My Soul Sanctuary☆~"a"style~

My Soul Sanctuary☆~"a"style~

現在、全てテスト段階、調整段階。再開、再始動はまだ先。

 ~ありがとうございます 星 愛~ leafy15
...............................the only way that's gonna be right
「 秋を切なさを哀愁を好む、すべての人と、そして共に‥ by Leafy-μ 」

ʕ◍'౪`◍ʔ۶✧˖°
炎上は、
水槽のヒビみたいなものだ。

最初は小さい。

誰かが、
「これ、おかしくない?」と呟く。

そこへ、
「たしかに」 が集まり、
「酷い」 が混じり、
「許せない」が流れ込み、
気づけば、水は町中へ溢れている。



市立東葉中学校の教師、
柏木誠が炎上したのは、
六月の終わりだった。

動画は二十秒だった。

『お前、自分が
何をしてるかわかってるのか』

低い男の声。

怯えた女子生徒の泣き声。

それだけ。

前後は切れていた。

だが、
人々には十分だった。

『また教師の圧力』
『昭和脳』『子供の人権侵害』

瞬く間に拡散され、
柏木の顔写真まで出回った。



ラーメン屋「大黒軒」の店主、
三宅修司も、その動画を見た。

閉店後。
疲れた身体でビールを飲みながら。

「今どき、こういう教師いるんだな」

独り言のように呟き、
そのままSNSへも書き込んだ。

深い意味はなかった。

正義感ですらない。

ただ、
“少し嫌なものを見た”
程度の感覚だった。



翌朝。

テレビでも取り上げられていた。

コメンテーターたちが並ぶ。

「子供に寄り添う視点が必要ですね」

「昭和型教育の限界でしょう」

「自己肯定感を
傷つける指導は危険です」

誰もが、綺麗に語った。

修司は
ラーメンの仕込みをしながら頷く。

「まあ、そうだよな」

言葉は滑らかだった。

整理され、  
わかりやすく、  
飲み込みやすい。

まるで、最初から答えが
決まっているみたいだった。



その頃。

柏木は学校で、
自宅待機を命じられていた。

問題の生徒は、
二年生の長谷川里奈。

クラス内で、
ある女子生徒を孤立させていた。

LINEで外し、陰で笑い、泣けば、
「そんなつもりじゃありません」
と言う。

柏木は、叱った。

本気で。

嫌われても
止めなければならないと思った。

だが、その場にいた誰かが録音し、
一部分だけが切り取られた。

今、世間が見ているのは、
二十秒の柏木だけだった。



夜。

修司はスマホを見ながら、
ふと、AIアプリを開いた。

最近流行っている対話型AIだった。

『今回の教師炎上問題について、
わかりやすく解説してください』

入力する。

数秒で答えが返ってきた。

『今回の問題は、
旧来的な威圧型教育と、
現代的な子供の人権意識との
衝突と考えられます』

『教師側には
感情的指導の問題があり、
生徒側には心理的安全性への
配慮が必要です』

『SNS時代では、教育現場にも
透明性が求められています』

修司は、
「なるほどな」と思った。

簡潔だった。

賢そうだった。

わかりやすかった。

だから、その文章を切り取り、
SNSへ貼った。

《AIでもこう分析してる》



その投稿には、
数千件の“いいね”がついた。

『やっぱり教師が古い』
『AIは公平』
『感情論より信頼できる』

修司は少し気分が良かった。

自分が、
“正しい側” にいるような気がした。



数日後。

別の記事が出た。

『被害生徒、転校』

さらに。

『炎上教師、家族も誹謗中傷被害』

柏木の高校生の娘が、学校で、
「お前の親、ヤバくね?」
と言われたという。

修司は、
