「怒りは本人に言うべきだ問題」の補足。 | 占星術小説家@酒井日香の占い死ね死ねブログ

怒りは、怒らせた本人に

必ず伝えるべきだ





という記事を先日、書きました☆

↓    ↓    ↓

「悪い言葉を言ったら幸せになれない」は、あたしは違うと思う。

http://ameblo.jp/sakainichika/entry-12053245192.html



「怒りは、本人にぶつけない限り永久に浄化されません」

http://ameblo.jp/sakainichika/entry-12053871880.html








そうしたら、やっぱり怒り自体を持つことが

悪いのだから本人に言わなくても、浄化の

儀式とかスピワークなどをして解消しましょう

的なご意見もあったりして。。。






そもそもスピリチュアルをやっておいて

批判は受けつけない、というのはおかしい

話である。








チベット仏教を見てごらんなさい。






ラマ僧は出家して、朝から晩まで僧院で

何をするかと言えば、他の僧侶と毎日

批判・ディベート合戦をして理論を磨き、

説法の修行をしているのだよ(汗)。






ミャンマーでも、タイでも、日本の新仏教でも

キリスト教でもイスラームでもなんでも、そもそも

宗教というものは







「折伏(しゃくぶく)」








というディベート(批判)合戦のおかげで

理論が磨き抜かれてきたのだ☆








仏教もキリスト教も







「言葉による批判」







は一切否定していない。







むしろ徹底的にわかりあえるまで語り合うこと、

それこそが神仏の御心に叶うことなのである。







宗教が否定しているのは







「言葉による討論・批判」







ではなく






「対話しようという努力を

せずにいきなり無視したり、

実力に訴えること」







を批判しているのだ。







そこをはき違えてうっすら寒いスピワークで、

本人に怒りも疑問もくやしさもぶつけないまま







「許しましょう、赦しましょう」







みたいなことを言うスピの人はハッキリ言って

宗教学がまるでわかっていない。







勇気がないから問題から逃げてるだけだ。







そんなんでキモチなど救われないし

なんの解決にもならない。







自分を救うのは相手と直接戦う

勇気だけである。







大天使ミカエルでもマザーテレサでもない。







そして自分のアタマと言葉で考えればいい。







牧師さんや神父さん、神主や僧侶と

討論すればいい。







真摯に、道を求めて問いかけてくる人を

無視したり、追い返したり、討論自体を

無意味と考えて逃げるような人は神や

仏に仕えている人ではないのだ。







必ずみんな喜んで教えてくれる。







そういう意味で宗教の人は案外

懐が深いのだ。。。。






宗教こそスピリチュアルの根本であり、

宗教の手法の二番煎じ、三番煎じみたいな

ことをやっているのがスピワークなのだから、

宗教のスタイルから学ばないのもなんだか変だ。







天台で学んだ法然上人が、文字も読めない、

差別され、嫌われ、打ち捨てられた人々を

救いたい一心で浄土教を広める決心を

したとき、






「選択本願念仏集」






という著書を著した。








法然は浄土教・念仏の教えを広める前に、

さまざまな名僧、高僧の元へ行き、自分の

考えが間違えてはいないか、仏教の教えから

大きく離れはしないかと、自ら批判を受ける

旅に出たのである。









そこでさまざまな問答がなされた。






法然をもっとも手厳しく批判したのは華厳宗

の明恵上人だ。







なんと、法然の著書






「選択本願念仏集」







をボッコボコに批判するために、わざわざ







「摧邪輪(ざいじゃりん)」






という本まで書いてしまった。







文字を読んでニュアンスが伝わると思うが、

文字通り、法然の教えはよこしまで、仏法

を貶める悪魔のようなものだ、というタイトル

の本なのである。。。。(^_^;)





でも、それはお互いの、真実の教えを

広めたい熱意があればこそ。








法然もそれはわかっていたはず。







お互いの心からの発露が批判のベースに

ありさえすれば、それは何ら間違えたことではない。







さらに時代が下ると法然の弟子の

親鸞VS日蓮のバッシング大合戦である。







江戸時代には朱子学・陽明学に対抗

するべく日本の国学復興運動が起こり、

古神道を復古させようとしたことがのちの

勤王討幕運動に発展した。








時代はつねに思想と思想のぶつかり合いで

動いていく。







人を批判することはむしろ互いを磨き合う

こと、研磨すること。別に悪ではないのだ。







それをせずにいきなり切り殺したり、

無視したり、冷たくイジワルな心で

やり返したら悪なのだ。






あらゆる問題の根っこはそう考えると以外と

シンプルなのである。








「話したってあの連中

(人)はわからない」






と、最初からジャッジしてバッサリ切り捨てる

からこの世から争いがなくならないのである。







ところで日本には大昔から







「人事を尽くして

天命を待つ」






ということわざがある。







人事とは・・・・・・。







そう。自分がやれる範囲のことですよね。 ( ´艸`)








