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昨年元宙組の緒月遠麻さんが出演する舞台を観劇しました。『デスティニー -アドラメレクの鏡-』という公演で場所は池袋のサンシャイン劇場でした。

登録しているサイドからお得チケットのお知らせがきて、そのキャストに元宙組の緒月遠麻さんの名前がありこの機会にぜひ行ってみたいと思ったのです。

 

緒月遠麻さん♡

私が宝塚ファンになったころ緒月遠麻さんは既にタッチの差で退団された後だったのですが、雪組の朝海ひかるさん時代の映像をよく観ていたのでその存在は存じ上げていました。

 

そして退団されてからですが、

早霧せいなさんと共演した『ニジンスキー-奇跡の舞神-(’11年雪組・バウ)』

凰稀かなめさんと共演した『銀河英雄伝説@TAKARAZUKA(’12年宙組・宝塚)』

朝夏まなとさんと共演した『翼ある人びと-ブラームスとクララ・シューマン-(’14年宙組・ドラマシティ)』を拝見しました。

 

なんていうのでしょうか。どのお役も温かみと包容力を感じるのですよね。

 

特に上田久美子さん演出の『翼ある人』。才能が枯渇し精神を病んでいくロベルト・シューマンを演じられたのですが、伶美うららさん演じるクララと子供たちを愛し、朝夏まなとさん演じるブラームスが妻に想いを寄せていると知りながらも愛弟子の苦悩を思いやる愛情あふれる人でした。

そんな恩師を裏切ることなどできない‥緒月遠麻さんがシューマンを演じられたからこそブラームスの苦しさがより伝わってきたと思います。

 

また緒月遠麻さんのSNSを退団直後のブログから現在のInstagramに至るまでずっと拝見させていただいているので、飄々としていてそれでいて温かみを感じるお人柄に惹かれていました。

 

そして何より退団して10年以上もずっと舞台の第一線で活躍されていらっしゃる。トップスター経験者であってもOGになると厳しい現状のなかそれは凄いことです。ぜひ一度実際に舞台に立つお姿を見てみたいと願っていたのです。

 

緒月遠麻さん♡♡

この公演で何と緒月さんは“将軍”役でした。Instagramによると退団後初の男役だったそうです。口髭も甲冑も違和感なく、むしろ他の俳優さんより身に付いているいうか堂に入ってました。将軍の威厳がありました。長年の研鑽し磨き上げた男役としてのスキルはたとえ退団し何年経とうとも普遍なのだと思いました。

 

そして舞台をとおして伝わる温かみと包容力。素人目にも他の出演者とは演技力が違うのが分かりました。今度はぜひ女優さんとしてお芝居をする緒月遠麻さんを観に行きたいと思っています。

 

ガラガラ公演

この公演が記憶に残った理由がもう一つあります。とても客入りが悪い公演だったのです。S席が半額に近い値引チケットにも関わらず宝塚だったらSS席のすぐ後ろって感じの良席で、なぜなら私の席から後ろの席は人もまばら‥つまりガラガラだったです。

 

2階席はもっとガラガラだったらしく、主催者(兼出演者)らしき人が公演前に2階席に向かって「何人いますか〜」と声をかけていました。値引チケット購入の手前ちょっと心苦しかったです。

 

ガラガラの理由

良作といえどチケットの売れ行きに苦心する公演は多いですが、この公演については不入の原因が分かりました。需要と供給のバランスが取れていませんでした。

 

レーザー光線を使ったスペクタルなアクションシーンが多い公演なので、主演と敵対する2番手役は『仮面ライダー』に出演するような若くて爽やかなイケメン、そして可愛いヒロインを起用して、若い層をターゲットにすべきだった。『キングダム』もそうですがエンターテイメント性の高い作品はビジュアル大切ですよね。

 

にも関わらず主演が50代の元アイドルの“おじさん”で、いくら認知度があるとはいえ昔のアイドルなので背も低く「なぜこの人がヒーロー役?」と思いました。

 

主催者(兼出演者)が終演後に語ったところによると、長年の盟友で一緒に舞台をやれて嬉しいとのこと。それって自己満足では‥だったらこの元アイドルを見たいと思う年代の観客に刺さるテーマの公演をすれば良かったのにと思いました。

 

例え客入りが悪くても出演者は全力で演じなければならない。気の毒でした。

国際フォーラムで鳳月杏さん主演の『侍タイムスリッパー』を観劇しました。

山口馬木也さん主演の映画『侍タイムスリッパー』は昨年観た映画のなかで一番元気を貰えた映画でした。映画館でプログラムを売ってなくて、最初は一館のみ上映の自主制作映画だったことを知りました。評判が評判を呼び大ヒット映画になったのですね。

