ゴッホ 。
「もしかしたら わたしは ゴッホだった。」
・・・と。
中学生のころ。
ピアノを弾きながら・・・
ピアノの部屋に 飾ってあった
ゴッホの 大きな ポスターを 見ながら
何の 根拠もなく
思い込んでいた 時期が ありました。
気付いたら 貼られていた
ゴッホの 大きな ポスターは。
ゴッホ が スキだったから
飾っていたわけでもないのですが。
おそらく。
インテリア として 飾ってあったのでしょう。
ピアノを 弾きながら
毎日毎日 壁紙のように
視野に映っていた ことと おもいます。
ゴッホ の 本物の作品 とは。
中学生のころ 出会いました。
絵に対して 感情が 動く経験もなかった 時代でしたが
ゴッホの 絵画と はじめて出会ったとき。
言葉にならない
孤独感 のような
闇のマントに 覆われた キモチになりました。
一瞬・怖い・・・
絵画の表面の 奥を 直視すると
そのまま 連れていかれそうな 感覚をおぼえました。
感情 が 不安定な 中学生時代 の
わたし に とって。
感情の嵐 の渦が ただよう
ゴッホの作品 は。
おそろしいながらも 。
わたしも ソチラの 世界へ
没頭してみたい ・・・ と
自らの 言葉にならない情熱が
顔を出していました。
油絵具の ギトギト とした
ゴッホ 独特な
筆跡の リズムの 集合体は
まるで・この世の 呼吸の 一部を
垣間見せているようで
曼荼羅のよう にも 映ります。
絵画とは。
気楽に たのしめる 存在 も あれば。
生きる真実 が ひとコマだけ 垣間見える ような
神聖な 存在 も あります。
あらゆる 絵画の なかでも 。
ゴッホ の 晩年の絵画 と いうものは。
生きる真実の ひとコマ が
大胆に・にじみ出ているように おもうのです。
そんな 作品に 対して・・・
生きはじめたばかり の 中学生のわたしが
「もしかしたら わたしは ゴッホだった。」
・・・とは。
今 考えると 笑ってしまう 思い込みなのですが・・・
今 と なって。
改めて 考えてみると・・・
ゴッホ が この世に 情熱的に 残してくれた
生きた 残像の 存在(絵画)に対して。
「わたしも こんなふうに 生きたいんだ。」
・・・という。
ゴッホ が 情熱に 生きていた 人生へ・・・
作品 を とおして。
素直に ゴッホの呼吸に 同調していた 自分は
あたかも 自分が ゴッホだったんだ と 。
思い込んで いただけなのかも しれません・・・
現在。
国立新美術館 では ゴッホ展が
開催されている そうなのですが
今の 時代 だからこそ。
ゴッホ・パワー と 云うべく。
ゴッホ の 絵画から滲み出てくるような
まるで・子供のように。
真っ直ぐで
燃えるような 情熱 が
必要なのかもしれません。
芸術 とは。
時代 の 人々が
作品を 輝かせて・いかしてくれる
素晴らしい 宇宙です。
わたしも 地球 の 表現者のひとり
日本画家 として。
己に素直な リズム と 呼吸 と 思想 ・・・等と。
向き合い・鍛えながら
目の前から 出会う課題 を こしらえながらも。。。
情熱 な キモチを 忘れずに・・・
生きていきたいものです。