前回は、千葉県一帯の古名
『総(フサ)』について、書きました。
( ↓ 前回の記事はこちらです ↓ )
・『粟(あわ)の穂』 房(ふさ)状(円錐形)に実ります
次回以降、徳島県や千葉県に
地名として残る、『アワ(阿波・安房)』に
ついて、書こうと思います。

一般的に、「阿波」・「安房」といえば
古代氏族・忌部(いんべ)氏が活動した地
というイメージが強いのですが…
そのイメージとは離れて
『アワ』の意味について
考えてみたいと思います。

・『古墳時代の歴史』松木武彦著 講談社現代新書

・「古墳」について
・どのような人びとが「古墳」を築いたのか
著者は、テレビでよく拝見した
歴史学者・考古学者の
松木武彦(まつぎたけひこ)氏で
同時に、松木氏最後の書です。
じつは、松木氏が昨年亡くなられて
いたことを、つい最近知りました。
テレビでお見かけする松木氏は
野太く力強い口調ながらも
あふれる優しさを感じさせ
わかりやすく説明されようと
心を砕いている様子が
ひしひしと伝わる、大好きな方でした。

奈良県桜井市の東田(ひがいだ)に
ある、『纏向(まきむく)遺跡』から
大規模な建物跡が発見されたとき

ヤマタイ国が畿内にあった
可能性が、高まってきたのではないか?
このようにコメントして
いたのが印象的でした。
謹んで、お悔やみ
ご冥福を申し上げます。

上記の著書は、タイトル通り
古墳時代の歴史について
とてもわかりやすく記述されており
しかも松木氏の知見が
これでもかと盛り込まれています。
お値段もお手頃で、入手しやすく
古墳時代の歴史について、ものすごく理解が
深まります。お勧めの一冊です!

例えば、どのようなことが
書かれているのかというと…
私たちは、「古墳」といえばつい
世界最大規模の墳墓とも目される
仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)などの
巨大古墳を思い浮かべるのですが…

上空100㍍から、古墳を眺めるフライトが実施されています
松木氏は、このようなひと握りの
巨大古墳だけを見ても、古墳の本質を
とらえるのは、困難だろうと記しています。
古墳の本質は、単体ではなく
「群(む)れ」…『古墳群(ぐん)』として
見ることが大切だと、記されています。
日本には、特定地域にたくさんの古墳が
密集する、いわゆる「古墳群」と
呼ばれる史跡が、多数存在するのですが…
・『稲荷前古墳群(いなりまえこふんぐん)』
(神奈川県横浜市青葉区大場町156-10 字(あざ)稲荷前)
4世紀後半から7世紀にかけての築造された
古墳群で、10基のさまざまな形式の古墳が密集する
「古墳の博物館」とも称されていました。
この地域(都筑:つづき)を支配した首長と
それに連なる人々の墓と考えられています。
これらは、言わばエジプトにある
「王家の谷」のようなもので
大小さまざまな墳墓が並び立つ中で
王族たちが、故人の功績の大きさを
内外に示し合う、モニュメント・威信財
としての性格(風習)が、古墳の本質だと
松木氏は記します。
以下、松木氏の著書
『古墳時代の歴史』からの引用です。
古墳という歴史的事象は、これからみていくように、さまざまな規模や形をもつ複数の墳丘墓が並ぶという、その「関係性」に本質がある。
そして、このような関係性を示そうとする集団こそが、古墳を生み出した主体である。メンバ ーの死に臨んで個別に墳丘を築き、並べ合い、その形や大きさを比べ合うことで、集団の関係性を内外に向けて象徴し、記念するという習わしが古墳である。
巨大前方後円墳は、 その一要素にすぎない。ひと握りのトップクラスだけをいくら見つめても、古墳の本質をとらえるのは困難だろう。そうではなく、まずこの習わし、すなわち違いを見せ合う墳丘墓をメンバーごとに造って並べるという行いが、どのような集団によって、いつどこでどこでどのように生み出されたかを探ることが、古墳の出現を解き明かすためのただ一つの筋道である。
日本全国に存在する、古墳群は
古墳時代(3世紀〜6世紀末) 、各地に割拠して
交易活動をした氏族集団の痕跡であり
一元的なヤマト中心の歴史感ではなく
・『東(関東・東海方面)』
の重要性を、指摘しています。

