別アカウント記事「サイババに用意されていたアシュラムへの道」の転載記事 | 『真理への翼』(サイババの導きと叡智)

『真理への翼』(サイババの導きと叡智)

これは『哲学の透視図』を改題したもので、サイババとの体験談、教えを通して「人間とは何なのか?」「死をゴールとした人生に何の意味があるのか?」「真理とは何なのか?」といったものの答えを探究していくものです。

今回の記事は、サイババを神の化身と信じるようになった後も、それまでの自分を振り返ればサイババに会う資格があるとは思えず、もしアシュラムに行ったりすれば、そんな資格がないことを思い知らされる出来事が待っているような気がして、サイババのアシュラムには一生行かないでおこうと思っていた私が、何故サイババのアシュラムに足を踏み入れたのかということについての話です。

 

実を言うと、私がサイババのアシュラムに行ったのはサイババに会うためではなく、”瞑想”について書かれたスペイン語の本を買うためでした。

 

なぜサイババのアシュラムに瞑想の本を買いに行ったかというと、…話せば長い話になるのですが、お付き合いいただければ幸いです。

 

 

私がサイババのアシュラムに初めて行ったのは2000年5月ですが、そのための物語が動き出していたのは前年の1999年でした。

すべては、その年80歳になった母が、「元気なうちに一度ペルーに行ってみたい」という言葉から始まっていました。

ペルーのタクナで、弟が空手道場を開いていたからです。

私が母の口からどこかへ旅行したいという言葉を聞いたのはこの時が最初で最後でした。

 

そこで、翌年の2月頃(だったと思う)、私が付き添って弟の住んでいるペルーのタクナへ、滞在期間40数日の予定で行くことにしました。

 

ペルーへの旅は、早朝、自宅から一時間ほどかけて阿蘇空港まで車で行くことから始まりました。私がサイババの帰依者として、今までとは違う、不思議な出来事を体験するようになったのはこの時からです。

 

車には父と母と弟と私が乗っていて、私はペパードライバーだったし、弟は日本での運転に慣れておらず道も知らなかったので、車の運転は父がしていました。

 

家を出発して狭い下り坂のある道を少し走ると幅30メートルほどの川があり、そこにかかっている橋を渡って舗装されていない土手の道へと左折し、そのままを川の流れに沿って一~二分走ると舗装された県道に合流しました。

 

そこからてさらに3分ほど走ると、右折して空港に繋がる脇道に入るための変則的な三叉路がありました。

何が変則的かというと、脇道に右折する直前の道全体が、周りにある工場やガソリンスタンドや田んぼや用水路のために中央分離帯を設けたように膨らんでいて、右折して進むべき道の入り口がきっちりとした舗装道路ではなく、舗装した道路の周りに雑草の生い茂った未舗装の部分があたりして、うっかりすると交差点でオーバランして、右折するとき田んぼに落ちそうになるような構造になっているという点です。

 

天気さえよければ何の問題もない交差点だったのですが、その日は霧が出ていて、その霧が、交差点の周りにある田んぼや用水路の配置の関係で、前方に伸びている道の霧はそれほど濃くなくある程度先まで見渡せるが、右折する道の方向に目を向けると、霧に隠されていて脇道が全く見えないという状態でした。

 

今は信号がありますが、当時はありませんでした。

交差点の先にある脇道が霧で全く見えなかったため、多少の不安はありましたが、右折するときに最も注意しなければならない道路にかかっている霧はさほど濃くなく、そこに車の姿は見えておらず、飛行機の時間も迫っていたし、何度も渡ったことのある道だったし、交差点の先ある脇道の場所はだいたい感で分かっていたので、その道のあるだろう方向にハンドルを切って車を進めていきました。

 

その時点でも、注意すべき車線に車の姿は見えませんでした。あとはそのまま道路を渡り切ればいいだけでした。

しかし、右車線を越えようとしたところで、私たちの乗った車は車線を完全に塞ぐようにして立ち往生してしまいました。

霧の先に隠されていると思っていたはずの道がなかったからです。

目の前にあったのは、田んぼと道路の境目に設けられていたガードレールでした。

一メートルほどオーバーランしていたのです。

 

慌ててバックしようとしたとき、私たちの車の左方向に立ち込めていた霧のなかから、こっちに向かって走って来る大型トラックが姿を現しました。

そのまますぐに側面衝突する感じでした。

そこから何が起こったのかはわかりませんが(記憶がないのです)一瞬の空白があり、左方向から私たちの車に向かって走ってきていたトラックは、気が付くと、私たちの車をすり抜けたようにして私たちの車の右側の路上にあり、そのまま後姿を見せながら走り去っていたのです。

 

