7日までしか見れない伝統の風習


年末、先輩から連絡が入っていました。

年末年始を京都で過ごす予定なので会いたいとのこと。

 

宿は、ウチからほぼ700メートルの距離に位置する老舗旅館。

約束の3日、いそいそ出かけて行きました。

 

玄関のお正月飾りが立派でしたね。

年末に、神様の入口となる玄関を掃除して清める大掃除をします。

お正月飾りやお供えを飾るのも、歳神様をお迎えする準備です。

 

新年を迎える前に、門松やしめ飾りを正月飾りとして玄関先に飾る。

新春に咲く梅は、1年の始まりにふさわしい花として、門松には紅梅と白梅の両方を使う。

 

正月飾りの中で、もっとも重要とされてきたのが門松。

文字通り、門に飾るもので、この門松を目印に年神様がおいでになる。

 

門松は、松竹梅で出来ていますが、それぞれに意味がある。

松は、一年中枯れることがなく、神様が宿るとされている。

竹は、すくすく育つ成長力豊かな植物なので生命の象徴と崇める。

梅は、新春に咲くので一年の始まりに相応しい。

 

一般的に、松の内を過ぎた1月7日に片付けます。

門松のある玄関は7日までしか見られない光景です。

寒い日でしたが、本日5日、京都の三大老舗旅館全てを廻りました。

 

最初は、柊家さん。

小樽商大卒の友人に頼まれ、同窓会旅行の宿に、全館貸切り対応して貰ったことがある。

宴席も同旅館にお願いして、皆さんから大層、喜んでもらいました。

その時、私も宴席と宿泊担当の幹事役として泊めてもらいました。

 

柊家は、木造二階建て数奇屋造りの本館21室と新館7室の和風旅館です。

各部屋から眺められる坪庭、目と舌で味わう京懐石に、柊家の伝統が息づいています。

 

1818(文政元)年、福井から青雲の志を抱き京に上った先祖がこの地に居を構え、

運送業、海産物商を始めたのが柊家の始まり。

 

その名の由来は、下鴨神社の境内にある比良木神社。

邪気を祓う柊の木が自生する神社に先祖は深く帰依し、屋号を「柊家」とした。

 

その後、二代目定次郎は、本業より柊家政貫と号するまでに鍔目貫の技に長じ、

そのため請われるままに提供していた宿を、1864(文久元)年に本業とした。

 

日本刀(刀剣)の「鍔」(つば)は、刀装具のひとつ。現在、美術工芸品としての価値も高い。

目貫(めぬき)とは. 日本刀の装飾のひとつ。刀身が柄(刀の握る部分)から抜け落ちないよう、

柄にあいた穴と刀身にあいた穴を貫き通す釘のことです。

「目」とは、 古い言葉で「穴」を意味しており、「目を貫く」ということから「目貫」と呼ばれいます。

 

幕末の志士、明治時代からの皇族、文人墨客の方々をはじめ、戦後は国際観光の進展に伴い、

海外からのお客様も迎え、二百余年、京の三大老舗宿として現在に至る。

あの近現代日本文学の作家である「川端康成」の常宿で、寄稿文を宿に寄せています。

 

玄関を入った処に掲げられた額には「来者如帰」と書かれています。

「我が家に帰って来られたように、寛ろいでいただきたい」という願いです。

創業以来、このおもてなしの心を、大切に守り伝えてきた。

 

右から読む古い看板の下に、しめ縄飾りが施してある。

 

正面玄関、迎春の門松のしつらえ

 

南側から見た柊家、ほぼ全景。御池通りまで続く。

 

次に向かったのが炭屋さん。

道を挟んで、柊家の真向かいにある。

つまり、炭屋の真向かいに柊家がある。

 

炭屋の歴史を遡ると、生業は刀鍛冶であったとのこと。

刀の鍔や襖の引手とかを商う鋳物屋だった。

 

3代前の堀部鍈之介が、お茶やお花そして謡曲を趣味としていた。

趣味の多かった鍈之介がお茶や焼き物、謡曲で知り合った友人を招いてお茶会を開いたり、

遠方の友人を泊めたりするようになったことから宿が始まりました。

 

鍈之介は、裏千家の家元とも強いつながり持ち、家元をはじめ同行の人々を自らの邸に招いた、

おもてなしを日常のように行っていたらしい。

そして、京都の外から稽古に来る人を泊めていた。

 

この地は、観世流や金剛流などの家元も多く、稽古に来て泊まる場所としては適していたのだろう。

お礼を置いて帰ることを何回も繰り返すうちに、宿屋とした方が気苦労も無くなるということで、

旅館となったのは、1916~1917(大正5~6)年頃のことだったらしい。

 

先代も、先々代と同様に趣味の人であったようで、裏千家の老分も務めていた。

老分とは、家元を後援し、流儀の発展に貢献したことが認められた門人に与えられる称号。

 

