八幡・西はずれの峠道。【四ツ谷街道の迂回路】 | 八幡町PHOTO歩記。+

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仙台市青葉区八幡町のこと。

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 八幡町出身のサンデーカメラマン・サカズキです。平成26年(2014年)3月に発行された「仙台市史・特別編9-地域誌-」は、仙台城下を取り巻く周辺諸地域のことを主にまとめたもので、私は個人的に八幡町以西の地域に興味があったものですから発売日当日に購入しました。

 現在、八幡という住所は7丁目まであって、西はかつての旧仙台市と旧宮城町の境界までが八幡となっています。しかし昔は大崎八幡宮周辺、大通り沿いが主に八幡町と言われ、そこから西は七北田村とされていました。更に西へ行き先述の旧仙台市と旧宮城町の境界は旧七北田村と旧廣瀬村の境界でもありました。

 「仙台市史・特別編9-地域誌-」(以下「地域誌」といいます。)を読み、今の八幡西部のことで面白い記事があったものですから、その内容をなぞるように歩いたことがあります。その記事とは地域誌:第二章第六節広瀬『「四ツ谷街道」と二つの迂回路』(249頁)です。

 記事では、四ツ谷用水の流路に沿う四ツ谷街道(作並街道)が度々土砂崩れ等で通行が寸断されて、そのような際に迂回したとされるルートを地図で解説していました。西方から来て仙台城下(八幡町)に入る道筋として「放山の手前から迂回」するというルートでした。

 このルート、郷六に生まれ育って今も暮らし、若い頃にはバスも少なく郷六から仙台一中まで歩いて通った(昭和三十年前後)という伯母に話を聞いたところ「若い女の子が歩くような道じゃないんだろうからねぇ。分からない。」という返事でしたが、その夫である八幡町生まれの伯父は「あれ、今もあるんだべ?」という道筋の存在が極当たり前のような返事でした。

 斯く言う私、この「迂回路」を子どもの頃は遊び場や通り道にしておりました。

 なお「二つの迂回路」のもう一つは青葉山のことで、四ツ谷街道寸断以前のこととして落合橋の流失が主要因の迂回路のことなので、今回のブログ記事では割愛します。

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 上画像は、放山付近の航空写真(国土地理院)です。上段が最近のもの、下段が昭和二十年代前半(1945~50年頃)のものです。写真の中心を「不動池」に置いています。東西に蛇行して四ツ谷街道が通っています。広瀬川沿いの丘陵地が川の浸食で谷地形を形成し、その左岸側中腹を街道が通っているというのが放山地域の特徴です。急峻な崖も点在するこの地域では、現在でも土砂崩れが起きたという話を耳にすることがよくあります。

 さて、この付近の「迂回路」とは、どんな道程だったのでしょうか。

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 迂回路付近の地図を自作してみました。緑色ラインが地域誌で紹介されていた迂回路です。迂回路の西側基点は現在の「仙台市営バス(愛子方面行き)八幡七丁目停留所」よりも西の道路向かい付近、東側基点は三滝地区・聖沢掛樋脇です。元「不動池」は作並街道の作の字の左側に破線で示しています。

 地域誌で掲載されていた地図は昭和十一年(1936年)のもので、迂回路のほか、自作地図中の橙色ラインや黄色ライン、青色ラインの道筋も示される地図でした。現代の地図からは省かれているこれらの道筋も、モータリゼーション到来前の時代は主要な脇道・抜け道だったと考えられます。

 これらの道筋を、本記事で用いる名称として勝手ながら次のように名付けてみました。

【緑色ルート】四ツ谷街道迂回路
【橙色ルート】四ツ谷街道大迂回路
【黄色ルート】放山~権現森道
【青色ルート】放山~山屋敷道
【灰色破線】送電線管理道
【水色ライン】河川等

 平成26年(2014年)に現地を歩き、その時に撮影した画像を掲載します。

●四ツ谷街道迂回路【緑色ルート】
 今回記事のメインとなる「迂回路」で、地域誌の地図でも緑色で示された道筋です。西方から仙台城下へ向かう「四ツ谷海道(街道)」が崩れたために放山の手前から回り道をして城下へ入る旨、迂回路として使われたと思われる記録が「諏訪神社筒粥記」の安永四年(1775年)部分にあるそうです。