 

 

元々の映画の構成がとても良かったし、演出が小柳奈穂子さんだったので宝塚版も絶対面白い公演になるだろうとの確信はありました。そして予想以上でしたので記録に残したいと思います。

 

会津藩の場面

それは会津藩の場面を入れたことです。映画版では会津の歴史は語られていますが映像化はされていませんでした。

 

私が映画を観て、唯一疑問に思ったのは後半の真剣を使った殺陣シーンでした。映画のクライマックスとして固唾を呑む殺陣シーンを入れたのだろうと思ったのですが、間延びして長すぎる、むしろ蛇足だったのではと思ってしまったのです。

 

だってね。真剣での勝負ということはどちらが死ぬかもしれないということ。いくら幕末の決着をつけるためとはいえ今二人が生きているのは現代日本。映画はお蔵入りだろうしお世話になった撮影所の人たちにどれだけ迷惑をかけるか。勝手すぎると思ったのです。

 

宝塚版には会津藩のシーンがありました。記憶だと3場面。家老とその娘五月、そして白虎隊の少年たち。実際に場面として演じられたことによって敗戦の痛ましさがよりリアルに伝わってきました。その結果、故郷会津藩の歴史を知った新左衛門は過去に決着をつけない限り前に進めないのだろう。風見恭一郎との真剣での勝負は必然だったのだろうと納得することが出来ました。

 

演出の素晴らしさ

宝塚で映画や漫画を原作にした公演を行う場合、組子の出番を増やすため原作にないオリジナルのキャラクターを登場させることはよくあることです。小柳奈穂子さんはそれがとても上手い。けして原作のイメージを壊さずむしろプラスに働く。今回の作品もそうでした。

 

またそれだけではなく星組公演『阿修羅城の瞳』では、桜姫、安倍晴明、鶴屋南北だけを残して主役にあまり絡んでいなかった劇団⭐︎新幹線版の複数の登場人物をバッサリカットしていました。

きっと冷静にストーリーを評価し再構築し演出する能力がある方なのだと思います。

新宿ミラノ座で咲妃みゆさん主演の『クワイエットルームにようこそ』の千秋楽を観劇しました。

好奇心を大切に

千秋楽観劇というと熱烈ファン♡のようですが、実はこの公演の存在を知ったのはほんの数日前なんです。よく拝見させていただくブロガーさんが「面白かった」と観劇の感想を書かれていて、しかし絶賛でなく色々注釈付きでかえって好奇心をそそられました。

 

好奇心…年齢とともに、「これをやらねば!私がやらねば!」といった“使命感”を感じることが少なくなってくるので、今後生きる糧として“好奇心”を持つことを大切にしようと思っています。

 

東京に居ると、大人気公演(+宝塚)以外は直近でも定価もしくはそれ以下でチケットが手に入るのもありがたいことです。

 

感想はモヤモヤ

売れっ子ライターの主人公が仕事と交際相手とのストレスから睡眠薬の過剰摂取を起こし自殺危険者として精神病棟に隔離され、入院患者たちとの交流を通して自分を見つめ直す。重いテーマをポップなミュージカル仕立てで描くエンターテイメント…でした。

 

私は単純な人間なので、演出家がこの作品をとおして何を伝えたいのか、ヒロインが何を求めて生きているのか、その理由を知って安心したいんです。その視点で考えると都会に生きる女性たちの連携とか、時間に追われる現代へのアンチテーゼとかなのでしょうか。

 

でもこの作品はもっと自由でモヤモヤで結論などなくてよいのかも。自分の身に置き換えてもよいし、ファンタジーとして鑑賞してもよいし、この作品を通して観た人が好き勝手に自由に色々考えるそのきっかけになればそれで良い作品なのかもと思いました。でも自分の判断で傑作か駄作か定めらる作品のほうが観ていて楽ですね。

 

役者さんって凄い

毎日この作品に向き合っている役者さんて凄いと思いました。きっと歌や踊りといった技術力だけでなく感受性が豊かなんですよね。特に主役の佐倉明日香を演じた咲妃みゆさん。

 

他の入院患者役だったらね。髪の毛をチリチリにする役でも拒食症や過食症の役でも振り切ってむしろ楽しく演じられると思うのです。主役である明日香の目から見た自分を演じれば良いから。奇妙であればあるほど等身大の自分と違えば違うほど、非日常って感じで割り切って役作りに励める気がします。

 

でも明日香は自分自身を演じなければならない。私のように感受性が乏しく単純な人間は、自分が理解できない行動やセリフを自分の言葉として毎回演じるストレスに耐えられないかもと思いました。

 

 

映像で2017年宙組公演『神々の土地』~ロマノフたちの黄昏~を観ました。

もう何度見返しているでしょう。私は宝塚時代の上田久美子さんの作品で『神々の土地』が一番好きです。観るたびにストーリーも演出も素晴らしいと改めて感じます。

“イレーネ”なぜ?

