(14) 本多平八郎、物見の松

 

「歴史の研究には推理が必要である」

 

昭和33年に「三方原之戦」を書き、三方ケ原の戦いの研究に先鞭をつけた歴史学者の高柳光壽氏が巻末に記したことばです。

一次資料がほとんど遺されていない「一言坂の戦い」を描こうとする場合、僅かな伝承に基づき、ほとんどの部分を推理するしかありません。

 

(12)木原畷の戦いで、なぜ内藤信成偵察隊は太田川を渡って、危険な武田の大軍に近づいたのでしょうか。そして、なぜ、武田の警備兵は木原に侵入するまで気が付かなかったのか。

 

これに対して私が導きだした答えは、夜の出来事だったこと、そして侵入の目的は、夜襲を目的とした信玄本陣の位置を探る偵察行動だったとするものです。

これ以外に、あの無謀な行動を説明出来ません。

江戸時代に書かれた編纂書や「甲陽軍艦」に基づき、家康が浜松城を発ち、天竜川方面に向かった兵数を5000とし、3500は天竜川を渡らず西岸に後詰として待機させ、家康が天竜川を渡り見付の町へ進出した兵数を1500と推定しました。

 

さて、今回は、その時に三ケ野台における本多平八郎の動きを検証したいと思います。

高天神城付近に武田大軍現るの情報は、狼煙(のろし)によって数時間後には浜松城に届いたと考えられます。

一言坂にあった金比羅神社には狼煙台があり、浜松城から直接見ることが出来ました。

 

日付から逆算して、10月11日の浜松城内の軍議により、三ケ野台に本多平八郎勢300と、内藤信成の偵察隊を先行させ、密かに夜の天竜川を船で渡って三ケ野台に着いたのは11日深夜だと考えます。

 

三ケ野台の上にある平地

当時はここに古墳(円墳)があって、広場にはなっていませんでした。

周りの木は無く、大きな松の木が1本だけありました(本多平八郎物見の松)。

左に僅かに見えるのが大日堂です。

 

武田軍が押し寄せた三ケ野台の上り口(中央)

 

夜が明けた12日午後、信玄本隊が木原・西島に姿を現します。

平八郎は三ケ野台にある松の木に登って偵察します。

2万数千の武田軍の大軍が三ケ野川越しの袋井一帯に展開していましたが、信玄の本陣位置は遠くて見極めることが出来ません。

 

本多平八郎が眺めたであろう木原方面

手前の左から右へ流れているのが三ケ野川(太田川)

武田の大軍の大体の配置は、松の木からの偵察によって掴めたと思います。

 

 

奇襲をするためには信玄の本陣を特定しなければなりません。

そこで、地理に詳しい内藤信成選抜隊が12日の夜、夜陰に紛れて三ケ野川を渡って、木原付近まで侵入したとき、武田の警備兵に発見されて「木原畷の戦い」になった、大体こんな経緯だったと推定します。

信玄は直ちに「あれを残さず討ち取れ」との命令を出し、先陣として川向こうの西島に陣を構えていた馬場信春勢3000が一斉に三ケ野台に押し寄せます。

 

現在「鎌倉の道」として伝えられている上り道は、左上からの攻撃に晒されます。

当時は木がありませんでした。

道巾は一人が通れるほどであり、武田勢の多くは急伸な崖を這って登ったものと思います。

 

 

崖を這い上がってくる武田勢を迎え討って、見付の家康の撤退する時間を稼いだのが本多忠勝勢300です。

 

予め三ケ野川から集めて置いた拳大の石を思いきりの力で投げおろすと共に、這いあがってくる兵を槍で突き刺しました。

押し上げる馬場軍の猛攻により、無勢の本多隊は奮戦するものの、家康が撤退するために稼いだ時間はせいぜい1時間だったと思います。

 

守りは限界に達し、本多勢は見付の町まで、真っ直ぐな夜の道を一斉に撤退します。

 

「家康衆引きあぐる(撤退する)なり。甲州武田勢は食い止むる(阻止する)なり」

 

 

三ケ野台に設置されている当時を伝えるもの

古戦場を示す看板

 

「本多平八郎物見の松」

 

昭和の終わり頃まで、代替わりの松があったと聞いています。

現在は大きな松は失われていますが、画面中央左にある右に傾いている細い幹の松の木があります。

周りを見回しても、台地上に松の木がこれ1本だけであり、木原方面側に立っていますから、この松は明らかに先人が代替わりの「物見の松」として植えたものと考えられます。

しかし、それを伝える看板はありません。

 

平成になると磐田はジュビロ磐田などのスポーツで注目されるようになり、歴史は語られなくなりました。

当時の郷土史研究家は、年老いて情報発信をすることがなくなりました。

なぜ、ここに松が1本だけあるのか、知る人は少ないと思います。

 

2023年、NHK大河ドラマ「どうする家康」で徳川家康が注目されると思います。

残念ながら、広く知られていない「一言坂の戦い」が番組で採用されることはないと思いますが、現在は、放置されている磐田市の歴史財産を活かした町興しが出来たらと思います。

 

そのために、著書「一言坂の戦い」の出版を目指しています。