「やまと教」ひろさちや 著 その② | 占星術小説家@酒井日香の占い死ね死ねブログ

(その①から続き)


穏やかで平凡なココロのときの人間というのは、案外能力を
発揮できないんです。


芸術家や学者にはしばしば、


「大きな欠落」


が必要であるといわれますが、そういう、心のとてつもない
パワーこそが神がかりの源なんだと、やまと教では考えて
いるんです。


何もかもに恵まれているとき、人にはそういう、神がかりの源となる


「大きな欠落」


は生まれません。だから、私利私欲に走り、大胆なことが
できなくなってくるのですが、それはやまと教では、


「ケガレ」


と見なされるのです。良くない方向にエネルギーが転じていく。


だから、エネルギーの活性化が無くなる「ケガレ」の状態に
なったら、やまと民族はお祭りをして、一心不乱に神輿を
担ぎ、大騒ぎして再び


「神がかり(ハレ)」


になる必要がある。


お着物だってそうですね。お正月や成人式に着る盛装を


「晴れ着」


といいますが、時々そういう、非日常を逸脱する着物を
着て、お祭りをすることで、エネルギーを活性化させるのです。


だから、


「ハレ」


の生活が続いてしまうと、やがて人間の生命は限界に近づいていく。

年中お祭りなのはたまりませんよね。やっぱり、退屈で平凡で、陰鬱な


「ケガレ」


があるからこそ、


「ハレ」


の日が嬉しいんです。


「ハレ」


があったら必ず


「ケガレ」


がセットでついてくる。幸福があれば不幸も必ず一緒に訪れる。

それが本来の、日本民族の考え方なのです。


「ハレ」


は、パワーが要るのです。


「ケガレ」



「ハレ」


のバランスこそ、日本人の生活の核心なんだと本書は説明しています。


神道の神々とは本来、そのようにお付き合いするべきで、
人間にも相応のパワーを要求する神々なのです。決して


「祈れば願いを叶えてくれる」


ような、都合のいい存在ではありません。


だから、女性誌が煽るようなパワースポット神社参りなどを
安直にすることは、かえって運勢を悪くさせるんです。


結婚だってそうでしょう。


魂が喪失するような痛い失恋をしたあとで、やっと結婚相手に
めぐり合えたというケースは、枚挙にいとまがありません。


それは、失恋をして、激しいココロの


「大きな欠落」


を体験したからこそ、その人のココロの神様が
発動して大きな縁を招いてくれたんです。


恋に失敗したくない、傷つきたくないから、最初からステキな
人と出会いたいと思って神社へ行く人は、


「永遠にケガレ」


の状態から抜けられないんです。したがって伴侶と出会える
ことはまず無いです。


「自分が大きく傷ついてもいい。どうしてもこれだけは手に入れたい」


と、痛ましいくらいに、たましいの底から思ったときこそ、
本当の神がかりになれるチャンスなんですね。


だから、神社の神々は


「棚からボタモチ」


をくれる神様じゃないんです。


ココロが大きく平凡から離れて、穏やかでないときに
舞い降りてきて、集中力を養ってくれたりする。


そういう、超自然的な力の働きなんですね。


それが、日本人が信じ続け、信頼し続けてきた


「やまと教」


の神々の正体だと。


これを読むまで、私は神社が正直、嫌いでした


神社に行くと、人間の自分勝手な欲望が渦を巻いている
感じがして、気分が悪くなることがあるのです。


でも、本当の神社の神々は、やっぱりそんな存在では
なかったのですね。


アンアンのパワースポット特集にあるような、


「開運・ハッピー神社巡り」


なんていうのは、本当の神道の神々を知らない人が、
無知でやっていることなのだと、この本で改めて知りました。


ひろさちやさん曰く、実は、


「祟りを恐れてお祓いする人ほど、幽霊に取り付かれる」


のだそうです。


お祓いをする、ということは、その時点で


「霊を思いっきり気にしている」


ということなのです。


そして、お祓いをしたことで、お祓いが逆に記憶に残り、


「お祓いしたのだ」


という思いになって、余計に霊を意識させてしまう。


それと同様に、


「自分はぜったいに成功してやるのだ」


と言い聞かせることは、


「自分は成功していないサエない人間だ」


と、同時に言い聞かせていることと同じなんですね。


すでに意識に、負け犬根性がこびりついている。


本当に成功している人は、成功してやる!などと言い聞かせたり
は絶対にしないのです。


たとえばここに、例の一つとして


「絶対に歌手になってやる!」


ということをしばしば口にする人がいたとします。


するとその人は、同時に、


