『夜と霧』 | 榊邦彦 OFFICIAL BLOG new

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けれど一方で、言葉や愛がまったく立ち向かうことのできない不安や困難も、
また、存在しないのではないか……僕は、今そう思っている。
『100万分の1の恋人』榊邦彦(新潮社)

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 本日は、中二・中三と現代文を担当した生徒達との最終回の授業でした。

 

 二学期期末考査で出題した小論文の論題に対して、僕なりの参考解答を届ける形で二年間の締めとしました。

 参考解答の中に、二年間で取り扱った教材や取り組みを散りばめつつ、考えてみた次第です。

 

論題:

「『夜と霧』(新版)訳者あとがき」を素材に、思ったこと、考えたことを論ぜよ。

参考解答:

 第二次世界大戦時のドイツ強制収容所での体験を描き、今、なお全世界で読み継がれているV・E・フランクルの『夜と霧』の原題は、「…trotzdem Ja zum Leben sagen」である。英訳すると「…still say yes to life anyway」。『夜と霧』の新版を訳した池田香代子は、「あとがき」で、「それでも人生にしかりと言う」と邦訳している。

 収容所での想像を絶する過酷な体験を経てもなお、なぜ、フランクルは人生に対して「 Ja (yes)」と言えるのだろう。なぜ、人生を「希望あるもの・生きるに値するもの」と肯定する心を持てるのだろう。マララ・ユスフザイさんは、自分を襲撃したタリバンを恨まないと言い、シンドラーは私財を投げうってユダヤ人達の命を救い、杉原千畝は職を賭してユダヤ人にビザを書き続けた。皆、通じる力を感じる。なぜ、そんなことができるのだろう。彼らを稀な精神力を持つ偉人達として、自分には届かないものと考えてしまうのは間違いだ。ミルグラム実験で、権威に屈服することなく、実験の継続を拒否した市民は35%もいる。なぜ、そのような力を持てるのだろう。それらの人々はなぜそのようなことが出来る人間になっていったのだろうか。

 僕は、その問いを考え続けた結果、一つの答えに辿りついた。それは、「良い他者に出会ってきたから」ではないだろうか。どんな場面でも自分を信頼し力を貸してくれた他者。無償の愛を捧げてくれた他者。自分が目標とし尊敬する他者。そのような他者と出会った経験が、人生を信頼し、他者に手を伸ばす源になるのではないか。良い他者との出会いがあれば、例えば「あの人なら、こう行動しただろう」と自分の勇気にすることもできる。直接、思い浮かべなくても、良い他者に恵まれた経験は、「人生を諦めない、人間を諦めない」姿勢として、その人の中で信念に育っていくはずだ。「良い他者との出会い」が、アイデンティティを、人生への姿勢を決めていく。

「他者との出会いがアイデンティティを決める」と言うと、「偶然」に左右され、受け身的なものに思われるかもしれない。しかし、この「偶然」は引き寄せることのできるものだ。まずは、他者を一人一人の存在として、その尊厳を重んじる姿勢を持つこと。集団として括ったり、尊厳を損なうようなレッテル越しの視線では、他者との出会いは見つけられない。また、他者に対する自己開示も鍵となる。臆病な自尊心と尊大な羞恥心は、自分を育むはずの良い出会いへの厚い障壁となるだろう。そして、何より大切なのは、まず自らが「他者に対して、良い他者になる」ということだ。その積み重ねが、自分も良い他者に恵まれる機会となって、巡り戻ってくるはずだ。

 人間を信頼し、困難な人生にも「yes」と告げられる、そういったアイデンティティは、「良い他者との出会い」によって培われる。そして、その機会は、他者に対する自らの姿勢によって恵まれる。勿論、人生を歩むのは自分自身だし、アイデンティティは決して他者から与えられるものではないが、しかし、人生を、アイデンティティを、決定していくのは、実は他者でもある。

 自分に力を与えてくれる、そのような「良い他者」はどこにいるか。すぐ隣の友人かもしれないし、一方、良い他者は「生きている人間」だけとも限らない。書物の中にも、詩の中にも、身近な歌のフレーズの中にも、「良い他者」はいる。そのような「良い他者」を発見し、摑み、自分のものにする。他者の苦しみに手を伸ばすための力、理不尽な権威にも同調圧力にも屈しない力、そして人生に「yes」と言うための力は、言葉や文学の中、様々な知識・教養の中に輝き潜んでいるものなのだと思う。

 そのような輝きとの出会いに気づき、確かなものにする。それが学ぶことの大きな意義である。