『光る君へ』第34回「目覚め」……その国語学的アブローチ | 榊邦彦 OFFICIAL BLOG new

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『光る君へ』第34回「目覚め」へのコメント第二弾です。

  第一弾では、第34回の五つのセリフに焦点を当てた「オンパレード型」でしたので、第二弾のコメントでは、もう少し大きな視点から、第33回「式部誕生」と第34回「目覚め」の二回を見渡して、考えてみたいと思います。

 

  第34回では、一条天皇がまひろ(藤式部)に対して、「そなたの物語は朕にまっすぐ語りかけてくる」と伝えていました。また、第33回にも一条天皇は「そなたの書く物語が心に染み入ってきた。誠に不思議なことであった。皆に読ませたい」と伝えていました。まひろは、「物語は女・子供だけのものではございません」と答えていました。

 

  

(第34回「目覚め」より)             

 

 (第33回「式部誕生」より)

 

  もちろん、まひろの物語が、帝の心を打ったのは、まひろの「物語を紡ぐ才のなせる業」であるのは間違いないところですが、その地平として、ここでは表記の問題を考えてみたいと思います。

 

「第33回」と「第34回」では、帝とまひろのやりとりが、そして、第34回では「まひろの書いた物語」が共感の輪を広げていく様子が描かれました。そういった様子から、日本語の歴史や、日本の文学表現の歴史を考えるにあたって重要なポイントがいくつか見えてきます。

 

 

「まひろの書いた物語」を読む藤原公任(第34回「目覚め」より)

 

 

「まひろの書いた物語」が共感の輪を広げていく。(第34回「目覚め」より)

 

 日本列島に住んだ人々は、万葉時代以前、文字を持ちませんでした。万葉時代に中国から漢字が流入し、漢字を利用して、様々なものを書き記すようになったのが、日本の「文献」の始まりです。例えば、「ゆくりなくきみをおもへり(現代語訳:不意に君のことを思った)」と記したければ、中国語の単語・文法を利用して、「我突然想起汝」と記すことになります(読み下せば「我、突然に、汝を想起す」です)。

 

 一方、漢字の意味は無視し、音だけを利用して「由久利奈九企三雄応毛辺里」などのように、日本語の発話を写し取るように書く方法も行われました。こういった文字遣いを万葉仮名と言います。そして、この万葉仮名が平安時代に書き崩されていき、様々な平仮名になっていったわけです。

 

 平安時代に仮名が使われるようになったとは言っても、所詮は「仮の文字」です。正式には「漢字で、中国語のように記す」のが教養です。公的な文書はすべて漢文で表記され、仮名は、あくまでも女や子供が私的な場面で使う「文字」、まさに「仮の文字」でありました。「ひらがな」が「仮名」であるのに対し、漢字は「真名」と呼ばれる由縁です。

 

 また、物語は、架空の世界を創るものですから、いわば「噓つき」であるわけで、公的な記録や、きちんとした日記より、劣ったもの、女や子供の遊び物という評価でもありました。

 当時の「記述された文章」の価値体系としては、「漢文で書かれた歴史書・記録・日記・漢詩(真名で書かれた本当の話)」が最も上で、次に「和歌・仮名の日記や随筆(仮名ではあるが、嘘ではない)」、そして、最後に「仮名で書かれた物語(仮名で書かれた嘘)」という、教養ピラミッドであったと考えて良いと思います。

 

 そのため、紀貫之は仮名で日記を書こうとした際、女性の振りをした(*1)わけですし、随筆「枕草子」・日記「蜻蛉日記」・物語「源氏物語」など、平安仮名文学は男性ではなく女性によって書かれているわけです。

 

   

 道長の日記『御堂関白記』(自筆) 

 

   

 『土佐日記』 (藤原定家 臨書) 

 

   

   『枕草子』(江戸前期写本)

                

 以上のことを考えると、第33回「式部誕生」のまひろの言葉、「物語は、女や子供のものだけではない」の迫力が分かります。まひろの言葉は、「平仮名で書かれた物語」に対する伝統的低評価に向けた、大胆な意識改革宣言でもあるわけです。

 帝の「皆に読ませたい」という言葉も、国の価値体系の最上位にある立場からの発言としては、いよいよパンチある一言とも言えます。(思えば、そのような評価の低い「仮名物語」を、帝の心を動かす大きな一手として考えた道長の発想が、もとより突拍子もないのですが。)

 

 ……

 

「文字表記」の話に戻りましょう。

 そんな「正式ではない文字」である「仮名」ですが、「ゆくりなくきみをおもへり」と「我突然想起汝」と「由久利奈九企三雄応毛辺里」では、どの書き方が一番、自分の心情をすなおにストレートに表現できているでしょう。

 

 漢文表記「我突然想起汝」には、「中国語の単語や文法への変換」という「ハードル」がありますね。

 また、万葉仮名表記「由久利奈九企三雄応毛辺里」には、「中国語の単語や文法への変換」という「ハードル」はないものの、「その音を表わす漢字を探すハードル」があります。加えて、読む場合には、いくら意味を排して表音文字として使われている文字だとはいっても、それぞれの漢字の持つ「もともとの意味」がチラついてしまいます。

 