この評価が変わることはないのですが、今回伶美うららさん演じるイリナの台詞で“なぜ?”と思う箇所があったので記録に残したいと思います。

 

それは冒頭の雪原の場面で朝夏まなとさん演じるドミトリーへの「ペトログラードに行きお姉様たちを守ってください」と言う台詞です。その言葉を聞いた時にね。「それってドミトリーに頼むよりあなたのほうが適任だったのではないの?」と思ってしまったのです。

 

皇后アレキサンドリアとイリナは共にドイツからロシアに嫁いできた実の姉妹。しかもイリナの夫は身を挺して皇帝を守ったロマノフの英雄。

 

聡明で心優しいイリナなら、皇帝一家に常に寄り添い皇后の話し相手となって皇后の孤独と哀しみを癒す存在になれたはず。そうすればアレキサンドリアも孤独につけ込まれてラスプーチンの言いなりになることもなかったのではないか。

 

皇帝の護衛のためペトログラードに呼び戻されたドミトリーに「前線にいるよりもっと重要な働きができる」と諭しますが、民衆の憎しみが皇帝一家に向っている状況下、イリナこそ野戦病院になどに行っている場合ではなかった気がします。

 

マリア皇太后主催の舞踏会での再会によって、叔母姪の関係でありながら皇女オリガとイリナは子どもの頃会ったきり、オリガはイリナの顔も忘れていた‥つまり没交渉に近い関係であったことが判明しました。

 

ドミトリーに語る「お姉様たちを守ってください」という切実な願いと温度差があり過ぎて、イレーネ何故?と思ってしまいました。

 

“イレーネ”が世界の中心

でね。そのなぜ?の理由が自分なりに分かった気がするのです。

それは‥伶美うららさん演じるイリナがあまりにも美し過ぎてイリナに感情移入し過ぎて、いつしか“イレーネ”中心に『神々の土地』が回り始めてしまった。本来『神々の土地』の主役はドミトリー、イリナはあくまでその想い人。主役に関わらない事項は省略されて当然なのに、イリナに関する矛盾を一つも許せなくなってしまった‥だからだと思っています。

 

やっぱり『神々の土地』は素晴らしい

もう何年も前の作品なのに見るたびに新たな感想が生まれてくる。やっぱり『神々の土地』は素晴らしい作品だと思います。

 

 

 

 

 

スタジオジブリ制作の『かぐや姫の物語』を映像で観ました。制作に8年の歳月を費やした高畑勲監督の最後の作品だそうです。シブリ作品だけあって映像が素晴らしかったです。

 

かぐや姫の犯した罪と罰って?

しかし『かぐや姫の物語』はどこか感情移入を拒む映画でした。私は主人公に感情移入して感動したいタイプの単純な人間なので、遠くから“手招き”だけされてあとは自分で考えなさいって突き離れたよう。正直あまり面白いとは思えなかったです。

 

なのでキャッチコピーの“かぐや姫の犯した罪と罰”が何なのか結局最後まで分からなかったのですが、唯一、かぐや姫が“ここに居たくない”と強く願ったのはなぜか。かぐや姫の哀しみだけは理解できた気がします。

 

かぐや姫の哀しみ

かぐや姫の哀しみは女に生まれたこと。そして女でありながら「獣や鳥、自然を愛し野山を自由に駆け巡る」ことを望んだことだと思います。希望にあふれて生まれてきたのに「こうあるべき」「こうあるのが自然」という社会のなかの固定観念に追い詰められ、遂に月に還えらざる得なくなった、そう思っています。

 

なぜなら、かぐや姫が“人魚姫”のように生きられたら、あるいは“姫”ではなく“皇子”として生まれたら、月に還らず幸せに暮らせ“メデタシ メデタシ”のエンディングを迎えられたと思うからです。

 

もし“人魚姫”だったら

人魚姫もかぐや姫同様、自ら望んで違う世界からやってきます。でも目的が違います。人魚姫の願いは人魚時代に出会った愛する王子と再会し結ばれること。しかしその愛が得られず、それでもなお王子の幸せを願い自らを犠牲にして泡となって消えていきます。

 

もしかぐや姫の最終目的が人魚姫のように“男”だったとしたら、帝という王子以上の存在に巡り合い愛されたのですから「やったー!月に還らずにすむわ。メデタシメデタシ」だったと思います。