その記事を開いて、
少しだけ眉をひそめた。

だがコメント欄では、

『自業自得』
『被害者面するな』
『教師一家なんだから当然』

そんな言葉が並んでいた。

修司は画面を閉じた。

何だか疲れた。



その夜。

店は暇だった。

雨が降っていた。

カウンター席に、
一人の男が座る。

濡れたワイシャツ。
疲れ切った顔。

「味噌ラーメン」

修司は、
顔を見て気づいた。

柏木だった。

スマホの中で何度も見た顔。

だが、実物は違った。

そこにいたのは、
“炎上教師” ではなく、
ただ、くたびれた中年男だった。

柏木は黙って食べた。

時々、小さく咳をした。

食べ終えると、
「ごちそうさまでした」
とだけ言って、出ていった。

雨の中へ。



修司は、
しばらく暖簾を見ていた。

スマホが震える。

通知。

『教師炎上、新展開』
『専門家が徹底分析』
『AIが示す現代教育の課題』

修司は、
不意に気持ち悪くなった。

あの男の、
疲れた背中を思い出す。

テレビの識者たち。
ネットの怒声。
自分の書き込み。

AIの整った文章。

全部が、
誰かを理解している
“つもり” で動いていた。

けれど。

本当に、
あの教室の空気を知っている人間は、
どれだけいたのだろう。



修司は、
ふとAIアプリを開いた。

画面には、
『何かお手伝いしましょうか?』
と表示されている。

その文章は、
妙に優しかった。

優しく、賢く、
迷いがなかった。

だからこそ、少し怖かった。

叩く手の痛みも、
叩かれる心の痛みも知らず、
それでも答えだけは、
いくらでも返せる存在。

修司は、
しばらく画面を見ていた。

やがて静かに、スマホを伏せる。

店の外では、雨が降り続いている。

誰も悪人には見えない夜だった。

それなのに。

町のどこかで今日も、
誰かが、正しさの形をした石を、  
軽い指で投げているのかも

しれなかった。






午後十時過ぎ。

ラーメン屋「大黒軒」の
暖簾を下ろしたあと、
店主の三宅修司は、
いつものようにスマホを開いた。

疲れている時ほど、
人は意味もなく画面を見る。

そこには今日も、
誰かの炎上が流れていた。

『中学校教師、生徒を恫喝か』
『録音音声あり』
『被害生徒は不登校』

修司は鼻を鳴らした。

「またか」

カウンターを拭きながら、
動画を再生する。

途中で切り取られた音声。

『お前、
本当にそれでいいと思ってるのか』

男の声が響く。

コメント欄は荒れていた。

『教師失格』
『昭和脳』
『こういう奴が子供を追い詰める』
『名前晒せ』

修司も、何となく書き込んだ。

《今どきこんな教師いるんだな》

それだけだった。

ほんの十秒。

煙草を一本吸うくらいの軽さだった。



その教師の名前は、柏木誠といった。

四十五歳。

中学教師。

妻と高校生の娘がいる。

記事には書かれていない。

当然だ。

ネットは、
人間の生活まで書かない。

怒りやすい形に削る。

燃えやすく整える。

その方が、
人が集まるからだ。



翌日。

学校には苦情電話が殺到した。

「こんな教師辞めさせろ!」

「子供の人権侵害だ!」

教頭は青ざめ、
校長は教育委員会へ頭を下げ、
柏木は会議室へ呼ばれた。

「しばらく自宅待機で」

そう言われた。

「ですが、私は――」

「今は刺激しない方がいい」

刺激。

まるで爆発物だった。



発端は、
一人の女子生徒だった。

二年生の長谷川里奈。

クラスメイトを無視し、
陰で笑い、LINEで追い込み、
それでも教師に問われれば泣く。

「そんなつもりじゃありません」

母親も似ていた。

「うちの子、繊細なんです」

その言葉を、
呪文のように繰り返した。

柏木は、里奈を叱った。

