2000年代、村上龍の『13歳のハローワーク(2003)』は、それまでの「組織の歯車」という価値観へのアンチテーゼとして、「好きを仕事にする」という希望を提示した。
しかし、それは裏を返せば「何者かにならなければならない」、「キラキラした仕事をしなければならない」という、現代に続く強迫観念の萌芽だったのではないか。
「好きなことで生きていく」というモデルが理想化された結果、年月を経てそれが「やりたいことや自分らしい仕事をしていない自分はダメだ」という自己否定へと変質してしまった。
自己実現という名の圧力が、現代の「生きづらさ」の土壌になっている。
自分を特別な存在(オリジナル)だと信じるからこそ、届かない理想に苦しむし、「自分探し」と称して漂流するのだ。
いっそ「自分は量産品のパチモンだ」、「一山いくらの存在だ」と割り切ってみてはどうか。
それは絶望ではなく、ある種の「潔い居直り」だ。
本物であることを諦めた瞬間、社会の期待という重荷から解放される。
『13歳のハローワーク』よりさらに遡るが、『新世紀エヴァンゲリオン(1995)』の世界観にこそ、今の時代を生きるヒントがある。
主題歌『残酷な天使のテーゼ』の「女神なんてなれないまま私は生きる」という歌詞が示すように、何者にもなれないまま、ただそこに居続けること。
新しいフロンティアを探すのではなく、今いる場所で自己の境界線を死守し、図太くのさばる。
それこそが、パチモンに許された最上の生存戦略ではないだろうか。
正直に言えば、「好きを仕事に」という呪縛から完全に逃れるのは、現代日本で貨幣経済から離脱するよりも難しい。私たちは、何者かにならなければならないという強迫観念の中でしか、生き方を教わってこなかったからだ。
だからこそ、特別な何かを目指すのをやめ、ただの量産品として、しかし誰にも譲らない平穏を持って居座り続ける。
この「居直り」と「図太さ」こそが、何者でもない者が持ちうる、現代を生き抜くための最高の手札なのかもしれない。