 

しかしかぐや姫の願いはそうではなかった。しかも月の住人で人ならざるパワーを秘めているはずなのに、その能力は男を惹きつけること、あるいは今の状況から逃げるだすことにしか発揮できない。これじゃあ、かぐや姫を巡って男たちの争いが続くだけ。帝の寵愛を受けることが自分の幸せと感じられない以上、もうかぐや姫に月に還る以外の選択肢は無かったと思います。

 

もし“かぐや皇子”だったら

シンデレラにしても白雪姫にしても、おとぎ話のヒロインはステキな王子様と結ばれて幸せに暮らすところで終わります。それが女性の幸せのゴールなのです。玉の輿という言葉もあるのでも今の時代もそうなのかもしれません。だから翁もかぐや姫の幸せのため都に行かねばと思ったのでしょう。

 

源氏物語の紫の上を思い出します。子ども時代、雀を追って山里を自由に走り回っていたのに、美しいが故に源氏に見込まれて拉致同然に都に連れていかれた。そして源氏(つまり男)の理想の女性になるよう教育された。かぐや姫もそうだったと思います。

 

もし竹から生まれたのが男の子だったら‥。おそらく翁は自由に野山を駆け巡る“かぐや皇子”を逞しい、立派に成長したと肯定し、都など行かず得た金銀を皇子の能力を生かすために使ったことしょう。

 

そして人ならざるパワーを持つ皇子として人々から崇められる存在となり、遂には「その地を治める王となり愛する幼馴染と結ばれる。メデタシ メデタシ」‥そんな未来もあったと思います。

 

つまり竹から生まれたのが“姫”ではなく“皇子”だったら、かぐや姫が叶えられなかった願い全てを良しと認められるのです。当然、死にたい、逃げ出したいなどと嘆く必要もなく、もちろん月に還る必要もなく幸せに暮らせたと思います。

 

再びかぐや姫の犯した罪と罰って?

でもね。その考え方を突き詰めていくと、かぐや姫の罪は「女に生まれ、女でありながら自由を求めたこと」、罰は「そんな自由は許されないのだと思い知らされたこと」になってしまいます。つまりジェンダーの問題。確かに女性に選挙権が与えられたのがわずか70年前、長い日本の歴史を考えたらつい最近のことですから未だに男女格差は大きな社会問題です。

 

でもね。“これじゃない”感があるのです。感動の超大作にして観客動員数を増やしたいスタッフを押し切ってまで、高畑監督が拘りぬいて製作した映画の主題にしてはステレオタイプすぎる気がするからです。

 

おそらくもっと人間の本質をついた深い意味がある映画なのでしょう。でも私には残念ながら理解できなかった。だから面白いと感じられなかった‥そう思っています。

歌舞伎座で『壽 新春大歌舞伎』昼の部を鑑賞しました。定番のB席です。

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ニワカ“着物眼”

お正月ということで私が生息する2階席、3階席のロビーでも着物姿の方々を多くお見かけしました。
 
私は大昔に振袖を2回、浴衣を数回着たことがあるだけの全くの着物素人なのですが、あら不思議。行き交う皆さまのお姿を拝見しているうちに徐々に着物の良し悪しが分かってきたんです。

この感覚は‥
数年前宝塚雪組公演を観た時、群舞の中から大抜擢中の華世京さんを発見できた感覚に似ています。最初は何十人もいるタカラジェンヌさんの中から写真すら見たことのない新人を探すなんて無謀だと思ったのですが、目が慣れてくると分かってくるのですよね。たぶんあの子なんだろうなと。同じ衣装。同じ振り付け。条件が全て一緒だからこそ逆に優劣がハッキリ分かったのだと思います。

意外とカジュアル
そんなニワカ“着物眼”の私の感想は皆さん意外とカジュアルモードだったということ。
ウールや化繊ぽい着物も多かったし、着付けもビシってしてなくてちょっとヨレっとした感じ。メークも地味だし、髪型もアップにしている人が多かったけど後れ毛が目立ちちょっとやつれ感がありました。

最初はね。天下の歌舞伎座にしかもお正月に着物で観劇に行くなんて、一般人にとっては結婚式列席に匹敵する一大イベントのはず。なぜ、もっと気合いを入れないのだろうと不思議に思ったのです。

皆さん着物が好きなんだ
でも途中から気づきました。気合いの入れる方向が違うのだと。おそらく皆さん着付けを含めてぜんぶ自分で支度して歌舞伎座に来ている。そこに気合いを入れていらっしゃるのだと気づきました。