厳しく。

だが、それだけだった。

殴ってもいない。
怒鳴り散らしてもいない。

ただ、
「人を傷つけるな」 と言った。

その一部分だけが切り取られ、
拡散された。



夜。

修司はまた動画を見ていた。

再生数は増え続けている。

コメント欄には、
新しい正義が溢れていた。

『教師って権力者だからな』
『子供は弱者』
『こういう昭和の老害が
 日本をダメにした』

その中に、妙な投稿があった。

《被害者ぶってるけど、
この女子生徒の方が前からヤバかったぞ》

すると今度は、
里奈側への攻撃が始まった。

『性格悪そう』
『親も親』
『こういう女いるよな』

修司は、
少し嫌な気分になった。

だがスクロールは止めなかった。

次々流れる。

怒り。断罪。嘲笑。

誰も止まらない。



三日後。

里奈の母親が、
スーパーで盗撮された。

『炎上母、発見』

という文字付きで投稿された写真は、
一晩で数万件拡散された。

店員に怒鳴っていた、
という話だった。

本当かどうかは誰も知らない。

だが、人々は喜んだ。

悪人らしい姿を見つけたからだ。

『やっぱりモンスター』『娘も同類』

修司は、
そのコメント欄を見ているうち、
急に気分が悪くなった。

どこまで行くんだ、これは。

そう思った。

だが、その時ふと気づく。

自分も最初に石を投げた一人だった。



さらに数日後。

別の記事が出た。

『被害生徒、転校へ』

写真はなかった。

名前も出ていない。

だが修司は、
妙に胸が重くなった。

その子は今、
どこで何を見ているのだろう。

スマホを開けば、
自分の話題が並び、
知らない大人たちが、
勝手に怒り、勝手に裁き、
勝手に味方を名乗っている。

しかも、
そのほとんどが、
本当の自分を知らない。



雨の日だった。

修司の店に、
一人の男が入ってきた。

濡れたスーツ。
疲れた顔。

「……いらっしゃい」

男は黙ってラーメンを頼んだ。

修司は途中で気づく。

どこかで見た顔だった。

スマホの動画。

あの教師。

柏木だった。

修司の手が止まりそうになる。

だが柏木は、何も知らない。

ただ、静かにラーメンを食べている。

ひどく疲れた顔で。

スマホの中では、
“老害教師” だった男。

だが目の前にいるのは、
ただ疲れ切った、
一人の中年男だった。

食べ終えると、
柏木は小さく頭を下げた。

「……ごちそうさまでした」

それだけ言って、店を出た。

修司は、
しばらく暖簾を見ていた。

雨が降っている。

スマホには、
今も通知が来ていた。

『新展開!』『炎上教師の現在!』

修司は画面を閉じた。

店内には、
湯気だけが残っている。

あの時。

自分は何をしたのだろう。

ほんの一言。

軽い気持ちだった。

だが、ああいう無数の
「軽さ」が積み重なって、
人を沈めていくのではないか。

そう思った瞬間。

修司は、自分の指先が
少し汚れているような気がした。

外では、
雨の中を学生たちが
笑いながら走っていく。

誰も悪人には見えない。

それなのに。

町は時々、妙に冷たかった。



『錆びた自転車と、味噌汁の湯気』

古い団地の階段は、
夜になると音をよく響かせた。

四階まで上がってくる足音だけで、
「誰が帰ってきたか」を
住人たちはだいたい察する。

疲れたサラリーマンの足音。
酔っぱらいの足音。
走る子供の足音。

そして。

乱暴に、
わざと響かせるように
上がってくるその足音は、
大抵、遥斗だった。

午後十時半。

台所では、鍋の底で味噌汁が
弱々しく温め直されている。

父親の隆志は、
換気扇の下で煙草を吸うのを
やめて久しかったが、
それでも癖のように、
時々そこへ立った。
