親父の話 | 冬の世界の中心の私の猟奇的な彼女の頭の中のさらっとしぼった消しゴムのソナタ?

その行動で見たもの全員の記憶に刻み込まれる、うちの親父の話


生まれたのは熊本県の、今で言う玉名市に生まれました

(市とは書いてありますが、笠間市のように地域格差がかなりきつくて、マンガに出てくるような田舎町を想像して結構です)


戦後の食糧難で昼飯の為に野うさぎを採るような時代で、しかもそれが一般的だったんだから驚き


親父曰く、「学生の頃はモテモテだったんだぞー」といってますが、詳細は不明

実際頭は良かったらしく、熊本市にある済々黄高校という名門校(甲子園の優勝成績もあるとかないとか)に通ってました


大学は東京のほうに出たかったらしいんですが、父親(俺から見ればおじいちゃん)が病弱で、家業の石灰業の経営も不安定だったため、熊本大学に進路を変えました


しかし、父親の急死で、大学を一年経たずに中退し、家業に専念することになり、実質は高卒みたいなもんです


その頃には専務(社長になった母親も病を患っていたので、社長みたいなもん)になり、借金1000万の会社を任されました

親父の弟は、5歳離れており、弟は高校の奨学金(水短にあるやつみたいの)で早稲田大に入り、親父は弟の将来の為に「坂本石灰関東支社」として荒川沖に工場を作りました

その後借金を帳消しにした親父は本格的な支店として広島支店を作ります


時間は飛んで、俺が小学3年のときに親父の母親が他界し、社長は親父になるのかと思いきや、遺言には遺産、会社は弟や他の兄弟にのみ分け与えると書かれていました


その理由ですが、俺の母親との結婚は家族の反対を押し切ってのものだった(かっこよくね?)ため、家族とは疎遠だったからだと思われる


まあそんなこんなで63才になったいまでも元気です

団塊の先輩にあたる年代で、日本の経済成長をその目で見てきたってのはすごいね



おしまい