トラックがハンドルを切って進路を変えた形跡も、クラクションを鳴らした形跡も、ブレーキをかけた形跡もありませんでした。ただ、気が付くと、次の瞬間、トラックは私たちの車をすり抜けたかのようにして数メートル先の道路を走っていたのです。後に弟にこのことを話したら「俺もその時のことを覚えている」と言っていました。

 

 

そこからは、ホテルに一泊もせずに、熊本から羽田。羽田から成田。成田からアメリカのどこかで乗り換えてリマに向かい、リマでさらにタクナ行の飛行機に乗り換えてタクナに着き、そこから車で弟の家へ向かうという長い旅になりました。

 

タクナの空港は砂漠の中にあって、そこには弟の道場性が(弟は「そんなことはしなくていい」と言っていたようなのですが)10人ほど、私たちを歓迎するための横断幕を用意して待っていてくれました。

 

弟は、学生時代と就職して社会人となった後、バックパッカーとして世界40数か国を旅し、コロラドのデンバーで空手を広めていた二宮城光師範のファンだったので、会いに行ってそのまま内弟子となり、その後の旅で辿り着いたペルーで結婚し、空手家となった人間でした。

そして、直接の知人のうちの片手に余る人たちが、銃で撃たれたり、警察は事故死として処理したが、状況証拠(バイク事故で死んだことのされたが、バイクには事故の痕跡は何も見つけられなかったこと)から見れば絶対そうではないと言いきれる死に方をしていたりする人生を生きてきた人間です。

 

当時のペルーという国の治安がどのようなものだったかは、私たちが滞在していた時、弟の道場に弟子入りしようとしていた警察官の話がよく物語っていると思います。

 

その警察官は職務として、路上で強盗に襲われていた市民を助け、強盗を逮捕しました。その結果どうなったかというと、その報復として、その強盗の仲間たちから殺害予告されたのです。警察も司法も、彼を守ろうとはしませんでした。なぜなら、彼を守ろうとすれば、自分たちにも報復が及ぶ可能性があるからです。

その警官に助けられた被害者は、その警官に対して申し訳なく思い、いくらかの金銭おくろうとしました。しかし被害者は、現金ではなく、身を守るために弟の空手を習いたいので、その月謝を負担してほしいと願ったのです。

 

最初の内は全く空手だけでは食べていけなかった弟が、空手家として生きていけるようになったのは、自分の車のドアをこじ開けようとしていた路上強盗を撃退して、そのことを地方紙と全国紙が記事にしたことで有名になり、道場性が増えたからでした。

その時も警官は弟に、「犯人を逃がせ。でないと復讐されと言って言って、犯人を逮捕しようとしませんでした。「復讐されたら、俺は倍にして返すから、こいつを刑務所にぶち込め」と言って犯人を殴ったら、警官は弟に「お前はなんて乱暴な奴なんだ」と言われたそうです。

 

師である二宮城光師範も、デンバーの自宅に侵入した泥棒を捕まえたことがあって、警官に引き渡すときその泥棒に「俺はこいつに暴力を振るわれた!」とまるで被害者みたいに言われたことがあるそうです。(*^▽^*)/~~

 

のちにタクナで弟のライバルとなったテコンドーの先生(韓国の人でかなり強かったらしい)がいて、その人は、銀行よりレートの高い路上の不法両替屋で両替していた時、強盗に襲われて射殺されています。

 

この手の話ならことかかないペルーに40日以上いたとき、母や弟が何をしていたのかあまりよくおぼえていないのですが、その頃の私は、一日5時間前後の瞑想を欠かさずやっていた時期なので、ペルーでも、砂漠をオーバーヒートしそうな車で横断してチリへ行ったり、地平線の彼方までまで続いていそうな一本道を延々と走って、戦前に移民していた日本人の墓を参った時などを除けば、毎日5時間程度の瞑想は一日も欠かさずやっていました。

 

弟の家は三階建てで、バスルームとトイレが二つあって、奥さんと長男、長女、次女と、貧しい山間部から出稼ぎに来ている住み込みのインディオのお手伝いさんの6人暮らしで、私は長男の部屋を使わせてもらっていて、遠出するとき以外はそこで毎日5時間前後の瞑想していました。

 

私は肉魚卵を一切食べないベジタリアンだったので、食事のすべては弟の奥さん(カトリックのペルー人)がペルー料理を肉魚抜きで作ってくれました。ベジタリアン料理で一番おいしいと感じたのは、弟の奥さんの手料理です。単純に料理が上手ということもあるけど、ペルー料理そのものがベジタリアン料理として汎用性が高いのではないかと思っています。

 