何かを考える時の場所だった。

玄関のドアが蹴るように開く。

「……ただいま」

声だけは小さい。
だが、靴は乱暴に脱ぎ捨てる。

「おい」

隆志は振り返った。

「何時だと思ってる」

「別に」

「別にじゃない。連絡くらい入れろ」

「うっさいな」

遥斗は冷蔵庫を開け、
水を一気に飲んだ。

高校二年になってから、
息子は急に背が伸びた。

目線が近くなったぶん、
生意気さだけが余計に目立つ。

「お前な、その口の利き方――」

「父親みたいな顔すんなよ」

ピシリ、と空気が割れた。

団地の窓ガラスが、
風で小さく鳴る。

隆志の眉が動いた。

「……何だと」

「いつも仕事仕事で
家にいなかったくせに。
今さら父親ヅラ
すんなって言ってんだよ」

遥斗は吐き捨てるように言った。

「母さんが死んだ時だって、
あんた、ずっと
仕事してたじゃねえか」

その瞬間だった。

バン、と食卓を叩く音がした。

味噌汁の鍋蓋が跳ねる。

「言っていいことと
悪いことがあるぞ!!」

隆志の怒鳴り声は、
自分でも驚くほど大きかった。

遥斗も負けじと睨み返す。

「じゃあ
殴れよ!! 昔みたいに!!」

沈黙。

ほんの数秒。

だが、その沈黙は長かった。

隆志の拳は震えていた。

遥斗の喉も、小さく上下していた。

どちらも、
本気で殴りたいわけではないことを、
どちらも知っていた。

それでも、引けなかった。

引いた瞬間、
何かが終わる気がしたからだ。

「……クソが」

遥斗は舌打ちし、自室へ向かった。

古い襖が乱暴に閉まる。

団地の天井から、ドン、
と鈍い音が返ってきた。

上の階の住人が、
きっとまた眉をしかめている。

だが、隆志は動かなかった。

味噌汁の湯気だけが、
しん、と漂っていた。



遥斗の母が死んで、三年だった。

癌だった。

見つかった時には、もう遅かった。

隆志は働いた。

とにかく働いた。

悲しむ暇を潰すように。

考えないために。

止まると、
自分まで壊れそうだった。

だが、その間に、
息子は勝手に大きくなっていった。

ある日気づけば、
父親を睨む目を覚えていた。

それが、隆志には少し怖かった。

遥斗もまた、怖かった。

父親が老けていくのが。

疲れていくのが。

時々、
誰もいない居間で、
ぼうっと座っているのが。

だから余計に、突っかかった。

乱暴な言葉でも投げなければ、
この家の空気は
止まってしまいそうだった。



その日、学校から電話が来た。

遥斗が駅前で
喧嘩騒ぎを起こしたという。

相手は大学生だった。

警察も来ていた。

だが、
途中で駆けつけた教師が間に入り、
大事にはならなかった。

職員室。

若い教師が、
神妙な顔で言った。

「ご家庭でも、
かなりストレスが
溜まっているようで……」

隣で、遥斗は黙っていた。

「必要であれば、
専門機関や相談窓口もあります。
第三者が介入した方が――」

その言葉を聞いた時。

隆志の胸の奥で、
何かがギリ、と軋んだ。

ああ、この人たちは。

悪気はないのだろう。

きっと善意なのだ。

だが。

この家の夜を知らない。

味噌汁を二人分作って、
結局一人で食った夜を知らない。

妻の遺影の前で、
息子が泣いているのを、
見て見ぬふりした夜を知らない。

怒鳴り合ったあと、
互いの気配を確認するように、
深夜まで起きていたことも知らない。

家族というのは、もっと泥臭い。

もっとみっともない。

綺麗な理屈だけでは測れない。

「……先生」

隆志は低く言った。

「こいつは、
確かにバカです。
口も悪い。私も未熟です」

遥斗が少し顔を上げた。

「でも」

隆志は続けた。

「うちは、まだ家族なんです」

教師は少し黙った。

それ以上、何も言わなかった。



