶にない。


 静かに月を眺めたのは、いつだったか、旧暦の八月十五日、今年はお月見をすることを忘れずにいられるだろうか?

 10月3日が私にとって特別な日ではない、ただその日に満月が見たいお月見がしたいだけである。


 今思えば、太陽と月、惑星、恒星、衛星、たくさん星を見てきた、その中で一番長く見続けたことがあるのは、絶対、月である。
  はじめて天体望遠鏡で月のクレータを見て以来、ふと思い出すたび月を見ている。そのために我が家は玄関に天体望遠鏡を格納している。昔ビデオで月面を撮影もした。その時の映像をたまに見るが、なぜか、月を身近に感じている時である。


 昼間の月は、私にとって大変遠くに感じる。夜の月は、大きく近くに感じる。これも心のバロメーターであろうか。


 実は、私は、月好きだったのだ。今、気がついた。月をきれいだと思うことが出来る時は、私の心は落着いている。今現在空は晴れてても月はない、ただ秋の虫たちが鳴いている。たくさんの虫の音が聞こえるのに無償に静を感じる。


 以前外国のドキュメントで、遺跡と月と蜃気楼の関係を検証する番組を見た。ストーンヘッジもナスカの地上絵もピラミッドも、マチュピチュの空中都市も、月と蜃気楼の関係で存在を証明できる、としていた。


 それでは、私と月との関係、私の存在の証明は、何なんだろう。さきに証明できたのは、すべて古代人との関係である。現代の文明の衰退や発展を月との関係で、証明をすることもなかろう、故に人と人の距離も朔(新月)から望(満月)のごとく、はなれたり近づいたりするではないか。


 私の心と月との関係を的確に自分で証明できれば、私もいろんなモノと間を近づけることが出来るのだが。月は答えてくれない。


 ちなみに、中秋の名月ではなく仲秋の名月と書かれることがあるが、両者の意味合いは異なる。中秋が旧暦8月15日を指すのに対して、仲秋は秋の真中の月、旧暦8月のことを指す。