私はスマートフォンのウィジェットで、過去の写真がランダムで表示されるような設定にしている。
そこには、1〜2年前の娘が出てくる。
まだまだ赤ちゃんで、喋りも行動もたどたどしい。
動きの一つ一つが危なっかしくて、目を離せない。
そんな頃の写真。
ああ、ほんの少し前までは、こんなに小さかったなぁ、と思う。
あの頃の娘は、もういない。
成長して、今の姿に変わっていった。
当然、今の娘も本当に可愛い。
だけど時々、あの頃の娘に、もう一度会いたいと思う事がある。
いつのまにか、固形物を食べるようになって。
いつのまにか、手を繋がれるのを煩わしく思うようになって。
いつのまにか、随分としっかりした日本語を使えるようになって。
成長していく。
我が子が成長していく喜びの反面、もう二度と、あの頃の我が子には会えないのだと思うと、とても寂しい気持ちになる。
全ては変化して、通り過ぎ、もう二度と出会えない。
毎日という瞬間は、明日にその後を託して、消えていく。
過去を失い続けて、未来を獲得し続けていく。
±0の世界。
いつか私も消えていく。
それなのに、誰かを好きになったり、誰かを愛しく思ったり、誰かと関わる事を求めたりする。
±が0であるならば、なぜ明日へと向かっていくんだろう?
どうせ0なのに。
自分が積み重ねていくものは、何だろう。
記憶とか、経験とか、そういうものか?
ただ一つ、確かに言える事は、4年前には娘はいなかった。
でも、3年前、娘は産まれてきた。
その時は確実に、0が1になった。
そして今も、1のままだ。
娘が0になるよりも先に、私が0となる。
そしてその先の何十年かで、娘も0になるのだろう。
存在っていうのは悲しいな。
でも、自分以外の存在に触れていく事で、人はどうにか生きながらえている。
娘が、誰かを好きになって、誰かと結婚して、子供が出来たら、私には孫が産まれる。
また0が1になる。
それを果てしなく繰り返していく事が動物の行いなのだろうから、その摂理には従うしかないと思う。
人は次世代に自分の命を繋ぐ事で、未来を獲得していく。
無から有を産み出し、そして私という有は、やがて無に返っていく。
記憶の中で生きているとか、そういう感覚は私にはない。
消えていった人間の事を、私はあまり思い出せないからだ。
今がいい。
今生きている娘に会いたい。
それでもなお、過去に生きていた娘にも会いたい。
そして私は0になりたくない。
積み重ねていきたい。
しかし失う事は避けられないのだ。