帰り道。

商店街はほとんど
シャッターが閉まっていた。

昔ながらの豆腐屋だけが、
明かりをつけている。

遥斗がぽつりと言った。

「……あの大学生」

「ん?」

「小学生、突き飛ばしてたから」

隆志は黙って聞いた。

「泣いてたんだよ。あのガキ」

遥斗は鼻をすすった。

「なんかムカついて」

それだけ言って、口を閉ざした。

隆志は、小さく息を吐いた。

「そうか」

少し歩いてから。

「お前、昔もそうだったな」

「は?」

「公園で、
デカい犬に吠えられてるガキ庇って、
逆に噛まれて泣いてた」

「……覚えてねえよ」

「嘘つけ」

遥斗は顔を背けた。

街灯が、
その耳だけ赤く照らしていた。



夜中。

隆志が便所へ起きると、
ベランダに人影があった。

遥斗だった。

ジャージ姿で、
古い自転車を見下ろしている。

母親が生きていた頃、
一緒に練習した自転車だった。

何度転んでも、
泣きながら乗ろうとしていた。

「……寝ねえのか」

声をかけると、
遥斗は少し驚いた顔をした。

「別に」

「その“別に”やめろ」

遥斗が少し笑った。

本当に少しだけ。

隆志は隣に立った。

五月の夜風は、少し冷たい。

「父さん」

遥斗がぽつりと言った。

「俺さ」

「うん」

「もし俺が、いなくなったら」

隆志は眉をひそめた。

「お前」

「違ぇよ」

遥斗は苦く笑った。

「なんか今日、
警察来てさ。急に思っただけ」

沈黙。

「父さん、一人になんのかなって」

その声は、幼かった。

反抗期の声ではなく、
小さい頃、熱を出した夜の声に近かった。

「……バカ」

隆志は言った。

「お前がいなくなったら、そりゃ困る」

「困る程度かよ」

「かなり困る」

遥斗が笑った。

今度は、ちゃんと笑った。

「飯もまずくなるしな」

「それは元々だろ」

「うるせえ」

二人は並んで、
しばらく黙っていた。

遠くで電車の走る音がした。

どこかの家の風鈴が鳴っている。

生きている町の音だった。



数ヶ月後。相変わらず、
親子喧嘩はある。

「だから靴下
ひっくり返すなって言ってんだろ!」

「細けえなあ!」

「誰が洗ってると思ってんだ!」

「はいはい!」

団地の階段には、今日も声が響く。

近所の婆さんは、
「またやってるよ」と苦笑している。

だが、その声が聞こえる日は、
不思議と少し安心するのだった。

ある雨の日。

隆志が帰宅すると、
台所に鍋が置いてあった。

焦げかけた肉じゃが。

明らかに失敗作だった。

だが、
横にメモがある。

『味うすかったら勝手に足せ』

隆志はしばらく、その紙を見ていた。

そして、小さく笑った。

窓の外では、
古い団地の灯りが、
雨に滲んでいる。

家族というものは、
綺麗にはまとまらない。

怒鳴る夜もある。

言いすぎる日もある。

顔も見たくない時だってある。

それでも。

帰る場所を
失いたくないと思ううちは、
人はまだ、
ちゃんと繋がっているのかも

しれなかった。




雪は、音を消す。

吹雪いているわけでもないのに、
山あいの町には、
しんしんと白いものが降り積もり、
人の言葉や、ため息や、昔の後悔まで、
静かに覆い隠していく。

北海道・道北。

名寄へ抜ける国道から外れた先に、
「志深内(しぶかない)」という
小さな集落がある。

かつて炭鉱と木材で賑わったその土地も、
今は老人ばかりが残り、 冬になると、
夕方五時には町ごと眠ったように暗くなる。

六十二歳の柴崎良平は、
そこで木工小屋を一人でやっていた。

椅子や棚を作る。
たまに古い家具の修理も請ける。

無口な男だった。

別に怒っているわけではない。
ただ、人より少し、言葉が遅い。

返事をする前に、