 その点、平仮名で書かれた「ゆくりなくきみをおもへり」は、心の中で思ったことを、当時の日常会話の感覚のまま、シンブルに表現できています。音と平仮名の「対応・変換」という学習さえ乗り越えれば、ハードルのない心情表現・心情読解というやり取りが可能になるわけです。

 

 さらに、「我突然想起汝」を見てみると、「想起」という語に、未来・過去といった時間感覚が表現されていないことが分かります。中国語では、過去形・未来形といった動詞の変化がなく、時を表わす副詞などを添えるような方法で、時制を表わすことになります。例えば、「我登山」だけでは、登ったのか、登る予定なのか分かりません。時制を表現したければ、「昨天我登山」「明天我登山」のように、時を表わす表現を添えるか、「我登了山」「我欲登山」など別の動詞も添えて、表現するような構文となります。

 

 一方、和語には、過去系統に属する感覚でも「き・けり・つ・ぬ・たり・り」と微妙な助動詞の使い分けがあります。動詞を活用させ、様々な助動詞を添えることによって、過去に関する繊細なニュアンスを表現し分けています。しかし、漢文変換において、そのニュアンスをそのまま写しとることは、極めて困難、というか不可能でしょう(*2)。

 

 短く言えば、「母語で心に思ったことは、母語のまま、極力ハードルなく表記した方が、元の心情を表わしやすく、読む側も共感しやすい」という、当然と言えば、当然のことなのですが、独自の文字を持っていなかった時代には、この当然のことが、なかなか難しいことでもあったわけです。しかし、「平仮名」の発明によって、このシンブルな感情のやりとりが、革新的に可能になりました。

 

 帝の「そなたの物語は朕にまっすぐ語りかけてくる」「そなたの書く物語が心に染み入ってきた。誠に不思議なことであった」と言った言葉の地平として、「仮名」の力を考えても良いと思います。

 

 平安時代の「かな」の発明によって、人々は、心に思うことを、日常会話ほぼそのままに(*3)、ニュアンスを余すところなく、書き記すことができるようになりました。「かな」は日本語の歴史における「大発明」です。そのようにして書かれた平安時代の「仮名文学」は、その後の日本文学に絶大な影響を与えていくことになるのです。

       
 

 

 

第34回 「まひろの書いた物語」を読む藤原行成

 

 

   第34回 「まひろの書いた物語」を読む藤原斉信

 

 第33回「式部誕生」にて、まひろと帝で交わした「仮名で書かれた物語は、女・子供だけのものではない」「皆に読ませたい」というやり取りを受け、第34回「目覚め」では、まひろの書いた「仮名物語」は、宮中でも男子貴族たちを含め、大評判になっていました。

 

 今回の「目覚め」というタイトル、彰子中宮の帝に対する恋心の「目覚め」のイメージが主だったものでしょう。と当時に、「仮名物語」が日本語表現の歴史を革新し、人々の共感・評価を得ていくという、日本文学の「目覚め」の瞬間でもありました。

 

【*注】

*1 紀貫之の『土佐日記』の冒頭文は、「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」(男も書くという日記というものを、女の私も書いてみようと思って書くのだ)です。

*2 「平仮名の方が感情をそのまま表しやすく、漢字表現・漢語表現はそのニュアンスを写し取りにくい」というのは、もちろん日本語で感じた感情を表わす場合のことです。これらは、単純に「向き・不向き」だけの分析であって、この違いを、文字や、ひいては言語の「優劣」で考えてはなりません。例えば、私達の日々の感覚にしても、概念的な思考については漢字を使うことで、大変、きりっとイメージをまとめることが可能です。「民主主義」とか「自由平等」とか、そのような語は、漢字の力によって大変理解しやすいイメージとなります。この漢字の能力を使うと「来年度地区対抗運動会年齢別競技内容検討会議第一回」などと言った表現まで出来てしまいますね。こんなにめんどくさい意味なのに、瞬時にして分かったことと思います。このような表現・理解のやり取りは、和語や平仮名では不可能です。概念思考の表現や理解には、漢字・漢語は大変、向いていると言えます。古代中国で思想文化が発達したのにも、大きく関わることですね。

*3‐1 古文は「平安時代の話し言葉を基にして、書き言葉となったもの」と考えるのが基本です。とは言っても、話し言葉そのままに記したのでは、きちんとした書き言葉にはなりません。書き言葉への変換意識は、どの時代にも、どの言語にも、共通して常にあります。

*3‐2 平安時代の話し言葉を基に「書き言葉」が出来ますが、「書き言葉」は定着性が強いのに対し、「話し言葉」はどんどん変化していきます。せっかく「日常感覚に近く書き記せる」ようになっても、「書き言葉の定着性」「話し言葉の流動性」によって、次第に乖離が進み、やがて「書き言葉」は「日常語とはかけ離れた困難な学習対象」になってしまいます。この乖離が最も進んだのが、明治初期です。明治初期には、話し言葉はほぼ現在と近いものであったと思われますが、書き言葉は、学習対象としての古文(平安時代の話し言葉を基とした言語体系)のままでした。平安時代までの「話し言葉と正式な書き言葉が遠く乖離していた状況」と同じです。平安時代は「平仮名の発明」によって、この乖離をすり合わせたわけですが、明治時代には「言文一致体」という「話すように書く文体」の提唱運動によって、「話し言葉」と「書き言葉」の乖離が埋められていくことになります。