誰かから何か、ものすごい傷つくことを言われた。








腹が立って仕方がない。







そういうときに








「この怒りを解消させるスピリチュアル

ワークをやりましょう」






なんていうのはまったくもって

人事を尽くしたとは言えない。








人事を尽くした、と、心から思えて初めて、

神様へ祈ったり瞑想したり言葉がけワーク

なんかがようやく意味を持つのだ。






自分を怒らせ、傷つけた人間とまずは面と向かって

やりあい、怒りをぶつけ、話し合う努力を最大限

して、警察にも弁護士にもSNSにも相談して、

行動としてやりつくしたあとに







「天命を待つ祈りをする」







のなら、話はわかる。








でも、それを否定して変な言葉がけワーク

しましょう、赦しましょう、怒りを流しましょう

なんていうエセスピリチュアルの人の変な

提案は単なる怠慢だ。







努力の 「ど」 の字も無い。








それで済むならハッキリいってラクだ。







そんなに世界が甘いわけはない。








やはり言いたいことがあるなら本人に

正々堂々と、この世の法や良心とも

照らして精一杯戦ったり、議論したりする

よう努力を払うべきなのだ。







その上でどうしても相手が逃げた、とか、

相手が死んでしまったとか、やんごとない

状況で苦しくてたまらなくなったときにようやく






「神様!! 助けてください!!」







が通じるのである。。。







だから不満はどんな形でもいい。







必ず本人に言いなさい。







そこから逃げる手段のために変なスピや

占いに逃げてはいけない。







そうして、悪戦苦闘して真摯に向き合い、

対話の努力をして、やり尽くしてから

神様は実は側にいたのだとわかる。







だから







「戦え!! やり尽くせ!!」







と教えないスピってなんだか変だ。







そして本当に輪廻やたましいや死後存続

を信じているのなら、悲惨な死や殺人さえも

本来は肯定しなければおかしい。






あたしがスピの人たちにしばしば怒りを

禁じ得ないのは、自分がさんざ、死後だの

来世だの語るくせに、人が悲惨に向かって

突き進みたいと思っている状況に寄り添おう

とはせずに、それを断罪して、不幸だと決めつけて

差別して、自分のほうこそ物事にいい・悪いの

レッテルを貼って誰よりも人を差別しているからだ。







人にはどうしても、悲惨に向かって突き進ま

ざるを得ないことだってある。





そういうとき、それを止めさせようとするスピの

人はハッキリいってあたしは好きくない。






もう、業としかいいようのない、そうするしか

生きられない状況の人に







「あなたのそれは間違えている」






と偉そうに説教するからカウンセラーだの

スピだのがキライなのだ(汗)。






むしろ、それはそれとしてなんとか伴走

してやって、死にざまを見届けるぐらいの

覚悟をしてくれる癒し手がもしいるのなら、

それは値千金、どんなものよりも神々しい。






あたしはそう思う。







これは医療にも言える。






直すことだけが医療ではないはずだ。







もう、死や破滅に向かって突き進むしかない

人に寄り添い、その破滅をまっとうできる

よう精一杯サポートすることが愛、という

場合だって多々あるのだ。







だが、それをやる資格があるのは、1時間いくらで

ビジネスで売りかいするようなうっすら寒い関係

ではなく、親友であり、家族である関係だけでは

ないだろうか。






だから、あたしは言うのだ。






カウンセラーだの占い師だの、スピりチュアリスト

だのは決して職業ではないし、生半可な覚悟では

できないし、テレビに出たがったりちやほらされて

いい気になるためにやるようなものでもないと。







人に説教するより、自らの生き様で示せと。







普通の、精いっぱいの仕事や子育てで、しっかり

生き様を見せることが、何よりのスピリチュアル

メッセージではないのだろうか。





あたしは、そんな風に思う。





ペタしてね

読者登録してね