 「諏訪神社筒粥記」とは、安永三年(1774年)から明治十八年(1885年)までの地域の出来事を書き留めた青葉区上愛子の諏訪神社に残された記録で、筒粥神事(作毛試しとして筒粥を煮て豊凶を占う)の結果とその年の作柄、併せて地域の出来事等を記しているというものです。なお、筒粥神事は昭和二十一年(1946年)まで続けられていたそうです。

 これから掲載する画像は、西から進むのではなく東から、八幡町側から進む順で紹介します。

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 八幡五丁目付近の弘法山中腹から西を眺めた様子。4年前の画像なので、まだ八幡スケートセンターの建物が存在していますが今はありません。眼下を四ツ谷街道(=作並街道)が通り、その下を広瀬川が流れています。

 赤矢印で示している付近が、迂回路の峠となる部分であり権現森方面や山屋敷方面への道の分岐もある地点です。

 八幡町から四ツ谷街道を西へ進み、聖沢掛樋のある旧聖沢橋を渡った地点へ。

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 三滝地区へ入るところが迂回路の東側基点です。

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 本國寺の裏側を上る道が今の迂回路の道筋ですが、本國寺が建てられる前、昭和初期以前の道筋がどのようであったかは分かりません。

 坂道を上り切り、少し進むと…。

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 三滝の石切場跡(→当ブログ関連記事)に辿り着きます。

 舗装路から外れ、車止めバリケードのある平坦な砂利道を進んで行くと…。

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 三滝石の露頭を観察できる崖下に辿り着きます。その奥のフェンスから先は、立ち入りを禁ずる旨の地主さまの看板があるので気をつけましょう。

 実は、この崖下への道は本題の迂回路ではありません。

 本題の迂回路は今、ここの崖上を見上げた…。

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 …あのような位置(緑色ライン)を進みます。

 「私、何も無いような場所でよくつまずくのよね…。」なんていう方は絶対に通ってはいけない場所を、迂回路が進んでいます。

 さて、舗装路近くまで戻ります。

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 崖下への道は上画像の右奥ですが、迂回路はその左側、踏み跡程度しかない山道(緑色矢印)がそれです。土手の中腹を進む細い道は、時々カモシカも利用する道のようです。出会い頭に出会っちゃったらどうしましょうか…?

 そんな道を進み。

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 崖上に差し掛かります。下に立入禁止フェンスが見えます。

 この場所は年々その様子が変わり、比較的ラクに歩けるときもあれば、足場が崩れていて斜面を高巻きして歩くような場合もあります。いずれにしてもですが、ここでつまずいたら墜落します。厳重注意地点です。(行かれる方は自己責任で通過願います。)

 しかし、ここを通過してからが、昔からの道の様子を色濃く残しているであろう区間なのです。

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 迂回路は、峠に向かって緩やかに上っていきます。右にも左にも斜面があり、谷筋の底を通るような道筋ですが、峠が近いこともあり沢などは流れません。

 雨水の浸食等が少ないはずなのに大きく谷っぽくなった地形で峠。この部分は遥か昔に山を削った大きな切通しなのではないか?と私は思っています。(GoogleMap等の衛星写真で落葉期の当地点を見るとヤケに「彫り(掘り)が深い場所」であることが分かります。)

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 遥か昔に引き込まれそうな…タイムスリップしそうな峠道。

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 上画像が峠付近です。左右の藪が濃いので画像ではほぼ分からないですが、左右直角に交わる道筋が送電線管理道、右前方への分岐が大迂回路及び権現森道、右後方への分岐が山屋敷道となる場所、という山道の六叉路です。

 迂回路はそのまま直進、峠を後にします。

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 道は下り始めます。いい雰囲気です♪そして大きな切通しに見える…。

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 峠を過ぎて下り始めてすぐ、右前方に進める分岐があり、そちらは「明らかに道筋のように見える」ので進んでしまいがちですが、それは「測量用と思われる道」であって先々に測量標識杭が多数存在します。

 迂回路は、その分岐には進まず数歩直進してから少し右に折れます(緑色矢印)。迂回路のほうが藪が濃いので分かり難い状況です。

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 迂回路を少し右に折れた先は、藪が濃くなりつつも道筋が垣間見える…。

 さて、ここから先が問題です。この道筋が記録された「諏訪神社筒粥記」の頃よりは勿論、地域誌に掲載された昭和十一年の地図からも、地形等が大きく変わってしまい、道筋が不確かなのです。