ところで、一口に「古墳」といっても
円形のものから四角いものなど
(それぞれ「円墳:えんぷん」「方墳:ほうふん」といいます)
様々な形状のものがあるのですが…
私たちが「古墳」といって
まっさきにイメージするのは
「ヒョウタン」・「鍵穴」型をした
『前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)』でしょう。
前方後円墳は、ヤマト王権の象徴とされ
その最古のもの(第一号・前方後円墳)は
ヤマト王権が誕生した場所との説がある
奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡内にある
『箸墓(はしはか)古墳』とされています。

その一方で、当ブログで以前にも
触れましたが、じつは全国で最も多くの
前方後円墳(ぜんぽうこえんふん)が
存在する県は、王権が誕生したとされる
奈良県ではなく、千葉県です。
そういったところに
「古墳誕生」についてのヒントが
あるのではと、個人的には思っています。

さて引き続き、松木氏の著書
『古墳時代の歴史』を紹介させて
いただくのですが…
松木氏は、古墳を造った氏族集団とは
必ずしも血縁関係で、強く結ばれたもの
ばかりでもなく、婿入りなどの形で
外部の人間も受け入れて、様ざまな
紐帯をしていただろうとし
例えるならば、現代でいう
結社のような存在と記しています。
本社を中心に、いくつかの子会社をもち
地域に根を張る企業グループのようなもの
でしょうか。

松木氏は、西暦180年前後の日本
ちょうど、中国の歴史書に記された
「倭国大乱(わこくたいらん)」の真っ只中
地域に根ざす(企業グループのような)代表的な
各集団を、以下のように分類しています。
・北部九州 外交と交易の先進地帯
・山陰 日本海交易の拠点
・北近畿 貿易技術立国
・瀬戸内 内海航路と農業生産
・近畿中央部 農業社会の伝統と変革
・東海 「肥沃な三日月地帯」の要衝
・北陸 「倭国乱」の焦点
・関東 弥生の「新開地」
ちなみに、西暦180年代前後は
世界史的にも一大変革期にあたり
地球規模の寒冷化が一つの原因ではと指摘されています
ユーラシア大陸の東西を支配した
中国の後漢(ごかん)王朝、ローマ帝国が
それぞれ衰退し、分裂に入る時期に
あたります。
この変革の波は、日本にも影響をおよぼし
日本列島の国々が相争う「倭国大乱」を経て
列島各地に割拠していた地域集団の中から
日本の中央部ヤマト、現在の奈良県に
これらの集団の上に立つ、大氏族の長とも
いうべき権威者たちがあらわれます。
この権威者たちが、奈良に現れた理由に
ついて、松木氏はその抜群の立地を指摘します。
奈良は、イガやイセ(現在の三重県)を
経て、東海・関東大地方圏につながり
アハウミ(琵琶湖)を経ては
日本海大地方圏に接続します。
さらに西方向…生駒山系を越えれば
カハチ(大阪)をウォーターフロントとした
瀬戸内海への航路が開け
朝鮮半島への玄関口である北九州へと
つながります。
つまり、奈良(ヤマト)は
西日本と東日本をつなぐ結節点…
チマタにあたり、松木氏は
「この新たな権威者たちの出現と、遠距離
交易のハブとなる巨大マチ・纏向の設営
とは無関係ではないだろう。」
と述べられます。

先ほど述べたように、奈良県桜井市の
「纏向(まきむく)遺跡」からは
遠隔地の土器が大量に出土しています。
近年、このような点から
巨大都市・纏向は、人びとが交流する
一大物流センターとしての性格を有し

その建設には
「各地の氏族たちの合意があった」
との見方が、出てきています。
以前に、奈良(ヤマト)を訪れたとき
「山」に囲まれた所だなぁ
と感じましたが、奈良は
紀伊山地や生駒山地など
美しい山々囲まれた
自然豊かな場所です。

そして、ヤマトには
「大和」の文字が、当てられていますが
「大いなる和」という意味に
解せるのは、ゆえなきことことでは
ないのかもしれませんね。
古代の諸氏族の合意の証が
「前方後円墳」だったのではないかと
個人的には、思っています。
続きます。
そして、来年も
よろしくお願いします!