そりゃ〜自分で着付けるとなれば、柔らかく扱いやすい素材の帯や着物になるし、後ろに目がないのですからちょっとヨレってしまうのは当然です。メークだって着物に負けないよう華やかにと思っても、普段使っているメーク道具だけではおのずと限界があるし、髪をアップするといっても美容院で逆毛をたててスプレーでガッチリ固めて盛ってもらうようにはいきません。

でも自分で出来るって凄いことですよね。私は浴衣しか自分で着ることができませんが(今は浴衣も無理)、それでも1人で着られるまで手が怠くなるほど何度も何度も練習しました。ちゃんとした着物となったらその何十倍も時間と努力が必要なことは容易に想像できます。YouTubeの着付け動画を見ながら簡単にできるものではないのです。

皆さん、着物が好きなんだ。お正月に着物で歌舞伎座に行こう!とチケットを取り、11時の開演に間に合うよう朝から気合を入れて支度をする。本当に着物が好きな皆さんなのだと改めて思いました。

そして、桟敷席や特等席周辺には、着物の格式やルールについてウンチクがありかつそれを正しいと思って人に押し付けようとする人たち‥“着物警察”というらしいです‥がいる恐れがある。おそらくそんな煩わしい視線に晒されないよう2階席や3階席のチケットを取り、自由に着物姿を楽しんでいるのだろうと思いました。

プロとしての着物
終演後混み合う正面入り口付近に着物姿の女性が数人佇んでいたのですが、その中のお一人から目が離せなくなってしまいました。30歳前後の小柄で華奢で細面の楚々とした感じの方でした。

 

きっと普段だったら人混みに紛れて見つけられなかったと思いますが、ニワカ“着物眼”のセンサーがピピピと反応したのです。けして派手では無いけれど錦糸銀糸を使った見るからに高価そうな着物をすっきりと着こなし、髪もメークも上品で美しく‥なんて言ったら良いのでしょう、隙がない佇まいでした。

 

もしかしたら新橋あたりの芸者さんなのではと思ったのですが、周りの人たちの話し声から歌舞伎役者中村七之助さんの奥様だと分かりました。皇族の方が観劇に来ていてそのお見送りに出ていらしたようです。前職は京都の芸妓さんだそうなので着物についてはプロ中のプロですね。思わず見惚れてしまいました。

今はすっかり“着物眼”は消えてしまいましたが、偶然とはいえ趣味として着物を楽しむ皆さんと仕事として着物を着こなす方々と両方の着物姿を見ることができ、新春に相応しい良い経験ができたと思ってます。


 

2006年に制作された「落下の王国 』4Kデジタルリマスターを鑑賞しました。とても素敵な作品でしたが、実はそれに気づけたのは家に帰って来てからなのです。自力で楽しめなかった“反省”を込めての感想です。

 

鑑賞理由

まず『落下の王国』というタイトルに惹かれました。そして映像や衣装が美しく独創的らしい。数々の賞を獲ったらしい。DVDも廃盤になっていて何十年ぶりかの貴重な上映らしい。何より家から一番近い、だけど一度しか行ったことのないお洒落なミニシアターでの上映で、“お見逃しなく”感を強く感じ‥観てみたいと思いました。

 

ストーリーもね。傷ついた青年が少女に語り聞かせるおとぎ話。愛と勇気にあふれた心躍るファンタジーという感じで、なんだかディズニーっぽくて楽しそうって思ったのです。

 

〈あらすじ〉

舞台は1915年。映画の撮影中に橋から落ちて大怪我を負ったスタントマンのロイは、病室のベッドで絶望の淵にあり、自暴自棄になっていた。そんな彼は、木から落ちて腕を骨折し入院していた5歳の無垢な少女アレクサンドリアと出会う。

 

ロイは動けない自分の代わりに、アレクサンドリアに薬剤室から自殺用の薬を持ってこさせようと考え、彼女の気を引くために即興の冒険物語を語り始める。それは、愛する者や誇りを失い、深い闇に沈んだ6人の勇者たちが力を合わせて悪に立ち向かう壮大な物語だった。ー映画.com:よりー

 

 

途中離脱寸前

しかしこの映画は手強かった。

青年ロイの自殺願望が深く、おとぎ話じゃなかった。絶望と打算がリアルだったです。また、勇者たちが悪に立ち向かう過程で拷問や処刑など残酷なシーンが多く、決してファンタジーではなかったです。

 

何とか最後まで観れたのはミニシアターの真ん中の座席で踏み切れなかっただけで、本当は中盤あたりで観ているのが辛くなり途中離脱寸前でした。

 

 