 大きな出来事として、明治四十一年(1908年)に付近の山が大崩落して四ツ谷街道を330mに亘り寸断させています。当時の新聞は「石山の大陥落」と伝えたようです。以後、大崩落地帯は地滑りの監視・観測がなされるようになりました。山腹等に先述した「明らかに道筋のように見える測量用と思われる道」が存在している理由も頷けます。

 そして、昭和五十三年(1978年)の宮城県沖地震では地滑り観測データに顕著な変動があり、その後大規模な対策工事が施されます。当地の地滑りは崩れ易い地質に加え地下水量の多さが要因とされており、排水対策が施されるのです。地表の排水路敷設は勿論、地下には集水パイプが埋設され、所々に大きな集水井が設けられます。また、長さ35~40m直径20cmの鋼鉄パイプ(抑止杭)が数m間隔で何百本か地中の岩盤を貫くように打ち込まれています。年を追うごとに対策工事は進められ、そして放山の不動池も水が抜かれ姿を消すことになりました。
 
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 上画像は、対策工事範囲に見られる集水井(左上)と作業道路(右)。

 このようなエリアの中では藪の中を進む道のように見える場所も、従前より存在した道筋なのか工事による作業路だったのか判然としないのです。それっぽい道筋のように見える場所も、一歩踏み入って足元の堆積した腐葉土を除けてみるとアスファルト路面が出てきたり、排水路が設置されてたり…という具合です。(道筋が判然としない故、自作地図では迂回路西側を破線としています。)

 私が子どもだった頃(1980年代)にはこの迂回路を生活路(通勤路)にしていた作業員の方がいましたが、当時、不動池の畔まで下りて来て四ツ谷街道へ出、郷六方面に向かわれていました。この頃には既に、地滑り対策工事がなされた範囲の中は抜けられる道筋が無く、かつての道筋も森林に埋もれてしまっていたのかもしれません。

 しかし、大崩落を起こした数年後である大正四年(1915年)頃の当地を描いたスケッチ画が掲載された資料がWEB上にありました。下記URL(PDF)です。


 宮城県砂防課が執筆し機関紙に寄せた記事(平成十年・1998年)です。この中では、この大崩落による被害が紹介されています。街道が数百メートルに亘り亀裂や隆起欠落を生じたこと、四ツ谷用水が埋まり水が街道に溢れたこと、広瀬川が隆起して流れが変わったこと…。その前兆現象とも受け取れる体験をした人の話もあります。スケッチ画だけではなく、地滑りの概況を説明する図面、対策工事の内容等も示されいる資料です。

 さて、5ページ目に掲載されているスケッチ画を見てみると、かすれた文字で判別が難しいですが左側に「■滝■■山道」と記され、その直下の山中に細い道筋=迂回路が峠を越えてきて描かれています。地滑り地帯で道筋はズタズタに何度も寸断されていますが、辛うじてスケッチ画の手前まで道筋を辿ることができます。

 この寸断される前の道筋が「古・迂回路」とも言える道筋であり、寸断された後の復旧路が昭和十一年地図(地域誌)の「迂回路」に当たります。

 明治の大崩落で何箇所も寸断された古・迂回路。昭和十一年の地図に至るまでの間に道筋は地図のように復旧されたのだと思いますが、その後、使われなくなった迂回路の荒廃と地滑り対策工事の影響で、峠から西側の領域がほぼ消失するに至ります。

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 上画像は八幡七丁目バス停より少し西側から東向きに撮影したもの。赤い矢印が迂回路の峠付近で、スケッチ画から推測すれば迂回路の西側基点は撮影地点の左後方くらいからだったものと考えられます。西側基点付近は宅地化され、四ツ谷街道との分岐がどこであったのか、私にはよく分かりませんでした。

 根拠は定かではありませんが、この迂回路のことを「旧街道」だと言う地域の人々も居ます。私もそのように感じる一人です。私はこの迂回路とされる道筋が、ただの迂回路程度という位置付けにしては不自然でなりません。

