何を目指し、どこに向かうのか。

 

それは、漠然としているよりも、出来る限り具体的に思い描いた方がよいと思います。

 

目的地のビジョンが明確であればある程、そのために何をすればよいかが逆算出来る。

 

 

勿論、「自分は絶対こうなる!」と決めつけることが却って束縛になり、自らを窮屈にしてしまうことだってあるでしょう。

 

その目標に辿り着くまでに、目指しているところがなんだか違うな…と思ったなら、それに執着はしない。

 

いつだって方向転換出来るし、もしそこまでの道が回り道だったとしても、そこで目にした風景は、それからの道を歩む時の糧にもなると思います。

 

 

私は今、声優・ナレーターの事務所に所属して、基本的にはナレーターとして仕事をしていくことの模索を続けております。

 

人生を遡ってみても、小学生の時には国語だろうと理科だろうと社会だろうと、皆の前で教科書を音読して聴かせること、その内容を、自分で考えた表現方法で伝えるのが何よりも好きな子どもでした。

 

その本質は現在に至るまで全くもって変わっていないわけです。

 

 

今いる場所に辿り着くまでに、大きな転機は3回あったと思います。

 

具体的な将来のビジョンを全くイメージ出来ていなかった大学生活の中で出会った、声優雑誌のオーディション。

 

日本の古典的な芸能の持つ魅力を知り、そこから学べることを活かしていきたいと方向づけたこと。

 

韓国人女優の演技指導に圧倒され、稽古場近くに引っ越して、その主宰劇団を軸にした活動を始めたこと。

 

 

過去のことを振り返って、そのことに浸り過ぎると、先には進めないかもしれません。

 

けれど、時折振り返って思い出してみると、何もやってこなかった様に思えても、意外と色んな場所に足を運んでいて、その積み重ねで今に至っていることに気が付かされ、これからもまだ色々と出来そうな気がしてきます。

 

 

理想の未来として描いているビジョン、辿り着きたいと願う境地、叶えたい夢…

 

私がそれを端的に述べるのであれば、この様な言葉で表します。

 

『仕事としてのナレーションを成立させ、それを資本に、和の語感を伝える公演を実現する。』

 

 

初めていただいたナレーションの仕事は、企業の事業内容を説明する類のもので、収録を終えてブースから出て来た時に、クライアント様からの温かい拍手に迎えられたことは今でも印象に残っています。

 

その時に感じました。

 

企業系のナレーション案件は、その会社で働く人にとっては、その業務に対して誇りを持つことの出来る媒体になり得ると。

 

その期待に応えることが出来たなら、なんと嬉しいことでしょう。

 

その様な、誰かから求められたことを強く実感出来る仕事を資本とし、それを元に、自分発で伝えたいと思うことを惜しげもなく披露出来る活動に繋げることが出来たら、この上なく幸せなことでしょう。

 

 

「資本」と申し上げたことは、単純に必要資金であることのみならず、その経験によって磨かれた技術や、それを契機に拡がった人の輪なども幅広く含みます。

 

「和の語感」と称したことについてですが、日本語の言葉には、意味を伝えるのみならず、音そのもののもつ言霊が、聴き手の心に強く響くことがあると感じます。

 

特に古い時代の言葉に顕著に表れると思うのですが、平家物語の原文の言い回しや、比較的新しめなところで、宮沢賢治の詩における独特な表現方法など、聴いているだけでも気持ちよくなってきます。

 

そういう「和の語感」に溢れた舞台空間を自身の手で創り上げることが出来たら…などと夢に思い描くのです。

 

 

出来ればシンプルな朗読劇に限らず、身体表現や、思いもよらない様な要素を取り入れた、オリジナリティに満ちた演出で作りたい。

 

既存の作品を題材にするならば、宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」や菊池寛「恩讐の彼方に」をモチーフにした作品をやってみたい。

 

色々と想像を膨らませるほど、実現するには軍資金が必要となり、ナレーターとしてきっちりと収入を得ることがその実現に繋がると思えてきます。

 

 

そんな夢を語ってみたところで、実現出来るかどうかは分かりません。

 

けれど、出来ようが出来まいが、自分が進んでいる道の先にそういうものが見えていれば、そのためにやらなくてはならない事というのも具体的に分かってきます。

 

人に夢を語るなんて気恥ずかしいことではありますが、語ってしまった結果として出来る様になることだってあるでしょう。

 

 

そして、目指すべきところに一歩も近付いていないことを実感し、理想と現実とのギャップの残酷さに打ちひしがれる様なことがあったとしても、それでも思い描くことや語ることは自由です。