『落下の王国』の素晴らしさ

離脱寸前だった映画の一体何を語るのかとも思うのですが、家に帰って『落下の王国』の感想が掲載されたサイトを何気なく見ていたらね。さっき見た映画の場面が思い出され、あ〜そうだった、確かにそのとおり‥って何故か素直に共感できたのです。

 

“パンゴン湾”というところらしいのですが冒頭の紺碧の湖と突き抜けた青い空、そして荒涼な砂漠や豪華な宮殿、庭園。世界中をロケーションした壮大な景色が素晴らしかった。

 

衣装もまるで大昔にみたサントリーのウイスキーのcm、ランボーやガウディの世界のよう。赤、青、黄色、緑が色鮮やかで自然とのコントラストが美しかった。

 あ〜そうだった、本当に夢のように美しい映像だったと記憶が甦りました。

 

そしてストーリーもね。自殺する薬欲しさのためだけにアレクサンドリアに物語を聞かせていたロイが、少女の無垢な心に触れ、やがて全員殺されて終わりだったはずの物語の結末を再生に変えていく。

 

間違いなく愛と勇気のあふれる勇者の物語だったし、ロイ自身も再び生きようと思う、確かに魂の救済の物語だった。最初思ったとおりの素敵なファンタジー作品と思うことができました。

 

 

仕方がないけれど‥

人の感想を聞いてやっとその素晴らしさに気づくなんて他力本願にもほどがある。私って何が足りないのだろう?って考え気づきました。

 

不幸や暴力といったマイナスの感情に弱いだと。一度暴力や処刑シーンを見てしまうと、また同じようなシーンがでてくるのではと身構えてビクビクしてしまい、それ以外のことに目を向けられなくなってしまうようです。今回も端っこの席に座っていたら多分途中で退席してたと思います。

 

もちろん無理に最後まで観る必要はないのだけれど、ちょっと損している。多くの観客と同じように、『落下の王国』の素晴らしさを映画館で直に感じられなかったのは残念だった。反省を込めた感想です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Yahoo検索画面に表示される広告を消すために広告ブロックアプリ「280blocker」を購入しました。

 

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我慢の限界

Yahoo検索画面の広告、以前からジャマだなとずっと思っていました。

でも無料で機能を利用している以上ある程度は仕方がないと諦め、その都度、広告画面が開かないよう注意しながら“close”や“閉じる”ボタンを押す作業を地味に続けておりました。

 

しかしついに我慢の限界がきたのです。

 

広告が画面の半分以上を占める、勝手に動画が動き出す‥ストレスではありますがここまではなんとか諦められた。でもね。ここ最近、大きな広告が画面中央にドンと表示され、その広告を“×”にしない限り通常の画面が見えない仕様になってきたのです。しかもその広告が決まって気持ち悪い漫画の広告で、それがこちらの意思と関係なく否応なく毎回目には飛び込んでくるようになったのです。

 

これは“迷惑”というよりももはや“暴力”、何とか対応策を考えなければと切実に考えるようになりました。長年年貢の重圧に苦しみ続けた農民がついに我慢の限界を越えて“百姓一揆”を起こす‥大げさですけどそんな心境でした。

 

 

「280blocker」を選んだ理由と効果

“Yahoo 広告 気持ち悪い”で検索したところ、同じ悩みを持っている人が数多くいるのですね。広告をブロックする方法についてたくさんの情報を得ることが出来ました。

 

そして広告を非表示にするには広告ブロックアプリが効くらしい。そしてフリーを含めてたくさんのアプリがでているが、「280blocker」というブロックアプリが現在一番人気らしいということを知りました。

 

いつもはもう少し調べたりするのですがその日のうちに即ダウンロードしました。価格は800円でした。買い取りで毎年継続更新しなくても良いようです。

 

私はケチな性格なもので課金してアプリをダウンロードするのは「280blocker」が初めてでした。そのため800円といえども効果の分からないものにお金を払うことに若干のためらいを感じていたのですが、漫画の広告が本当に本当に気持ち悪く“背に腹は変えられぬ”状態でした。

 

結果は効果てきめん!

なんと!あれほど悩まされていた広告が陰も形もなく消去され、広告駆除という長年の苦行から解放されました。

 

 

映画『下妻物語』竜ヶ崎桃子の気持ちが分かった

ふと思い出した言葉があるのです。

 

人間は大きな幸せを前にすると急に臆病になる。
幸せを勝ち取ることは不幸に耐えるより勇気がいるの。

 

映画『下妻物語』で深田恭子さん演じる主人公桃子が、少女時代に金持ちの医者との再婚を躊躇う母を励まして言う台詞です。状況はまったく違いますが心境が似ていると思いました。

 

アプリを1つ入れただけで長年のストレスが一瞬で解決するなんて信じられない。こんな幸せが長く続くわけはない。明日になればまた画面にゴミ広告が溢れているのではないか。