「いつまでたっても歌手になれない自分」


を、認めていることになるんです。


「ぜったい○○になるぞ!」


と、自分に言い聞かせている状態のとき、人は同時に、


「未だに○○になれていない自分」


も、強く強く、意識するんです。


だから、自己暗示をかけるクセがある人に、


「自分は成功していて、幸せだ」


と、ココロから思える人間はいないのです。


自己暗示はやめなさい、願いを口に出すのはやめなさいと、
わしはお節介にも人様によく申し上げるんですが、それは
そういう、


「言霊の力」


を、知識として理解しているからです。


だから、そういう思考回路の人は、生涯自分のなりたい
生き方になれません。


「ハレ(神がかり)」


の状態になれないのです。


あなたがたとえば歌手になりたいと思うのなら、

もうすでに今、このときに、


「自分は歌手である」


と、堂々と他人に言えないようではアウトなんです。


そこの意識改革から行わないと、開運なんてあり得ないんです。


やれ、ストリートで歌うのはイヤだとか、見出されてデビュー
するのでなきゃイヤだと思う人は、夢なんかみたらいけないんです。


とにかくやらずにはいられない。


カネも地位も名声も関係ない。


そういう


「ハレ(神がかり)」


になれて始めて、本当に開運するんです。状況にこだわっているのは、


「ケガレ」


の状態です。ハレ(神がかり)はそうではなくて、


「どんなに惨めで、みずぼらしく、罵られ、傷つけられ
ようとも、それをやらずにはいられない」


状態なんですね。


何かになりたいと願う人はぜひ、そこのところを忘れないでください。


そして、自分のなりたかった○○には手が届かなかったとしても、
それを怨んではいけないんです。


人間が考えるものなんか、小さい。


あなたが思い描く、


「自分のこうあるべき姿」


なんて、神様の目からみたらちっとも幸せではないかも知れない。


その道ではないほうが、幸せだと神様はご存知だから、
あなたの願いとは違う方向の運をもたらす。


神様、超自然的な不思議なパワー、真実の開運とは、そういうことなんです。


自分の考えや気持ちに固執するひとは、幸せが用意されていても
眼が開かれていないので、それがわからない。


一部の新興宗教で言うように、自分に自己暗示をかけたり、言い聞かせたり、
潜在意識に刷り込むんだというような考え方は、神様の
正しいあり方と矛盾します。


本当のスーパーマン的神がかりとは


「意識していない」


状態でしか、起こり得ないんです。


そして


「意識していない」


状態にまでココロを昇華させるためには、大きなショックを
体験したり、洒落にならない貧乏を体験したり、激しく罵られたり
傷つけられたりという


「欠落」


が無いと、ダメなんです。


そして、その欠落を楽しめる強さが、そこに備わっていなければなりません。


欠落を欠落として感じるだけの人は、


「ケガレ」


ています。


欠落を欠落のまま置いておくだけでは、先ほども述べた


「自己暗示」


と同じなんです。自家中毒に陥るだけ。


神様に愛されるには、欠落が生じたら、自らそれを笑い飛ばして、
プラスに転じられるココロのしなやかさが必須です。


欠落を欠落とは感じないで、むしろそれを積極的にパワーに転化し、


「ハレ」


の状態を自分で作り出せる強さを持った者こそ、神に愛される人なんです。


カネに恵まれていてココロもハッピーで、自慢できて
晴れがましいという状態を望んで神に祈るのは、その
時点で間違っています。


合格させてください、選ばれるよう計らってくださいと、
自分の都合よく物事が運ぶように祈る人は、すでにカミに
見放されているんです。


カネも地位も名誉も、命ですら、失って構わない。


だから、これだけはどうか、やり遂げさせてくださいと、明るく心底
願ったときこそ、日本の神々は答えてくださるし、仮に願いが
叶わなかったとしても、別の道を用意してくれるんですね。


だから、不幸を恐れ、自分の幸福について、いつも占いに問いかけたり、
開運神社めぐりをしたり、おまじないをする人は、間違いなく運が悪い。


人を許せない性格の人間は、誰からも相手にされなくなる。


災難に会ったときほど、その人のココロが試されるのです。


「やまと教」


は、神様と調和し、調和しながら神の力を利用して、
自分を見つめる宗教なのだと改めて知りました。


なかなか魅力的な世界観だと思います。


大変に興味深い本でした。


神道は、実はこんなに、素晴らしい教えだったのですね。




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