少し前の記事でポール・オースターについて触れたのだけれど、昨日、思いがけず彼の訃報が届き、何とも言えない喪失感を味わっている。

自分はちっとも読書家ではないし、特に外国文学には疎すぎるので、彼を知ったのはついここ数年のこと。

読んだ作品も多くはない。天邪鬼なものだから、彼のメジャーな代表作と呼ばれるものは『大事にとっておいて』あって、これから気の向くまま手にとるつもりでいた。

彼という人物や作品の深い層にまでに浸かったわけではないライトなファン、正確にはファンと名乗ってもいいのか程度なくせに、この世にはもういないという覆せない事実がとても寂しく、切ない思いにかられている。

 

別れ・・・喪失感・・・というと、ここのところ結構な頻度でそれに出くわす。日常のごくありきたりの些細な出来事にひどく動揺し、その動揺にしばらくの時間は感情が引っ張られ、平常心に自分を立て直すということが難しいという症状が続いている。

 

たとえば、年に数回程度だけれどコーヒーの豆を挽いてもらいに訪れていた、ご近所の小さな自家焙煎のお店。

ある日、その前を通ったらお店の看板や装飾は取り払われ、殺風景な空き店舗になっていた。珈琲店だった痕跡はきれいさっぱり皆無だった。呆然としつつお店のSNSを検索してみたら、閉店から2週間ほど経過していたのだった。

それなりに懇意にしていたつもりのお店が廃業してしまうというのは、これまでにだって幾度もあったことで、驚き残念がったものだったが、何が違うのだろう・・・

ひどくショックだったのだ。

心にぽっかりと穴があくとはまさにこのことだった。

こちらで挽いてくれるマンデリンを特別な気持ちで買いに行く楽しみが消失してしまった、もう二度とあのささやかなウキウキを取り戻せないんだ・・・と、マイナスな気分が重く長く沈殿し続けたのだった。

 

さらに。

これは仕方のないことなのだけれど、自分を診てくれていた消化器内科の医師がこの4月で転勤。診察はわずか3回のみのおつきあいだったが、話しやすくこちらの質問にもきちんと答えてくれた明るい若い医師だった。担当医がこの人で良かった、私は運が良い、と思った矢先での。

彼の新天地での活躍を祈るとしよう。こちらは前向きに。

 

また、3年ほど前に突如ほぼ全身に広がった、痒みを伴う原因不明の湿疹を治してくれた皮膚科医が定年退職になった。最初に診てもらった医師の処方が効果を見ず、逆に悪化していったところで病院を変えて彼女に出会えた。散々な肌をくまなく見て、「大丈夫、安心してください。必ず元通りに治りますから。もし今日お出しする薬がダメでもまだ他の方法もありますからね。」と。

清潔感のある凛とした声は弱っていた心に響き渡った。

そしてその言葉通りに症状は改善していき、まったく跡は残っていない。皮膚トラブルに見舞われたらあの先生のところへ行けばいいんだという絶対的な安心感をいただけた。

だが、もうそれもかなわなくなってしまった。

 

作家、珈琲店、担当医。

シチュエーションはてんでばらばらだけども、

どの別れも自分には等しく喪失感が張りついたままなのだ。