 

“大きな幸せ”を前にちょっと怖気ずいてしまいました。

 

厚い雲が一気に晴れて見渡す限りの青空が広がるというか。

足の踏み場のないゴミ屋敷から清々しい風が吹く高原に一気にワープしたというか。

本当に怖いくらいの劇的な効果と変化でした。

 

ちょっと困ったのは、いつも利用している食材のネット注文画面が突然ブロックされて開かなくなってしまったこと。最初は原因が分からず戸惑いました。色々調べて「280blocker」の影響だと分かり、今は注文の時だけSafariの“コンテンツブッロッカー”機能を一時的にオフにしています。効きすぎるための弊害だと思います。

 

何を第一優先するかで選択は変わってくると思いますが、広告表示にストレスを感じている方でしたらお勧めできるアプリだと思います。

 

 

『もののけ姫』imax版を鑑賞しました。1997年に公開され空前の大ヒットを記録した映画ですが観るのは初めてでした。

太古から続く美しく豊かな自然とそこに生きる生き物

その自然を醜い利権争いのために侵略し破壊しようとする人間

自然と人間が共存しともに生きる道はないか葛藤し闘い続ける若者

 

今まで観なかった理由

上映された当時、1984年に公開された『風の谷のナウシカ』と、もしかして基本的な考え方や方向性が似ているのではないか。であるなら私のなかで『もののけ姫』が『風の谷のナウシカ』を超えることはおそらくないだろう、絶賛された映画ではありますがそんな予感がしたのです。

 

でも上映から30年近く経ち、imaxの映像と音響で観れるこのタイミングで勝手な判断をせずちゃんと観ておこうと思い立ちました。

 

良かったところ

映像、特に自然の描写が素晴らしかったです。リアルなんだけど実写とは違うんです。まるで絵本のなかに入り込んだよう。太古の森の奥深くに分け入り浮遊しているような一体感を感じました。アニメーションだからこその迫力と臨場感を堪能できたと思います。映像でいつでも観れる作品ですがimaxで観れて幸せでした。お勧めです。

 

そして私利私欲を貪る、勧善懲悪されて当然の“悪人”など誰一人いない、すべての登場人物にストーリーがある。だから観た後も深く考えさせられる映画なのだと思いました。

 

アシタカや、サン、エボシ御前だけでなく、シシ神の森に棲むものたちもタタラバの民もジコ坊も、そしてアサノの侍であっても、皆が己の信念のもと自分たちの仲間を守るために戦っているのですよね。だからこそどう生きるべきなのか、分からないながらも一緒に考えたくなりました。

 

敢えて講評などは読まず鑑賞したのですが大ヒットしたその理由が分かった気がします。

 

言葉は人間だけのもの

それと同時に、『もののけ姫』が『風の谷のナウシカ』を越えられないだろうと思った理由も分かりました。

 

モロの君は流暢に人間の言葉を喋ります。まるで人間のようにペラペラ話す山犬‥何だか映画の吹き替えを観ているようで嘘くささを感じてしまいました。

 

モロの君には「サンに言葉を教え人間への憎しみを植え付ける」という役割がありますから百歩譲って理解できるとしても、シシ神の森の棲むものたちは猪神も猩々と呼ばれる猿の一族も森の精霊たちでさえも言葉を理解し、あまつさえその言葉を使ってお互いの意思疎通を図っているのです。

 

ストーリーを分かりやすく展開するための手段だと思うのですが、その設定って安易で不遜だと思うのです。侵略した国家が自分の国の言葉を公用語として使うよう強制するのと発想は同じと思うからです。それぞれの“多様性”を認めあって共存していこうとするならあるべき姿ではないはずです。

 

『風の谷のナウシカ』で“オーム”は言葉を喋ったりしません。でもだからこそ“オーム”の怒りや哀しみがより伝わってきました。今回も唯一言葉を持たない“シシ神”とタタラ神となった“ナゴの守”のほうが強く印象に残りました。

 

いつの頃からかジブリ映画は生き物たちがみな“擬人化”してきた。もちろんディズニー映画にだって言葉を話す動物はいます。でもディズニーは基本“ヒロインが悪者と戦い王子様と結ばれて幸せになる”ことがメインテーマ。動物たちはヒロインを応援し祝福するためだけに存在する。ジブリ映画が同じではダメだと思うのです。最近シブリ映画を観なくなったのはそのせいだろうと思いました。

 

私が越えられないだけでは

映画を鑑賞して数日、『もののけ姫』が『風の谷のナウシカ』を超えらないというのはただ私が理解できないだけではとも思うようになりました。

 

