素晴らしい資料が現存するのですから,是非積極的な活用を進めていきたいものですね(๑˃̵ᴗ˂̵)

 僕の卒業した小学校は水戸藩の藩校「弘道館」のお隣に位置し,その校歌にも弘道館とそれを囲む梅林が「芳しき・・・弘道館の梅林」と登場します。2月下旬から3月に掛けて清掃活動で窓を開けると歌詞のとおり芳しい梅の香りが馥郁と漂ってくる,そんな所で学び育ちました。校外活動といえばまずは弘道館に出掛けて行われたものです。無論,座学においても弘道館とはどのような学校であったのかと,その弘道館を設立した第9代水戸藩主・徳川斉昭という人がどれほど英明な領主であったかも徹底的に教えられました。当時はテレビの時代劇で「水戸黄門」が全国的にも有名でしたし,無論僕たちも「黄門さまのお膝元」ということは常々意識しておりましたが,ドラマにおいは全国を旅していてあまり水戸には帰ってこない黄門様(第2代藩主・徳川光圀公)よりも,江戸定府の歴代水戸藩主の中では例外的に長く水戸にあって藩政を司った後に水戸の地で永遠の眠りに就き,今日の水戸市やその近郊にも大きな足跡を今に残している徳川斉昭公のほうに強い親しみや敬愛を感じていたものです。斉昭公こそは僕たちにとって偉大な郷土の先人であり英雄でもありました。それが特に著しかった僕は「弘道館が場所を移して,私立中学校として今も続いている」という事実を知るに至り「何としても自分も弘道館で学びたいのだ」と両親に強く訴え柄にも無く一生懸命勉強をして,家に近い公立中学校ではなく家から遠いそちらの私学に進学してしまったほどです。そちらの中学では現在では弘道館との繋がりはあまり強調されておりませんでしたが,それでも「弘道の歴史に映えて咲き香る万朶の桜」という校歌の一節に触れ「自分は徳川斉昭公の設立した学校の生徒になれたのだ」という強い喜びを感じたものでした。

 その徳川斉昭は文化全般に精通した人で数多くの和歌や漢詩を詠んだことは有名ですが,その他に手を動かして物を作ることをも好んだようです。弘道館に今も残されている「学生警鐘」という鐘をデザインしたり「農人形」という農民の姿の銅像を自ら鋳造したりという話が伝わっています。斉昭の息子で江戸幕府最後の将軍になった慶喜も写真や油絵を趣味にしていましたが,或いは手先を動かし物を作ることを好んだのは父親譲りだったのかもしれませんね。そしてその斉昭の物作りの趣味は料理にも及んだのだ,という話も聞いたことがあります。日記にも「米飯の美味しい炊き方」などを記していて,正室(慶喜の母でもあります)の登美宮吉子女王と一緒に野外で炊爨を行った記録も残されています。因みに吉子女王はその名のとおり皇族(有栖川宮織仁親王の娘)ですがその出自からは少々意外なことにアウトドア派であったようで乗馬や長刀・釣りなどを好み,屋敷の庭に蛇が現れた際には自ら素手で捉えたなどという話も伝わっています。斉昭と吉子とは非常に仲睦まじかったそうですから,キャンプ感覚で夫婦楽しく屋外での食事作りに励んでいたのかもしれませんね。
 しかし,斉昭が数多くのレシピを書き残していたという話は,僕にとって全くの初耳でした。彼は「食菜録」という書物を記し,その中には何と300種類ものレシピが記載されているのだとか。水戸藩主の食べた料理というと徳川光圀(水戸黄門)の側近が書き残したものを再現した「黄門料理」が有名でありこれが現在でも水戸の名物になっていますが,光圀は自分でレシピを書き残したわけではありません。藩主自らこれほど膨大なレシピを書き残した理由について荒木雅也・茨城大学人文社会科学部教授は「(斉昭は)当時の医学教育に関心が高く、食と健康を結びつけて力を入れていたのではないか」と推測しておられます。たしかにこれは大いにあり得る話で,斉昭は医学教育や医療行政という点でも大きな足跡を残した人物でもあります。弘道館の設立時には,当時名医として名高かった本間玄調(華岡青洲の弟子でもあります)という人物を教授として召し抱え,医学教育に従事させた上に既に藩内に複数存在した藩立医学校の充実拡充にも当たらせました。更にはその本間玄調に藩内の全希望者への全額藩費負担での種痘実施を統括させ,これを受けた者は全部で13,400人にも及んだとされています。そうした医療への深い関心もまた「食菜録」執筆の動機の一つであったことは恐らく間違い無いでしょう。しかし僕は「斉昭が料理好きのグルメだったから」という理由がそれ以上に大きな動機だったのではないかと思っています。彼は江戸時代には極めて珍しいことに牛肉を好み,藩内に牧場を作らせて牛乳をも愛飲しているようなハイカラな人物でもありました。余談ながら息子の慶喜は「豚一様(豚肉好きの一橋家当主)」と綽名されたほどの豚肉好きで,食の嗜好もまた父親譲りだったのではないかと思われてなりません。

 斉昭の書き残したレシピについては「鴨の天麩羅」「小鳥だんご」「鮎の刺身」「鰹の辛子漬け」「蛤はんぺん」「蒸し平目」などの鳥料理や魚料理に加え「饂飩」「くづそふめん(葛素麺?)」「味噌納豆」「かすてらぼうろ」など主食や副菜・菓子に至るまで実に幅広く,彼の食に対する関心の深さや幅広さが判ります。そして現代を生きる我々としては,これほどの幅広いレシピが残されているのですからそれを元に「第二の黄門料理」としてこれらを再現し水戸の名物として売り出すことも当然視野に入って来るでしょう。無論,水戸藩の後裔である茨城県は大農業県でもありますから再現の際には郷土の物産を盛んに活用すべきなのも当然の話です。一方,それとは矛盾するようですが現代の茨城県では入手出来ない素材を用いる食品がもしあったとしても,それをも名物化することを躊躇うべきではありません。「地元では獲れない食材であっても,それを活用した名物はあって良い」というのは,山梨県の「煮貝」という前例が既に存在します。内陸の山梨県で煮貝の材料である鮑やトコブシが獲れるはずもありませんが「それでも古くから醤油漬けの貝が食されていた」という歴史的経緯があるので,名物として売り込むことを問題視する向きはありません。それと同様に「水戸藩では水戸近郊では獲れない食材をも使用して食品が作られていた」という歴史的経緯がある以上,再現や名物化を躊躇う理由は無いでしょう。

 昔から「茨城県には良いものが沢山あるのに,県民のPRが下手で損をしている」ということが何度も指摘されていました。或いは徳川斉昭公は領民のそうした性質を見抜き,その弱点を克服するために後世に「食菜録」という素晴らしい遺産を残して下さったのかもしれません。光圀公の「黄門料理」と同様に。
 近い将来「食菜録」の活用を進めることで新たな名物が生まれ茨城県に人々からの関心が向くようになれば,きっと斉昭公は殊の外お喜びになることでしょう。僕はそのように信じて疑いません。



斉昭残したレシピ再現 料理本「食菜録」 茨城大教授ら 300種、HPで発信

https://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=16930573824334