 大胆な仮説というか妄想を言わせてもらえば、峠付近の切通しが割としっかりしているように思えることもあり、山越えである迂回路は仙台開府以前より存在した当地付近の主経路ではなかろうか…と思います。峠の切通し以外にも、地図等でこの付近を見れば「川沿い経路のほうがむしろ迂回している」という点が不自然のように思えなくもない感じがしています。余程のことが無ければ道は最短で敷かれるはずですが、四ツ谷街道はわざわざ険しい崖場と岩場が連なる崩れ易い地質の川沿いを遠回りしています。

 聖沢~放山間の川沿いの四ツ谷街道は、例えば仙台城築城に際して郷六付近から採取した石材搬送や地域交易等の物流都合もあって、山越えを要することのない経路として藩の事業で整備された道筋ではなかろうか、と考えます。併せて、青葉山を抜けていた最上古街道を四ツ谷街道(作並街道)に付替える意味での整備も含まれていたのかもしれません。もしかすると、三滝付近からの採石拡大(山越え道の採石場化)をも見込んで道筋を付替えるという要素もあったかもしれません。

 新たに拓かれた川沿い経路は、その途中に文殊菩薩堂が置かれる(慶長八年・1603年)ことによって、主経路が山越えから川沿いへと代替わりした印象を通行者に与えたのかもしれません。

 …以上、妄想でした。

 この迂回路とされる道筋。例のスケッチ画に記された呼称「■滝■■山道」が不明瞭ではあるけれど…「三滝の旧山道」なのかなぁ…。通りすがる場所に因んで勝手ながら私は「三滝道」と呼びたい。そして峠を「三滝峠」と呼んでみたい。
 

●四ツ谷街道大迂回路【橙色ルート】
 便宜上、迂回路に対して更に大きく四ツ谷街道を迂回していることから「大迂回路」という呼び方にしています。西は旧廣瀬村と旧七北田村の村境から大迂回を始め、現在の八幡さつき台付近を抜け、放山の地滑り面最上部(稜線沿い)を進んで、迂回路(緑色ルート)に合流して行きます。

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 迂回路の峠付近で放山方向を向くと、右前方に上る道筋(橙色矢印)が僅かに残っています。

 ここを上って進むと、やや北寄りに進路を取る獣道のような道で、送電線下の山が削られた平場をかすめて進んだ後、また西寄りに進路を変えて森の中を進むようになります。

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 藪は比較的濃くないですが、所々では道筋を見失うほど濃い部分もあります。

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 放山地滑り地帯の上端をなぞるように進むこの道筋は、所々で崩落地点を通過することになります。このような場所では道筋も不明瞭になることもありますが、基本的に崩落地点を左側に見ながら山の稜線沿いを歩くようになります。くれぐれも滑落等に注意したい道筋です。

 山の頂に向かう最後の急斜面を上ると、広い平場の森となります。

 そんな場所の、古い地滑り崩落部分の際を覗き込むと…。



 コンクリート製の杭が崖下に向けて倒れています。



 「常盤木」と記された杭。単純にこの言葉だけの意味とすれば「常緑広葉樹林」ということですが…周辺を見れば今はそういうわけでもありません。あるいは学校用地だったりするのでしょうか…?

 その後も地滑り崩落部の上端を左側に見つつ森を進むと、獣道のようになった道筋は八幡さつき台住宅地の近くで、人工林を直前にして一気に不明瞭となって終わってしまうのでした。

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 昭和十一年の地図にあった道筋(橙色ルート)は、上画像の旧廣瀬村・旧七北田村の村境にある道へとつながっていました。この道筋は放山の大崩落箇所外縁をなぞるように通っているため、明治期以降に生まれたものと考えられます。もしかすると、大崩落で四ツ谷街道が寸断した際の「もう一つの迂回路」として機能していたのかもしれません。


●放山~権現森道【黄色ルート】
 東から向かうと迂回路の峠から分岐する大迂回路(橙色ルート)を経て、その途中、大崩落部頭頂付近の常盤木杭を過ぎた辺りで更に北寄りに分岐し進路を変える道筋です。放山から向かう先は現在の葛岡墓園を経て権現森になるのではないかと思います。

 常盤木杭を過ぎて、右に分岐する微かな道筋を進みます。木々に紛れて分岐に気付かずに直進してしまうこともあり得るような、森の中の僅かな変化(低木や下草の様子)から判断して進むような状態の時もある分岐です。

