サイゼリヤ(閉店) -4ページ目

サイゼリヤ(閉店)

グラスワイン100円

・昨日の続き/オカルト理論

「初手に魔法カードがある確率は50%」と言う言葉には二つの意味がある。

 

 A.シャッフルしたデッキから初手を引き直す作業を十分に多い回数行ったとき、魔法カードがある頻度は2回に1回である

 B.今目の前でシャッフルしたデッキから初手を引いたとき、魔法カードがある可能性は6面ダイスを振ったときに数字が偶数である可能性と同程度である

 

同じじゃん……と思うかもしれないが、試行回数が違う。

 

 A.無限回の試行についての頻度

 B.一回の試行についての可能性

 

例を挙げると、一日サイコロを振り続けた人が「1が出る確率は1/6」と言ったときはA、天気予報で「明日の降水確率は50%」と言ったときはBの意味だ。

この二つは混同して用いられることが多いが、実証可能性という観点から見たとき、Aは実験で容易に確かめられる一方、Bはどうやっても確かめられないという重大な違いがある。

Aを確かめるのは簡単で、実際にサイコロを振り続ければよいだけだ。対して、降水確率が50%だったのを確かめるとはどういうことか。降水確率が10%でも90%でも降るときは降るし、降らないときは降らない。空を見上げてわかるのは、降った/降らないという事実だけだ。どの程度降るはずだったのかを確かめる方法はない。
実際には、実験結果からまずAが導かれ、そこから類推するという方法でしかBは得られない。サイコロを600回振ると1は100回出たから、1回あたりで1が出る可能性は1/6なんじゃないかな?という。
何故こんなことになってしまうのかというと、可能性という概念は実在しないからだ。我々が生きる物理世界において、事象は常に100%確定する(※量子力学的な見地から入るツッコミに対する反論は文末に付けたので、ここで「ん?」と思った人はそっちを読んでほしい)。例えば、初手を知りたければハイスピードカメラを設置すればいい。録画を見ればトップを捲るまでもなく初手がわかるだろう。そこには確率など存在せず、あるかないかの二択だけがある。
ただ、現実にはハイスピードカメラを設置するのにはコストがかかるし、技術的限界から予測しきれない事象もたくさんある。そのため、便宜的な概念として確率を使って考えようということになるわけだ。証明はできないけれど、とりあえず確率が存在するということにして物事を考えるとなんかうまくいくぜ……ということで、無根拠に導入されている。
勘違いしてほしいのだが、確率というのは信用できない!ということを言いたいのではない。確率という概念は高度に実用的であり、現実の適用に際しての検証が不可能ということ、ポジティブに言い換えると、実証ではなく実績に支えられた概念であるということが重要だ。
 
さて、いわゆるオカルト理論とは運に流れが存在することを主張する信仰である。サイコロを振ったときにそれぞれの目が出る可能性が常に等しくあるのではなく、1が出やすい流れとか、4が出にくい流れがあると言うわけだ。
ここで、「運の流れ」という概念は冒頭の分類で言うとB的な考え方と親和性が高いことに注目してほしい。特定のタイミングで確率が膨らんだり萎んだりするという主張なわけで、無限回試行したときになんちゃらと言っているわけではない。

ここで、さっきまで語ってきたBの検証不可能性が活きてくる。Bという意味での確率はそもそも検証を放棄して成り立っている概念であるため、オカルト理論の主張する「運の膨らみ」を否定することは根本的に不可能だ。オリキャラの強さ議論をするようなもので、そういう厳密な議論に対して立ち向かえるように作られていない。

またまた勘違いしないでほしいのだが、だからといってオカルト理論を支持すると言っているわけではない。ただ、「オカルト理論は現実に合わない」という主張は無効で、「正しいかもしれないけど、そう考えることに特に意味がない」とするのが正しい。

 

えー今日は本の感想について書く予定で、ここまでの話は大して重要ではない前座なんだけど、長くなったので次回に続く。きっちり仕上げようとするとまた重さで溺死してしまうので。

 
※量子力学的なツッコミへの反論
これも次回
 

・雑多感を出していきたい

1記事1トピックだと絶対ちゃんと書いちゃうから、1記事に2、3個くらいトピックを箇条書きみたいな感じにしたい。
 

・ネタバレについて

不幸な事故を防ぐために一応フィクションのネタバレについてのスタンスを書いとく(Twitterでもだいたいこのノリでやっていると思う)。

メディアによってまちまちで、配慮度で言うと

 
ゲーム>映画>漫画アニメ
 
漫画アニメについては、明らかに物語の根幹に関わる重大なネタバレとか「これは流石にやべーだろ」みたいなやつは配慮するけど、基本的にはしない。
映画は有料だし、なるべくネタバレを避けるようにするが、オモバレ(面白かったかどうかのバレ)までは避けられないかもしれない。
ゲームは他のメディアとは一線を画する人生の拡張(この辺の違いは二式に書いた)なので、最大限の配慮をする。エモバレ(雰囲気のバレ)から徹底的に封じる。
 