そのため、家元と一緒に全国を献茶に出かけて行くことも度々あった。

行く先々で、お茶をするなら是非、炭屋にお越し下さいと言っていたそうです。

 

京都に行くなら炭屋に行こうと全国的にお茶の宿ということで知られるようになった。

正式に政府登録の旅館となったのは、昭和に入ってからのこと。

 

この二代に渡る家業にとらわれない、いわゆる文化活動によって、

炭屋の現在の位置づけが出来上がった。

 

毎月、先代と先々代の命日、7日と17日には釜を懸け、宿泊している人々にお茶を供している。

炭屋には5つの茶室があり、その内の2つ、「玉兎庵」と「一如庵」が現在、使われています。

 

大きな幔幕(まんまく)が張られています。

 

門松の基本に沿ったもので、決して華美ではない。

 

炭屋の正面玄関。

 

客室は18室。落ち着いた佇まいの炭屋は、リピート率が高い宿として知られている。

 

柊家、炭屋から麩屋町通りを一筋下がった処に俵屋がある。

街中にあるのに、静寂と気品が漂う。

 

穏やかな時を過ごせる俵屋旅館の部屋数は全部で18室。

スティーブジョブズの定宿としても有名で、トムクルーズも宿泊したことがある。

 

伝統と機能性をうまく融合したセンスのよさ。

すべてが控えめ。それなのに、ひとつひとつが丁寧に考え抜かれている。

絢爛豪華な高級旅館とは一線を画す、本当の意味で心落ち着ける旅館です。

 

「俵屋旅館」は創業300余年。京都でも最も古いと言われる旅館のひとつ。

公式サイトを持たない宿としても知られてます。

 

「ウチは、口コミだけでよろしゅうおす」

そんな感じだろうな、きっと。

 

京都の伝統職人が壁一面に施した「名栗(なぐり)」が印象的です。

番頭さんが、こっそり教えてくれました。

「この名栗の加工だけで家が一軒建ちます」

 

俵屋は文化庁の登録有形文化財です。

 

伝統の技 、名栗る(なぐる)とは木材の表面を大工道具である手斧(ちょうな)を使って削ること。

手斧目削(ちょうなめけずり)という。

角材や板に昔からある大工道具の「突きのみ」や「ちょうな」、「与岐」などを使って、

木に独特の削り痕を残す日本古来からある加工技術。

 

伝統職人が壁一面に施した「名栗(なぐり)」の技術。

 

俵屋11代目当主佐藤年さんは京都生まれ。学習院大学文学部卒。

俵屋の専務取締役を経て1965年、俵屋の代表取締役に就任。

客の快適さを常に求めて伝統を守りつつ、革新を繰り返してきたからこそ今がある。

 

11代目を受け継ぐ当代は「宿にはもの作りのように一子相伝の技はない」と言い切る。

当主佐藤年さんを軸に、その旅館に携わる職人達の仕事振りを書いた本があります。

 

佐藤年さんにお願いしてサイン本「俵屋相伝」を頂きました。私の宝物です。

 

湯葉や魚の食材業者はもちろん、畳に障子、部屋に飾る骨董品屋まで登場します。

驚いたのは「洗い屋」と呼ばれる風呂桶を洗う職人の話。

人の脂でずず黒く汚れる高野槙の風呂を洗い落とす苛性ソーダの量を、

舌で加減しながら汚れを浮かせるのだそうだ。

 

石州(島根県)浜田、呉服問屋「俵屋」の京都出店として宝永年間に創業。

石州藩藩士の定宿となるほど、主人岡崎和助のもてなしが評判となり、

次第に宿を本業とするようになった。

 

伊藤博文や犬養毅など、幕末を動かした政治家たちも投宿、

今も残されている宿帳に語り継がれています。

 

江戸時代から明治にかけ、公家や大名の常宿とされてきた。

常に高いサービスを好まれる顧客と接しながら 続いてきた300年間には京の宿の歴史がある。

 

Apple創設者故スティーブ・ショブズ自伝の下巻でも、

「スティーブ・ジョブズのお気に入りの旅館」として紹介されています。

宿のポリシーを喜び、楽しみ、認めて頂けるお客様が顧客となり、より高いサービスで応える。

 

例えば、お布団にも強いこだわりを持つ俵屋。

一枚のお布団に国産の繭を1万個も使っている。

 

繭玉に包み込まれているような感覚は他では味わえないと絶賛されています。

ホテル王と呼ばれる方が利用された時、「俵屋にホテルの原型を見た」と唸ったそうです。

 

俵屋正面玄関の迎春のしつらえ。

 

俵を描いた俵屋の看板。

 

新春の青竹を組んであるのが、清々しい。

 

俵屋のほぼ全景。姉小路まで続く。

 

些か、俵屋さんの記事が多いのが気になる。

「俵屋相伝」の本の影響でしょ。

その通りです。

 

外資系ホテルの迎春のしつらえはどうなんだろう。

今、急に思いついた。

 

リッツカールトン京都を訪ねてみます。

また報告します。