 北寄りに進路が変わり、程なく明らかに道筋のように手が入れられている場所に出ます。その場所は緩やかに傾斜していて、右に上って行くと…。


 大正十五年と記された仙台市水道の標識杭があります。ここは仙台市水道の青下ダム~中原浄水場~荒巻配水所をつなぐ送水路・第三号隧道の真上に当たるのです。

 この杭に辿り着く手前、左側に踏み跡が残る道筋があり、そこをクランク状に進み、少々アップダウンを経て…。


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 葛岡墓園に辿り着きます。昭和十一年当時の道筋は墓園の造成により残されていませんが、放山付近から権現森付近へと向かう抜け道のような存在の道筋だったのでしょう。


●放山~山屋敷道【青色ルート】
 西から向かうと迂回路の峠から分岐し、北寄りに進路を取って現在の国見駅付近、山屋敷と呼ばれた地域に辿り着く道筋です。
 
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 上画像、東側から来た迂回路が右下を手前に進んでいます。左奥に大迂回路・権現森道、正面に送電線管理道(葛岡方面・白色矢印)、右奥に山屋敷道(青色矢印)です。

 右奥へと進むと程なく、迂回路での三滝石の露頭が見られる崖上に近い場所を進むようになり、道筋が崖上から離れると右に分岐が現れますが、そちらの先には地主さんの管理する建物が見えていますので右に進まず直進し、突き当たりになった丁字路を左へ進みます。(本来の道筋は、戦後の航空写真から確認すると右に進んで地主さんの管理地内を通過していたと考えられます。)

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 おそらく本来の道筋ではないものの、昔から利用されてきているのであろう山道は綺麗に保たれています。

 その後、上画像のように僅かに右へ右へと曲がりながら進んで行き、仙台市水道の送水路付近で東進します。

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 第三号隧道出口前を通過し、第四号隧道入口前(上画像)へと辿り着きます。(この辺りで本来の道筋に復帰していると考えられます。)

 この近接した二つの隧道出入口は、レンガに大正期の覆輪目地・山型目地がそれぞれに残る貴重なものです。(→当ブログ関連記事

 第四号隧道入口の背後にそびえる急坂を上り切った地点から、すぐに左折、森の中へ進路を取りますが、この部分の道筋が少しはっきりしていません。稜線沿いを意識して少し斜面を上ると踏み跡が見えてきて道筋だったことが分かるようになってきます。

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 稜線沿いの斜面を上り切ると、ほぼ平坦な森の道が続きます。しかし、気を付けていないと道筋を見失ってしまうほどに微かな道筋です。

 左側に住宅が見え始め、道筋が曖昧になってきた頃に住宅側へ林を突っ切って出てみると…。


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 坊主門地区の南、仁田谷地の住宅地に出てきます。上画像では偶々砂利の置かれていた場所に出てしまいましたが、今現在この付近の林が伐採され、その木や枝が積まれて歩く場所に苦労しながら住宅地に出てくる状態になっています。

 現在の車道を辿れば、仙山線国見駅脇の山屋敷踏切の袂へと出て行けますが、昭和十一年の地図では…。


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 唸坂を上り切った地点、上画像の左奥から出てくる経路となっていました。(ここへと通じる山道が途中に存在していますが、民家脇を通ることになるので通行は遠慮しました。)

 放山付近から山屋敷付近へと向かうこちらの道筋もまた、抜け道のような存在のルートだったのでしょう。

 さて。


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 幾つもの道を分岐させる迂回路の峠。いつの時代からこの場所を人々が行き交うようになったのでしょうか。八幡町がそう呼ばれ始める前の頃を知る人々が、千代の地を最初か最後に遠望する西はずれの峠道だったのかもしれません。

 時代は移ろい、今は通る人影も稀となって、静かに風が通り抜けています。




【ご注意ください】

 本記事で紹介した付近に行かれる方は、次の点に充分ご注意の上で行動してください。

・崖や急峻な斜面からの滑落、墜落。
・道に迷う、負傷することでの遭難。
・ツキノワグマ、イノシシとの遭遇。
・民有地(立入制限看板より先)への侵入。
・熱中症等の体調不良。
・火の不始末、ほか。

 標高の高い山だから滑落死する可能性が高いというものではありません。身近な裏山でも数mの落差がある崖では命を落とすことがあります。また、慣れない山は里山と言えども迷い、焦りはケガ等につながります。その他、一般的な山歩きの注意点を念頭に行動されるようお願いいたします。





Sendered by 盃【サカズキ】


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