前回からの続きです。
これまで、東京の荒川区にある
以下の二社について、紹介してきました。
引き続き、荒川区の古社
『尾久八幡神社(おぐはちまんじんじゃ)』に
ついて、紹介していきたいと思います。
荒川区内の西尾久、東尾久
町屋 4丁目〜7丁目という
広い氏子域をもつ、荒川区を
代表する神社の一つです。
『尾久』という、ちょっと変わった
社名は、「おぐ」とも「おく」とも読まれ
JR常磐線にある「尾久」駅は
「おく」駅と読みます。
難読地名にときおり登場する、めずらしい地名です!

尾久八幡神社は、石濱神社と同じ
隅田川…旧・荒川沿いに位置し
やはり、荒川との関係性に注目する
必要があると思っています。

また、神社から1kmほど東にある
「尾久の原(おぐのはら)公園」は
園内の池や湿地帯が
野鳥やトンボの貴重な生育地に
なっていて、夏期に解放される
じゃぶじゃぶ池 など
水辺のある公園として
区民に親しまれています。

この尾久の原公園の小字(こあざ)は
「十三房(じゅうさんぼう)」といい
(❊小字とは、古くから使われてきた その土地の地名です)
かつて、この地に点々と
「十三房塚」といわれる塚があり
刀な鋺(かなまり)などが
出土したと、伝えられています。

これらの塚は、古墳(円墳:えんぷん)であった
可能性があるのですが、現在はすべて
消失していて、真偽の程はわかりません。
また、尾久八幡神社と尾久の原公園の間には
「熊野前(くまのまえ)」という地名が残り

これは、かつて当地に熊野神社が
あったことに由来するのですが
(❊この熊野社は、明治11年、尾久八幡神社に合祀)
尾久八幡神社は、明治政府が出した
「神仏分離令(しんぶつぶんりれい)」の影響を
大きく受けた社であったと、考えられます。
どういうことかというと
(話は、少し長くなるのですが…)

明治以前の日本では、各地域において
「神社(神道)」と「寺院(仏教)」が
同じ場所に共存し、神と仏を同一視して
ときに寺院が神社を管理する
神さま・仏さまが、融合する
神仏習合の状態にありました。

ちなみに、日本古来の「山岳信仰」と「仏教」
とが融合した、「修験道(しゅげんどう)」も
神仏習合の一つの形と、いえるでしょう。
「八塚山弥勒院(やつかやまみろくいん)」
という、修験寺(しゅげんでら)を
営む(明治に至り 廃寺)、修験者でした。


当時の尾久八幡神社においても
事情は同じで、別当を務めた
満了山 願勝寺(がんしょうじ)は 廃寺となり

代わりに、港区三田にあった
大林院(だいりんいん)がやって来て
願勝寺の仏堂や仏具などの一式を継承しつつ
尾久八幡神社から独立した寺院
として、現在に至ります。

□ 尾久八幡神社 由緒(神社ホームページによる)□
「尾久の総鎮守として、人々と共に栄えてきた当社の創建は定かではありませんが、今日当社に伝えられている最古の棟札には至徳二年と記されており、少なくとも八幡神社が勧請されたのは南北朝以前であることが知られています。 御祭神に応神天皇と末社の神々を祀り、農工商の神様として、また学業成就・交通安全・商売繁盛・除災招福・病気平癒・金運などに恵まれるとの御神徳が広く氏子崇敬者に伝えられております。」
また、現在の社殿は、昭和の戦災に
よって消失、後に再建されたもので
現況の境内の雰囲気から
尾久八幡神社の古態を感じることは
少々、難しくなっている
ように感じられます。

現在の神社内には、前述した
明治に合祀された熊野社の拝殿
なども、存在していません。

そして最後に、尾久八幡神社がある
『おぐ』という変わった地名の
由来について、少し書きたいと思います。
「おぐ」郷は、史書に
「小具」「越具」「奥」とも書かれ
武蔵国(むさしのくに)豊島(としま)郡に
属していました。その地名の由来は
一説に、隅田川を背にした
豊島郡の 奥まった場所に 位置している
ことが由来ともされていますが
はっきりしたことは、わかりません。
ですが、岡山県にある「邑久(おく)」地名
「豊島(手島)」という地名を調べると
意外なことが、わかってきます。

この由来不詳とされる
荒川区の『おぐ』について
次回、調べてみたいと思います。
続きます。









