陳腐なものも美しい

 子規が言っている。梅に鶯、竹に雀、柳に翡翠などの配合(取り合わせ)は略画などに陳腐になるほどに描き古されている。だが、陳腐なそれらの取り合わせに「美しいといふ感じが強く感じられて」興味がわいた。それで柳に翡翠の句を10句作った、と。

  翡翠の魚を覗ふ柳かな

  翡翠の去つて柳の夕日かな

 このような句だが、残念なことにやはり陳腐だろう。

平凡な風景に過ぎないと思う。だが、陳腐なものに魅か

れる気分は分かる気がする。夏の海と西瓜割り、祭りと

浴衣などにボクも魅かれる。これは心身の弱りによるのだろうか。この時期の子規には死が近づいていたし、今のボクは暑さに滅入っている。でも、陳腐なものに魅かれるのは心身の弱りのせいばかりではないと思う。陳腐なものとは伝統、習慣、共通感覚などの範囲にある。これをすべて捨て去ると地に足が着かない。ことに俳句という片言的な表現では陳腐なものがかなり大きく読みを支える。重要な読みの文脈になるのだ。

 以上、「病床六尺」(明治35年7月21日)の記事に触れての感想である。