「お仕着せ」というのは、朝ドラの昭和時代を描いたのに

出てくる言葉に感じる人もいると思いますが、

「昔、店の主人が奉公人に与えた着物」をいうのだそうです。

学生時代の制服を「お仕着せ」みたいなもので、「自ら選んだ

ものではなく、それを着るよう決められているもの」でしょう。

 

私などは、勉強も、やらなければならない理屈はわかっているけど、

「お仕着せ」みたいなもので、平日、学校に行って授業に出なけれ

ばいけない、か行っていましたから、全く身が入りませんでした。

そのために、成績はいつもビリ、たまに、この先生のいう話なら

勉強しようか、というのがあってやってみるけれど、先生が変れば

興味を失う、という体たらくでした。

 

素晴らしい話をしてくださる講師の先生がいて、その教科を勉強し

始めるけれど、先生は始終近くで指導してくださるわけでなし、

家で自分でやらないと先生の言うその教科の素晴らしさは本当

にはわからないのだけれど、やらなくなってしまう。

結局、自分におけるブームというかパッションだっただけだったなぁ、と。

 

座禅にもそんなところがあるのではないか、とふと思うのです。

老師の感動する話を聞いても、三日もすればなんかいい話だった

けど、なんだっけ、なのです。せいぜい、また、老師に会える時には

行こうかでしたら、座禅の習慣は続きますが、文化センターに通う

感覚ではないでしょう?

 

はじめに、坐り方やらだけではなく、座禅がなぜあるのか、

座禅はなにを目指すのか、そのあたりを腹に落とす、そして、

時にふれ、それを反芻する機会を得る、自分で自ら作るか、

定期的にみんなで見る、そういうのが必要だと思うのです。

四句誓願文やら坐禅儀などは、そのためにあるのではないかと

思います。

 

一言で言えば、借り物でない自分の座禅をする、ようにならないと

半年、一年すら続くものではないと思うのです。

 

人から言われて、人に与えられた熱意に乗っただけのものは

しぼみます。 私自身そうだから、よくわかるのです。

 

それを一歩進んで、じゃあ、なんだったんだ自分が望んだことは、

と思い、やっぱり自分のできる範囲で続けようか、と思わないと

続かないものだなぁ、と思うのです。

 

座禅に限らず、いろいろなことも。