一度、胸の奥で考えてしまう癖がある。

だから若い頃は、よく誤解された。

東京で修行していた時も、
「愛想がない」「怖い」「時代遅れだ」
と言われ続けた。

結局、四十手前で北海道へ戻った。

妻は十年前に病気で亡くなり、
今は一人息子の悠真だけが、
たまに顔を見せに来る。

その夜も、
工房の薪ストーブが赤く燃えていた。

鉄の上に載ったやかんが、
コトコトと小さく鳴っている。

良平は鉋の刃を研いでいた。

砥石を滑る、
シャ、シャ、という音だけが、
薄暗い工房に響いている。

向かいでは、
悠真がスマートフォンを
見ながら苦笑していた。

「また始まってるわ」

「何がだ」

「炎上」

悠真は画面を父に向けかけて、
やめた。

どうせ良平は、
SNSなんて見ない。

「昔、子供を厳しく
育てた監督がいたらしくてさ。
その話が今になって掘り返されてる。
“虐待だ”とか、“昭和は異常だった”とか」

良平は黙ったまま、砥石に水を足した。

「父さんさ」

悠真が、
少しだけ笑いながら言った。

「俺、殴られたことあったっけ」

良平の手が、
ほんのわずか止まった。

薪が爆ぜる。

赤い火が、
二人の顔をゆらゆら照らした。

「……あったな」

「やっぱあったか」

悠真は笑った。

責めるような顔ではなかった。

思い出話をする時の、
少し遠くを見る顔だった。

「小六の時だべ? 俺、
隣の爺さんの犬、雪玉ぶつけて泣かせて」

「犬だけじゃねえ」

良平は低く言った。

「爺さんも泣いてた」

悠真は苦笑した。

あの頃、
近所に一人暮らしの老人がいた。

耳が遠く、
いつも犬とだけ話していた。

子供だった悠真たちは、
それを面白がった。

雪玉を投げ、
吠える犬を見て笑っていた。

良平はその話を聞いた夜、
珍しく激怒した。

悠真の頬を叩いた。

たった一発だった。

だが悠真は、
あの時の父の顔を忘れていない。

怒っていたというより、
悲しそうだった。

「……痛かったわ、あれ」

悠真が言う。

「お前より、俺の方が痛かった」

良平は、ぽつりと言った。

それ以上は続けなかった。

だが悠真には分かった。

あの時、父は怒鳴りながら、
どこか泣きそうだった。

雪国の親というのは、
案外そういうところがある。

不器用だ。

優しい言葉を並べるより、
黙って除雪する。

説教するより、
壊れたストーブを直す。

愛情を言葉に出来ない代わりに、
吹雪の中でも迎えに来る。

「今はさ」

悠真が缶コーヒーを開けながら言った。

「誰も本気で怒んないよな」

「……そうか」

「職場でも、
“気づきを促します”とか、
“寄り添います”とか、
そういう言い方ばっか」

少し笑ってから、悠真は続けた。

「いや、それ自体は
悪くないんだろうけどさ。
でも時々、誰も腹の底では
関わってない感じするんだよ」

外では風が鳴っていた。

窓ガラスに雪が当たる音が、
細かく続いている。

「本気で怒るって、
体力いるんだなって最近分かったわ」

悠真が呟く。

「嫌われる覚悟いるし。
下手すりゃ自分も傷つくし」

良平は何も言わなかった。

ただ、ストーブに薪を一本くべた。

火が大きく揺れ、
工房に白樺の香りが広がる。

昔、妻が言っていた。

「良平さんって、火みたいな人だね」

近づけば熱い。
不器用で、煤だらけで、扱いも難しい。

でも、凍えそうな時には、
ちゃんと人を温める。

そんな意味だったのかもしれない。

「そういやさ」

悠真が急に言った。

「春になったら、結婚するわ」

良平は顔を上げた。

「……そうか」

「うん」

「相手は」

「看護師。よく笑うやつ」

少し間があった。

悠真は照れ臭そうに鼻をこすった。

「父さんに、会わせたいと思って」