ただ、古典に関しては全体的にガードが甘くなってしまうかもしれない。例えばスタープラチナが時を止めるのはラスボス戦の結末を左右するネタバレだけど、うーんまあそれはさすがに良くない?……みたいな。
まあ、ネタバレは周囲と協調して妥協案を探っていくべきことの一つなので、言ってくれれば随時改訂していきます。

・アカウントロック

@saize_lwを作ったら5分くらいでアカウントロックされた。

Twitter公式に解除要請を送り、自動返信に更に食い下がりのメールを送ると電話番号を登録せずにロック解除できるという裏技をネットで調べて、今日解除された。

 

・昨日の続き/リターンについて

情報発信に対してもう少しポジティブになった方がいいのでは?と考えるようになってきたのは、色々な意味でかっこうをつけている場合ではなくなってきたというのが一番大きい。

人生は短い。今は半ニート状態でのらくらしているが、もっとちゃんとした身分になると使える立場は減っていくし、量的な時間は同じでも質的な時間はどんどん失速していく感じがする(最近知ったのだが、前者をクロノス、後者をカイロスというらしい)。「待ちが強い」と昨日書いたが、待っている間に死んでしまう。

それでも何もかもを書いてしまおうというわけにはいかず、出せる情報と出せない情報はやっぱりある。20を超えたあたりからすっかりバカになっているので、この辺の区別はデスノでライトがやってたみたいに自分に言い聞かせておかないとうっかり口を滑らせる可能性があり、定期的に確認していきたい。例えば、「出せる情報は何か」という情報は出せない情報なので書かない。

 

・ドロシーと知恵の光と量子力学の反常識と素粒子の自由意志

 

 

↑ノンアフィと思いきや自動でアフィになるらしい

ドロシーと知恵の光の騒動を見て、いわゆるオカルト理論(運の膨らみ)について量子力学分野で(統計的なアプローチではなく)事象の確率に直接言及できる定理があったのを思い出したが、詳細を忘れていたので勉強しようと思ってブックオフで買った。

結論から言うと、ベルの定理は複数情報の空間的非局在という限定的なシーンでしか使えない定理だし、実証自体は統計的なので役には立たなかった。

オカルト理論の詳細については、そんな大した話じゃないけど、気が向いたら書く。

・はじめに

俺は昔から何かあるとすぐにブログを作るのだが、完璧主義な性格のせいでちゃんとした記事を書かねば気が済まなくなり、気軽に更新できなくなって放置してしまう悪い癖がある。

もっと気楽に、サイゼリヤでダベってるときくらいのノリで書くブログが欲しいと思ってブログタイトルをサイゼリヤにした。記事タイトルも、ちゃんと付けてしまうとちゃんとしたトピックを書こうとしてしまうことが目に見えているので、3秒でつける。アメーバブログを選択したのも一番ゴミっぽいからだ。連携するアカウントも、@lw_ruはフォロワーが多すぎて肩肘を張ってしまいそうなので、新しく作った。
最終的にこのブログも放置される可能性もけっこうあるが、まあチャレンジするのはタダなので。

 

・書くという行為のリスクとリターン

そもそもブログを書くという行為、もっと一般には情報発信のリスクとリターンについて。
俺は明らかにリターンよりもリスクの方を高く評価しており、普段の振る舞いでも情報発信についてネガティブ、つまり情報封鎖気味に動いている自覚があるので、まずリスクを書く。
 
