Q1:
世界にも日本にも様々な宗教がありますが、やはり人間にとっては宗教というものは必要なものなのでしょうか?


A1:
宗教というものは、1つの宗教団体として捉えられていることが多いと思います。
まずは宗教という前に、そもそも信仰というものが必要かどうかからお話をしたいと思います。

信仰というものは、目にみえない精神的な高みの存在(神様や仏様)を信じることであると言えます。

この信仰の対象は神様、仏様・・言葉は違えど人間が目指すべき高貴な存在として、その高みに自分も近づきたい、帰依したいということが信仰だと言えるのだと私は思っています。

この信仰心というのが非常に大切で、この信仰心がなくなると、人間として堕落したり、あるいは倫理観がなくなっていったり道徳観がなくなっていったり、自分を律する気持ちもなくなっていったり、ひいては人を傷つけても平気な気持ちであったりとか、あるいは世界中に堕落・退廃・争い・・・色んなマイナスの世界が展開してくるとそう思います。


信仰心を持っている方々というものは、自分をより立派な人間にしていきたいという気持ちや考え方が出てきます。

信仰心を待たない人は経済的に豊かになりたいとか、健康でいたいとか、自分の思う通りの人生を歩みたいとか、そういう気持ちは出るのですが、必ずしも自分の精神性を高めたい人間的に立派になりたいとかいう気持ちはなかなか出てこないものだと思っています。

というのも、自分のやりたい事をやりたいという欲望のみが尊重されるようになっていくからです。


ですが信仰心をもつことによって、倫理観や道徳観が深く芽生え、そしてそこから「きっと神様は自分自身のことより、より多くの人の幸せを、全ての人々の幸せを願っているに違いないだろう」と考えるようになるでしょう。

そうすると、自分がそこに近づきたいという気持ちを思っている人は、全人類の救済までは出来ないにしても、自分の事だけを考えていくよりも周りの事も考えよう、調和していきたい、
自分の届く範囲で手を差し伸べられる相手がいれば差し伸べたい・・といった様々な気持ちが信仰心から出てくるのです。

それが戦後日本教育の中で、信仰とか宗教というものを学校で教えなくなりました。

それによって現在の子供たちはどういう価値観を持っているかというと、
人に親切にしたり、優しくしたりするその意味合いが分からないといった状態です。


なぜ親切にしなければいけないのか、なぜ優しくしなければいけないのか、なぜ周りと調和しなければならないのか、なぜ自分の欲望を抑えなければならないのか


戦後学校で信仰や宗教を教えなくなったため、その価値観が失われていったためにこのようになったのです。


戦後の日本の教育は何故そのようになったかというと、これはアメリカと日本が戦争をして第二次世界大戦で日本は、天皇陛下のためには特攻隊で命を捨てても構わないと特攻していったんですね。

その精神にアメリカは驚き、恐怖しました。


そしてこれは天皇が神、現人神であるという信仰からきてるという風にみて、天皇制は残しましたが、この凶器の沙汰とも思える精神は残したくないとして、学校教育の中から信仰というものを消し、宗教が取り除かれたのです。

それではそういうアメリカはどうかと言いますと、例えばアメリカでアパートやマンションを借りて住もうとしたら、その契約書や申込書のようなものには信仰の欄があるのが普通なのです

日本人がアメリカに行き、アパートやマンションを借りようとするとき、その信仰欄には信仰なしと書く人が多いですが、そうすると信仰がないということでアメリカでは「この人は信仰もなしで人間性を失っているのではないか」と思われます。

アメリカでは信仰を持たない=獣や動物と一緒だ、と判断され入居に許可が下りないことがあるのです。


逆に日本では信仰心を持っているというと、変に思われることが多いですね。

信仰は本来持っていなければならないものです。

アメリカの影響により日本は学校で信仰を教えなくなり、今の子供たちが非行に走ったりいじめをしたりあるいは自殺、と弊害になって見えてきました。

ですので、こうした原因から回復するためには、やはり宗教心・信仰心が必要だといえると思います。


ありがとうございました。