良平は、何か言おうとしてやめた。

代わりに、火箸で薪の位置を直した。

ぱちり、と火の粉が散る。

「……飯くらいは作る」

「それ、逆に不安だわ」

悠真が吹き出した。

良平も、少しだけ笑った。

笑うと、目尻に深い皺が寄る。

歳を取ったな、と悠真は思った。

昔は大きく見えた背中が、
今は少し小さい。

それでも、吹雪の中を歩く時、
自分は未だに、この男の背中を思い出す。

帰り際、悠真は工房の隅を見た。

古い鉋。使い込まれた鑿。
煤けたストーブ。

どれも傷だらけだった。

だが、長く使われたもの特有の、
静かな温かさがあった。

人間も同じなのかもしれない、
と 悠真は思った。

傷がない人間より、傷を抱えたまま、
誰かを温めようとする人間の方が、
たぶん、少し優しい。

数日後。

工房に小包が届いた。

中には、白樺樹液を使った
手荒れ用のクリームと、
短い紙切れが入っていた。

『親父、手、割れてたから』

それだけだった。

良平は、
しばらくその紙を見ていた。

外は夕暮れだった。

雪原の向こう、
遠くの山が青く沈み、
空には一番星が出ている。

良平はクリームを指先に塗った。

木で裂けた掌に、
じわりと染み込んでいく。

少し痛かった。

けれど、その痛みは、
嫌な痛みではなかった。

人はたぶん、
誰かに傷つけられた記憶だけで
生きているわけじゃない。

その後で、誰かがそっと
手を握ってくれた温もりも、
ちゃんと身体は覚えている。

薪ストーブの火が、静かに揺れていた。

外の世界では今日も、誰かが誰かを裁き、
正しさを叫んでいるのだろう。

だが、
この小さな工房の火だけは、
勝ち負けとも、
正論とも違う場所で燃えていた。

人が人を育てるという、
不格好で、迷いだらけで、

それでもどこか温かい営みのために。






夕暮れの京都には、
時々、人を試すような静けさがある。

騒がしい観光客の声も、
河原町の灯りも、
ひとつ角を曲がれば急に遠のいて、
古びた石畳の上に、
誰かの暮らしだけが残る。

鴨川沿いの風は、
春でもどこか冷たく、
気取った人間には案外容赦がない。

私はその頃、
「失敗しない人間」になろうとしていた。

誰にも嫌われず、誰にも睨まれず、
どこにも波風を立てない。

それが大人の賢さだと、
半分、本気で思っていた。

実際、
世の中はそういう人間を褒める。

空気を読み、 角を立てず、 正論を並べ、
「配慮がありますね」と言われる人間を。

けれど、そういう言葉ばかり浴びていると、
人間の声は、だんだん骨を失っていく。

私は鴨川近くの工芸店で、
店のブログを書いていた。

暖簾をくぐると、
白檀と古い木の匂いが混じる、
小さな店だった。

観光雑誌に載るような派手さはない。

ただ、
店の奥に置かれた鉄瓶の湯気や、
夕方になると西日で赤く染まる
京扇子の骨組みに、
妙な色気がある店だった。

店主の千代さんは、
七十を越えていたが、
妙に背筋の綺麗な人だった。

愛想笑いをしない。

けれど、
冷たいわけでもない。

「人を見る目だけが、
年季物なんやろな」と思わせる人だった。

その日も私は、
店のブログを前に唸っていた。

『京の伝統技術を用いた、
上品で洗練された逸品――』

書いている途中で、
自分でも嫌になった。

まるで、 どこかの会社の
会議室から出てきたような文章だった。

傷つけない代わりに、
何ひとつ残らない。

その時だった。

「なんやそれ。
仏さんの戒名みたいな文章やな」

背後から、
千代さんの声が落ちてきた。

私は思わず吹き出した。

「そんなに酷いですか」

「酷いというより、 生きてへんな」

千代さんは、
私の画面を覗き込みながら、
小さく鼻を鳴らした。

「減点されへん文章ばっかり書いてたら、