具体的に挙げると、
1.情報管理リスク
2.持ち株管理リスク
の二つ。
 
1.情報管理リスクについて
俺にとって、FaceBookでどこどこに行ったとか、何々を読んだとか本名で発信するのは信じがたい。それ以降の人生で嘘を吐くことのリスクが跳ね上がるからだ。
一回「ディズニーランドに行った」とFaceBookに本名で投稿してしまえば、「ディズニーランドに行っていない」と発言したいときに、常に莫大なリスクが伴うようになる。相手がFaceBookのフレンドであればただちに自分は痴呆か嘘吐きということになるし、直接見ていないとしても、別の友達から伝え聞いているかもしれないし、投稿を消したところでキャッシュから情報が出てきてしまえば詰む。嘘を吐けないわけではないが、相手がどこまでの情報をどのくらい把握しているのか管理する責任が伴い、完璧に実行するのは不可能である。
わかりやすいから嘘を例に出したが、情報というのは本質的に持っている側が常に一方的に有利なのだ。
例えば、親が子のTwitterアカウントを監視していたとする(上司と部下でもなんでもいいが、なんか上下関係)。一番ありがちなのが、子が「親が子のTwitterを監視している」ことを知らないというパターンである。つまり、子は親に監視されていることも知らず、日常を垂れ流している場合。これは無防備な情報を一方的に取得できる親が明らかに有利だ。
しかし、逆に子が「親が子のTwitterを監視している」ことを知っており、かつ親が「子が『親が子のTwitterを監視している』ことを知っている」ことを知らなかったとすれば、優劣は逆転する。子は監視されていることを知った上で工作した情報を流すことができ、しかも親はその情報がコントロールの産物であることを知らないのだから、いわば無防備な監視によって工作情報を掴まされるのだ。この場合、流通する情報を操作するイニシアチブは子の側にある。
もちろんこのメタがもう一段回ると、更に優劣は逆転する。この繰り返しだ。いずれにせよ、最終的な情報を知っている方がマウントを取る。
あまり関係ない話をしたような気もするが、要するに情報は秘匿し得ということを言いたかった。
 
2.持ち株管理リスク
さっきは情報を捏造する場合のリスクについて話したが、捏造していない真実の情報を発信する場合にも無視できないリスクがある。
例えば、飲みの席で少しだけ専門的な話題が持ち上がった場を想像してほしい。世間話の範疇ではあるが、やや詳しい知識が無ければ込み入った話ができないような話題だ。例えば、リーマンショックについてとか、量子力学について。
このとき、リーマンショックの話題への参戦度合いについて、3つの立場を考えてみよう。
 
A.発案者。最初にリーマンショックの話題の口火を切る。
B.討論者。Aの出した話題に乗っかり、積極的に議論を行う。
C.傾聴者。リーマンショックにあまり詳しくないので、話を聞きながら相槌を打つ。
 
ある程度有益な話し合いが行われたとして(ちなみに俺はリーマンショックについては「サブプライムローンのやべーやつ」くらいしか知らない)、この会話が終わったときに株を上げるのは誰か。
恐らくBだ。
議論を提起したAが一番の功労者なのでは?と思うかもしれないが、そうではない。
Aがリーマンショックについて深い知識を持っていることは驚くに値しないからだ。自分から話題を振るくらいなのだから、ある程度興味があって当然だろう。リーマンショックについての論文をいくつも読み込んでいたとしても「ふーん」という程度だ。
対して、Bは偶然振られた話題に対応したという立場の違いがある。これが何を意味するのかというと、Bはリーマンショック近辺の経済的話題について広範な知識を持っている可能性が高いということ。何故なら、Bがリーマンショックについてだけピンポイントで知っていたところに「たまたま」リーマンショックの話題が発生する確率は低く、それよりは、元々経済的な話題に強く、リーマンショックの話題も守備範囲に入っていたという方がよほど有り得そうな話だからだ。
なお、Cの評価が大きく下がることは考えにくい。専門的な話題に付いていけなかったとしてもそれを強く咎める人はいないだろう。人には得手不得手がある。

ここで注目すべきは、「仮にAとBで知識量が同等だった場合でも」、場の人間に与える印象はBの方が有利ということである。偶然性を利用して、知識量は盛ることができるのだ。

このような状況で取るべき戦略は、基本的に乗れる話題が来るまで待ち、乗れるならBになり、乗れないならCになること。自分からAになるのはお勧めできない。何故なら一度Aになってしまうと、その話題についてBになる機会を永久に逸することになるからだ。どうせ知識を吐き出すならAよりもBの立場で吐いた方がいい。

結局のところ、手持ちの知識で自分を大きく見せるには、迂闊に喋らずに機を伺う「待ち」が最も強い。こう書くとしょうもない見栄っ張りの話と思われるかもしれないが、無意識に刷り込まれた印象というのはなかなか侮れない。
ちなみに、会話の流れをコントロールして、狙ってBの立場に収まることができるやつというのも存在する。自ら振りたい話題を他人に振らせ、自分はそれに応対したかのような印象を与えられる人間。
 

こういう垂れ流し型のブログを書くという行為は自らAになりにいくようなものなのだが、リスクを乗り超えて俺がそれに至ったリターンとは何か……

は、疲れたので次の更新で書く。