いざ、出発を決意したけれども、その準備がまた、地獄の苦しみでした。


 パスポートはあったのでその手続きは必要なかったのですが、航空券を旅行代理店に依頼する、このこと自体が本当に辛いことだったのです。書類をまともに書けない、面と向かって話すことも辛い、じっと座っていることすら辛い、本当にできないことが次々と頭の中に湧き上がってきて、どんどんハードルが高く感じられてくる、それ以前に旅行代理店まで足を運ぶということができないのです。おかしい人間じゃないかと思われるんじゃないかとか、こんな時期に海外へ行くなんて仕事していないのかなどどうしようもない考えが次々と浮かんでくる、そしてその間にも死にたいという感情と戦い、生きていくことをどうにか紡いでいく、動かない体を無理やりに動かさなければならならない。ただ、それだけのことが本当に苦しいのです。


 本当はこの時点で、医者にかかり、休むべきだったのでしょう。でも、究極の二択を突き付けられている状況ではその考えすら浮かんでこなかった。そして、この状況をどんな説明しても、妻には私は知りませんの一言で片づけられる状況でした。でも、この状況を見てもらもらえば分ってもらえるじゃないかという考えも少しはあったのです。


チケットを買いに行くことを実行するまでも数日かかりました。


 最終的には、親に頼りました。親も薄々、おかしいということは感じておりましたが、うつ病という言葉を知っていても、実際に関わることは無かったので病気だということは分らなかったのでしょう。仕事の問題、離婚の問題により精神的な重圧を受けて一過性におかしくなっていると感じたようです。


旅行代理店に行き、チケットを仕入れ、ふらつく字で申込用紙を書きその日はそれだけでエネルギーを使い果たしました。もう、チケットとパスポート、それ以上の準備は全く自分ではできない。

 でも、出発への準備は整いました。

 前のようなやり取りを続けるうちに、自分はもしかしたらうつ病かもしれないと感じるようになってきました。でも、そんなこと無い、気のせいだという必死で抗う気持ちも強く、休めば治るんだ自分に言い聞かせていました。

その間も、妻への必死の電話は続いていました。


 そうこうしている内に、向こうは我慢の限界が来たのでしょう。離婚の話が突然出てきました。あまりに唐突で、こちらは繋ぎ止めようと本当に必死になりました。自分の絶望とも戦いながら、妻とのつながりをどうにか取り戻そうとぎりぎりの心理状態で行動していました。それならば、一回こちらに来て話をしましょうという話になり、それができなければ離婚という話に話が進んで行きました。書類さえ満足に書けない状況を説明していたのに、そして鬱かも知れないということを話していたのにも関わらず、そんな話は聞けない、あなたは自分の話ばかりだと非難され、鬱について少しぐらい知ってくれとお願いしたのにも関わらず、私にそんな義務は無いと跳ねのけられていました。

 

 こちらとしては、究極の二択を迫られている感じでした。普段の自分ならば、妻を追って海外に行くということは、多分普通にできることだとは思います。でも、その時は本当に寝ていても辛い状況であり、海外へ行くということ自体が死を覚悟するぐらいのハードルであり、その準備すらまともにできない状況だったのです。しかし、いくら鬱の疑いを口にしても鬱に対しての理解どころか、そんなことは知らないし、調べるつもりもない。来るか、来ないのかという態度でした。そんな、妻の所に行ってもこの辛さを和らげることはできないし、逆に責められるのだろうなとは思いました。率直に思ったことは行く前に死ぬかもしれないし、行ってからは確実に理解されずに死ぬんだろうなということです。かといって、いかなければ、離婚という結末。

それでも、多分、まだ妻に対するすこしの期待と希望が残っていたのだと思います。

 妻を、そして子供たちを追って旅立つ決心をしました。

 妻とは多分、このまま別々の人生を歩むことになりそうです。


病気が元とはいえ、それを乗り越えることができる人たちもいるのですから、残念とは思います。しかし、仕方がありません。


 仕事で病気を発症したとき、本当につらかった時、妻は子供たちを連れて海外の実家に帰る予定であり、そのまま、帰国して行きました。おかしくは感じていたようですが、うつ病とは考えなかったようです。

妻にとっては10年以上ぶりの帰郷であり、反対することはできませんでした。ただ、ただ本当に辛くて辛くて自分と戦っている状況でしたが、自分は病気とは思っていなかったので大丈夫と思っていたのです。


 妻が去ってからもやはり異常に辛い状態が続き、心が溺れそうな状態が続いたため、毎日のように電話してしまいました。それも異常な頻度で。でも、そうでもしていないと辛くて辛くて本当にたまらなかったのです。最初は、大丈夫という言葉をかけてくれていましたが、それも異常な回数で繰り返されるうちに嫌気がさしてきたのでしょう、非常に厳しい言葉が返ってくるようになりました。今までの結婚生活の不満から始まり、これまでの仕打ち、そして結婚生活でいかに自分が搾取されてきたかということを訴えるようになりました。”私はこれまで搾取されてきた、実家に帰ってみてそれがよくわかった”本当にそういう言葉を聞くことは、辛すぎることでしたが、それでも孤独、死にたいという考えを否定して欲しくて必死で電話していました。多分、妻からみれば、仕事で失敗してそれを慰めてほしいと考えたのだとは思います。

 自分の異常な状況、例えば、書類というかまとまった文章が書けない、ちょっとした外出すら気力を振り絞らなければならない。夜はほとんど眠れないなどということは伝えてましたが、そんなことはもう聞きたくない、なんで私がそんなことを聞かなくちゃならないとという反応でした。