これは村上春樹さんの本を読んだ時に思った感想と似ています。

学生の頃村上春樹さんが好きでした。安西水丸さんのおしゃれなイラストの「村上朝日堂」シリーズや「日出る国の工場」等エッセイを愛読していたし、小説だと「風の歌を聴け」の頃です。

 

でもその後、続編の「羊をめぐる冒険」を読んでちょっと世界観が違うと感じ、次の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」でサッパリ分からんと断念しました。平明で分かりやすい文章なので何とかついていけたのですが、“ここまでだな‥”と悟りました。

 

その後村上春樹さんは「ノルウェイの森」が大ベストセラーになりノーベル賞が噂される世界的に評価される作家になっていくわけなので、早々脱落したことが寂しくはありましたが能力の限界で仕方がないと思っています。

 

もしかしたら『もののけ姫』も私の能力の限界を超えた作品なのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

原作を読んでいないので映画を観た限りですが、喜久雄と俊介が波乱の人生を歩むことになったそもそもの始まりは「花井半次郎が自分の代役に喜久雄を選んだ‥選んでしまった」ことに尽きると思いました。

 

なぜ喜久雄?

通常だったら誰が考えても俊介が順当です。

血筋を受け継ぐ俊介とその俊介よりも華も芸も全てに秀でた喜久雄。一門の安泰を第一優先に考えたら、むしろ代役の指名はこの微妙な関係にけじめをつけるちょうど良い機会だったと思います。

 

花井半次郎の死後それ以外の後ろ盾を何も持たない喜久雄は、襲名したにも関わらず同じ歌舞伎役者から嫌がらせや虐めを受け主要な役に就けず燻っている。

 

おそらく8年も失踪しブランクがある俊介がすんなり歌舞伎界に戻れたのも、“ヤクザの息子、隠し子、名前の横取り”と喜久雄を悪役に仕立てて俊介を後継にした方が興行的にも上手くいくという興行主サイドの思惑があったからだと思います。それだけ才能より“血筋”がものを言う世界なのです。

 

 

ifはないけど

もし、俊介が代役を務めたら、市川猿之助さんの代役を市川團子さんが務めた時のように「危機的状況を御曹司が救った」と世間から絶賛され、判官贔屓もあり次期花井半次郎は確固たるものになったのではないか。そうなれば俊介も失踪などせず芸の道をより邁進したと思います。

 

喜久雄だって「どんなに芸を極めようと血筋を持たない自分が俊介を超えることはできない」と早い段階で思い知ることができれば、諦めて別の道に進むか、それでも歌舞伎の世界に残りたいと思えば自分の“分”を弁えて俊介のもとで修行を続ける覚悟が定まったのではないか。

 

そうなれば喜久雄の才能を知る俊介はけして悪いように扱わないだろうし、人間国宝の万菊さんにように見てくれている人は必ずいる。そこそこの役者人生が送れた気がします。

 

 

たとえファンタジーだとしても

全てはこの半次郎の決断が始まり。通常ではあり得ない“ファンタジー”です。でもこの判断は現実的ではなかったとしても映画として必然だったと思います。

 

血筋を持たない自分が歌舞伎の名門を背負う。だからこそ「神様と話してたんとちゃうで。悪魔と取引してたんや。日本一にしてくれるんやったらなんもいらないって」と取り憑かれたように芸を極めようとしたのでしょう。

 

また喜久雄が人間国宝にまで上り詰められたのは、痩せても枯れても“花井半次郎”という看板があったからこそだと思います。

 

類稀な美貌と女方として生まれてきたような天賦の才能。曽根崎心中のお初を喜久雄がどう演じるのか、その姿をこの目で確かめずにはいられなかった。

 

吉沢亮さんが演じられる美しい女方の姿をみると、たとえ現実に縛られない空想だとしてもこのファンタジーなら信じられると思えました。

 

憑依と必死は違う

人間国宝となった喜久雄が全身全霊をかけて“鷺娘”を舞う。鷺の精が憑依したようなその姿に観客は魅入られる。それは理解できました。

 

でも俊介が壊死した足の痛みに耐えて曽根崎心中のお初を演じる、痛みは限界を超えるが最後まで演じ続ける、観客は心打たれ万雷の拍手おくるって、それは違うと思いました。

 

あんなふうには生きられないよな‥

舞台に立つ者にしか解らない凄みと覚悟を表現するためのシーンだと思うのですが、あまりに必死で余裕のない舞台は楽しめないです。舞台で死ねたら本望という言葉がありますが私が観客なら迷惑です。同じ一心不乱でも“憑依”と“必死”はまったく違うものと思います。