ペルーには、インドのヨーガ行者が多くの弟子を「修行に役立つ高いエネルギの地がある」という理由で送り込んでいて、インドとの縁は浅くないのですが、弟の奥さんは「私は世界のいろんな国に行ってみたいけど(ペルーより貧しい)インドだけには絶対行きたくない」と言って、インドに対してはネガティブな印象しか持っていませんでした。

 

そんな弟の奥さんが、私たちの滞在が終わりに近づいたある日、弟を通して「瞑想を教えて欲しい」と言ってきました。

これには、おどろきました。

カトリックだし、インド嫌いだし、私の瞑想に興味を持っている様子など、全くな見せていなかったからです。

そして困りました。

なぜなら、私は日本語しか話せず、弟の奥さんはスペイン語しか話せず、瞑想について誰かに教えることは、日本人が相手でも非常に難しいことで、ましてや弟の通訳を介してとなると不可能だったからです。

 

しかし、瞑想に興味を持った彼女には、何か力になってあげたくなりました。

そう考えたとき思い浮かんだことは、サイババのアシュラムには多くの言語で書かれたヨガや瞑想に関する本があり、購入することができるはずだということでした。

 

問題は、その本を買うためにはサイババのアシュラムに行かなければならないということです。

そして、それが出来るのは私だけでした。

 

しかし私は、サイババを「神の化身を語る詐欺師だ」「ペテン師」だと決めつけ、そんなサイババを信じる人たちを「アホだ!」「馬鹿だ!」「糞だ!」と嘲笑っていた過去があるため、サイババのアシュラムに行く資格はないと思っていて、一生行かないつもりでいました。それでもインド聖者のアシュラムには一度行ってみたいと思っていて、もし行くことが出来るなら、サイババのアシュラムと同じ南インドになるラーマナ マハリシのアシュラムに行こうと思っていました。

 

そんなことを考えていた時、ふと「自分のためではなく、瞑想に興味を持った人に贈る瞑想の本を買うためであれば、こんな自分でもサイババのアシュラムに行っていいのではないだろうか」という気がしてきて、そうすることにしました。

 

その頃、サイババのアシュラムに関する情報は、サティヤサイ出版協会から年6回発行される「サイ ラム ニューズ」という小雑誌から得ていて、サイ ラム ニューズには、毎号、サイババのアシュラムへで行われるお祭りやイベントに合わせたのツアーの案内チラシも同封されていて、私はその時、帰国した後送られてくるサイ ラム ニューズに同封されているツアーがどのようなものであったとしてもそれに参加してサイババのアシュラムに行き(そのツアーに参加しなければ、そのまま一生行かないだろうと思ったからです)、スペイン語で書かれた瞑想の本を買って帰り、弟の奥さんに小型包装物で送ろうと心に決めていました。

 

帰国後に届いたサイ ラム ニューズに同封されていたツアーは、仏教徒の祭典である「ブッダプールニマ」に参加するためのものでした。

私は今も昔も無宗教者であり、仏教徒であると思ったことはなかったので、参加していいものかどうか迷ったのですが、問い合わせると「日本人はキリスト教徒であっても、便宜的に仏教徒として扱われるので、問題ない」ということだったので参加することにしました。

その時の体験談は過去記事「サイババを知った後の世界」に書いていますが、その時は、サイババのアシュラムを訪れるのはその時の一度限りにしようと思っていました。

しかしその年のうちに、もう一度サイババのアシュラムに足を運んでいます。

なぜかと言うと、最初の時に買って帰った4冊~5冊の本の半数が、スペイン語の本ではなくポルトガル語の本だったことが後にわかったからです。

 

そのためもう一度、前回おとずれたホワイトフィールドにあるアシュラムよりはるかに大きく、多くの本が置かれている本屋のあるプッタパルティのアシュラムに行き、スペイン語で書かれた瞑想の本+サイババの本を買いに行こうと思ったのです。

 

そしてそこで、その後の人生を決定するさまざまな体験をすることになったのです。

 

私だけでなく、そのことは、…「世界のいろんなところには行ってみたいけど、インドだけはぜったい行きたくない」と言っていた弟の奥さんが、サイババのアシュラムにペルーのサイセンターの人たちと一緒に行き、その時のアシュラムが、古参の帰依者たちが予定を切り上げて帰国するほどカオスに混雑した状況になっていたにもかかわらず、彼女だけは最後まで居残って「まるでキリストがいた時代に迷い込んだみたいで素晴らしかった。もっといたかった。もう、世界のどこにも行きたくない。行きたいのはインドだけ!」言うようになる(実際に、事情が許す限り何度もサイババのアシュラムを訪れています)、大きな影響を与えるものとなったのです。

 

 

今回の記事は以上です。

 

みんな幸せになりますように。

サイラム<(_ _)>