歴史好きの人なら、徳川家康の関東入国後、代官頭として土木、治水、新田開発などにらつ腕を振るった伊奈忠次の名前はご存じだろう。(大河ドラマ「どうする家康」では、なだぎ武が演じていた)

忠次は、本多忠勝や井伊直政のような武者働きこそしなかったが、道路整備、橋梁架け、物資輸送といった兵站に力を発揮したようだ。武蔵国小室、鴻巣に1万3千石の所領を与えられ陣屋を構えた。

彼の陣屋跡が埼玉県伊奈町に残っている。伊奈町は上尾市、桶川市、蓮田市に隣接する人口4万5千人ほどの町だ。(大宮駅からニューシャトルで15分ほどの丸山駅下車すぐ)

 

伊奈氏は、3代(忠次、忠治、忠克)60年かけて、利根川東遷、荒川西遷などの大土木工事を行い、洪水の危険を減らすと共に、広大な新田開発を成し遂げた。

 

忠治の時代に農業用水を確保するため造ったため池を「見沼溜井」という。

その後、8代将軍吉宗の時代、江戸の人口増に伴い、食糧増産が喫緊の課題となった。

 

かくして、「見沼溜井」は干拓され、「見沼たんぼ」に生まれ変わることになる。時代と共に宅地化も進んだが、いまだにオヤジの家のすぐそばで、かなりの面積を保っている。

 

見沼干拓事業を担当したのは井沢弥惣兵衛だ。ため池の水をせき止めていた八丁堤を切り、ため池を新田に変えた。必要な農業用水は水路を開削(「見沼代用水」)、行田付近から利根川の水を引き入れた。

 

見沼代用水は、江戸に物資を運ぶ水運にも用いられ、芝川と結ぶ閘門式運河「見沼通船堀」を造ったのも井沢弥惣兵衛だ。(パナマ運河と同じ方式だが、建設ははるかに早い)

 

近年見沼代用水沿いには、桜の木が植えられ、見沼田んぼの桜回廊として、花見の季節には結構な人出となる。

 

伊奈氏屋敷跡と言っても、空堀、土塁の跡が残る程度ではあるが、在りし日の姿を思い、地域の歴史に想いを巡らせながら散策するのも楽しいものだ。