年初のJTB推計によれば、令和5年の訪日外国人数は、前年比5倍以上(2019年比では6割強)の2110万人になるそうだ。ゴールデンウイークの人出も、日本旅行を待ちわびていた海外観光客で、全国の観光地は賑わった。

自分の肌感覚では、上野・浅草周辺は、台湾、韓国、シンガポールなど、東アジアからの観光客が、かなり戻って来た感じがする。(とりわけ桜の花見以降)しかし、東京駅から銀座にかけてのエリアは、まだまだコロナ禍以前の賑わいからは程遠い気がする。

 

理由の第一は、コロナ禍前のインバウンド・ブームの主役、中国人観光客の来日が遅れているからだろう。

コロナ禍前は、昼間銀座を歩けば、聞こえる会話は日本語より中国語の方が多かった気がする。(中国人がしゃべり好きということもあるが)

 

ただ、中国も「ゼロコロナ政策の緩和」により、渡航に必要な手続きの簡素化も進みつつある。7月、夏季休暇辺りからは、銀座4丁目交差点付近は、また中国語が飛び交うことになるだろう。

 

輸出中心の日本の産業構造は今や大きく変化し、将来的には、観光産業は日本にとって基幹産業の一つになるのだろう。もちろん今でも、外国人観光客が落とすお金に支えられる会社、店は多いのだが。

 

そして、訪日外国人の消費の中味も、かつての貴金属、家電製品、生活雑貨などモノ消費から、日本人がやっていること、花見や神輿担ぎ、盆踊り、書道や生け花など、日本の文化を楽しむこと(いわゆるコト消費)に変化しつつある。

先日見たテレビ番組では、なんとお客を乗せて走る「女子大生人力車夫」が取り上げられていた。英米学科で学び、コミュニケーションに興味があるそうなので、海外からのお客様に、浅草周辺の観光案内をしながら、日本社会・日本の伝統・文化などを伝える伝道師の役割を果たしてくれるのかも知れない。


日本のアニメも、多くの外国人を惹きつけている。アニメ舞台の、いわゆる聖地巡礼で、写真を撮る外国人の姿が連日報じられたのはご存じの通りだ。(「スラムダンク」鎌倉高校前の踏切や、「君の名は」須賀神社の階段など)

 

日本に興味を持ってもらうことは、経済面のメリットばかりではない。日本の歴史、文化、伝統を知ることは、日本人の考え方を知ることにつながり、更にはビジネスを超えた人間同士の交流へとつながる。こうして生まれた草の根交流こそが、目立ちはしなくとも、国と国の関わりを支えてゆく、幅広く深い基盤になると信じる。

 

オヤジの中国駐在時の経験を話そう。もう20年近く前になる。その当時、中国のテレビ番組では、日中戦争をテーマにしたドラマが、連日放送されていた。登場する日本軍人は、残虐、卑劣(完全にパターン化されている)を絵に描いたような人物で、これが日本人だと思われたら、好意など持ちようがない。

自分と同じ会社の中国人社員でも、内心は日本に対し良い感情を持たぬ人もいたに違いない。だが、「名探偵コナン」、「一休さん」、「クレヨンしんちゃん」、「ちびまる子ちゃん」などを、夢中で見て育った若い中国人も多かったのだ。

 

今でも覚えているのは、20代半ばの社員で、日本語がとても上手な女性がいた。

「大学で日本語学科を専攻したのか」と聞くと、「日本語を大学で学んだことは無い」と言う。

全く日本語授業が無かったかはわからぬが、専攻が日本語学科でないことは確かだった。

 

子供の時から、日本のアニメを見て育ち、発音を聞き、そのまま口真似で発声を繰り返したそうだ。

文法などわからなくても、とても自然な日本語会話が出来たのには驚かされた。

 

アニメを見たり、小説を読んで、日本に興味を持ち、日本を訪れる。自分の目で日本を見て、日本人と接することで、日本や日本人に対する理解が深まり、好意を抱いてくれるようになる。

 

日本に対する悪印象を植え付けられて育った社員でさえ、日本出張後はほぼ例外なく、日本に対する見方が変わっていたものだ。(自分が「教えられた日本」と「見て来た日本」とのギャップに、良い意味でショックを受けていた。)

 

ウクライナ戦争以降、世界は「民主主義グループ」と「独裁主義グループ」に分断され、対立は激化する一方だ。残念ながら、政治的対立の解消は一朝一夕には出来まい。だからこそ、草の根交流を続けてゆく必要があるのだと思う。

 

国家間の政治的対立を、人間同士の反感につなげてはならないと思う。

「あいつらは、こういう奴らだ」、「あの連中は、全く信用できない」などと、特定の国家や民族を一括りにして、反感を煽るのは危険だ。それは、自分の頭の中に「顔のない化け物」を作り上げてしまうから。

 

人間同士、顔を合わせ、語り合えば、「田中さんとミカロフさん」、「鈴木さんと王さん」という血の通った人間同士の関係になる。

人間同士の関係なら、いい奴もいれば、悪い奴もいるし、気の合う人も合わぬ人もいて当然のこと。いつの時代でも、

お互いを等身大の人間として、見つめてゆけるようにしたいものだ。

 

 

テキストを入力