『光る君へ』にはまっています。
今年度、古文担当で、高2・高3と『大鏡』『枕草子』『源氏物語』と扱っていくことから、『光る君へ』は絶妙にシンクロしていて、毎週、生徒へ「今回の見どころ」といったレビューのメールを送信しています。
毎回、「そう来たか」と思う画像やセリフがあって、レビューのメールは長くなる一方なのですが、特に、昨日の第21回は素晴らしい回でした。
ポイントは、まひろとききょうとのやり取りです。
ききょうが「伊周様が帝に献上した紙に、帝は『史記』を書き写していらっしゃる。中宮様が『お前なら何を書くか』と私にお尋ねになったので、私は『枕でしょうか』とお答えした。その答えを喜んで下さった中宮様が、私に紙を下さった」と語っていました。これは『枕草子』の跋文(最終章)に書かれている内容に一致します。
その話をもとに、まひろはききょうに「中宮様のために、何かお書きになったらよいのではないか」と提案する訳ですが、「中関白家の没落のさなか、心痛む日々を送る定子中宮の心を癒やすため、『枕草子』は執筆された」というこの設定は絶妙です。
『枕草子』の中には、上記の「紙の下賜」については書かれていますが、「なぜ書いたか」ということについては、はっきりとは語られていません。ただ、
・執筆年代が、長徳2(995)年夏頃~長保3(1001)年頃であった。
・清少納言による題名は特についていない。(「枕草子」というのは後世の人からの呼び名です。)
・中関白家が没落していく時期に書かれているにも関わらず、没落の様子は一切語られず、日記的な章段では、定子の周囲が華やかであった時のことばかりが語られ、暗さがまったくない。
等々を考えると、「定子の心を癒やすため」という設定は、絶妙だと感じます。過去の研究では「定子サロンを絶賛した自己満足的な懐古的記録」といった指摘は多数ありますが、「定子の心を癒やすため」と、ここまで断言した立場はなかったように思います。
伊周・隆家の「花山院に弓矢をしかける」事件の起こったのは、長徳2(995)年正月です。そして、定子が亡くなったのは長保3(1001)年です。失意に沈んでいく定子のために書かれたというのは、年代的にもピタリと合います。定子が亡くなった後は、もはや書き続ける意味はなくなります。
題名が付いてないというのも頷けます。一人のために書いた「長大なお手紙」だったら、題名はむしろ要りません。執筆時期とシンクロするはずの、定子の不遇な様子について一切記されていないというのも、これが「自己満足的な懐古趣味記録」ではなく、「こんな素敵なことがありましたね」という「定子への精一杯の贈る言葉」なのかもしれません。
今回注目のまひろとききょうのやりとりの部分ですが、加えて驚いたのは『史記』からの連想の広がりです。「帝が『史記』なら、私は『枕』を書きます」という言葉の真意については、研究者の中でも様々な意見があり、その代表的なものが「史記➡敷➡枕」という類推です。この説をドラマでも採用していましたが、ドラマではさらに「史記➡四季」という連想を加えていました。「四季」ということで、あの有名な「春はあけぼの、夏は夜、秋は夕暮れ、冬は早朝」という第一段が生まれていったという大仕掛けです。
これは、いよいよ絶妙な設定でした。このような指摘も、寡聞にして聞いたことがありません。
中古文学研究の世界では、『枕草子』と『源氏物語』とを比較して、『枕草子』は「をかし」の文学、『源氏物語』は「あはれなり」の文学と語れることが多いですが、しかし、知的感興の記された「をかしき」文章の根底に、「定子中宮の心を癒やすため」という切ない思いがあるとしたら、『枕草子』はなんとも「あはれなり」の文学でもあります。
『枕草子』には、少しふざけたような書きっぷりの章段もありますが、それも「定子にクスリと笑ってもらうため」と考えると、なんとも切ないギャグとも言えます。鼻につくような「自賛的筆致」も、「定子様、あのとき誉めて下さって有難うございました」という感謝の言葉と考えると、これもまた切ない。
古典というのは、読者の読み方や再評価、作品の再構築によって、上塗りされて出来上がっていくものだと思います。今回の『光る君へ』は、『枕草子』の読み方、新しい価値の創造につながっていく可能性を秘めた回かもしれません。