そのうち人間まで減点方式になるで」

その言葉が、
妙に胸に残った。

千代さんは続けた。

「最近はみんな、 賢う見られたがる。
失礼のないように、 炎上せんように、
誰にも睨まれへんように。

せやけどな、
ほんまに利口な人間いうのは、
ちゃんと“響き”があるんや」

そう言って、
店先に並んだ扇子を一本開く。

ぱちん。

乾いた小気味いい音が、
静かな店に響いた。

「あんた、
この音の違い分かるか」

「え?」

「一本一本、
全部違うんやで。
職人の癖が残るからな。

綺麗に揃えただけのもんは、
だいたい音が死ぬ」

私は少し黙った。

最近、 そんな話をする人に、
ほとんど会わなかった。

世の中には、
“正しい言葉”ばかり増えた。

けれど、 “その人の声”は、
逆に減っている気がした。

千代さんは、
湯呑みを差し出しながら言った。

「京都のイケズもな、
昔はもっと洒落てたんや」

「洒落、ですか」

「せや。 ただの悪口やない。

相手がどこまで受け取れるか、
どこまで返してくるか、
会話で遊んどったんや。

頭の悪い人間には、
イケズは成立せえへん」

その言い方が、
妙に京都らしかった。

「今はなんでも、
すぐ“問題”になるやろ」

千代さんは、
少し遠くを見るように笑った。

「人を傷つけたらあかん。
配慮しましょう。 優しくしましょう。

そら結構なことや。

けどな、 世の中から毒まで全部抜いたら、
最後は人間の旨味まで消えるんやで」

私は返事ができなかった。

たぶん、 図星だったからだ。

私はずっと、
“感じのいい人間”になろうとしていた。

だが本当は、
嫌われるのが怖かっただけだった。

誰かに「浅い」と思われることも、
「つまらない」と見抜かれることも。

だから、
最初から無難な場所へ逃げ込んでいた。

千代さんは、
棚から藍色の京扇子を一本抜いた。

「これ、あんた好きやったやろ」

私は頷いた。

竹の骨が異様に滑らかで、
開いた時の手触りが、
妙に艶っぽい扇子だった。

「なんで好きなん」

「……なんか、
涼しいだけじゃない気がして」

「それを書き」

千代さんは即座に言った。

「伝統がどうとか、 歴史がどうとか、
そんなん後から付いてくる。

あんたが心動いた理由を書き」

そして少し笑う。

「多少、生意気なくらいで丁度ええ」

千代さんが店を出たあと、
私はしばらく扇子を見ていた。

夕暮れの光が、
藍色の紙に滲んでいる。

私は香炉の白檀を少しだけ移し、
そっと扇いでみた。

甘い香りが、 川風に混じる。

その瞬間だった。

“正しい説明”ではなく、
“体験”を書けばいいのだと思った。

私はパソコンを開き直した。

『夕暮れの鴨川で、
少し世間に疲れた日に開いてください。

白檀の香りが、
あなたを少しだけ
世間の正論から隠してくれます。

これは、 行儀のいい人のための
扇子ではありません。

少しだけ、
人生に悪戯心を残した
大人のための扇子です』

書き終えたあと、
私は妙に肩が軽かった。

綺麗にまとめるのをやめた時、
ようやく、
自分の言葉が戻ってきた気がした。

夜、 店を閉めて鴨川を歩く。

川面には、
街の灯りが揺れている。

鴨川の水は、
昔から変わらない。

馴れ合わない。

媚びない。

だからこそ、
あの川は美しいのだと思う。

何でも受け入れる水は、
たぶん、 もう川ではない。

ただの濁った溜まり水だ。

その時、 昼間に投稿したブログへ、
一通の注文メールが届いた。

『久しぶりに、 ちゃんと
人の書いた文章を読んだ気がしました』

短い文だった。

けれど、 妙に嬉しかった。

私はカバンの中の扇子を少し開く。

ぱちん。

小さな音が、
夜の川沿いに響いた。

その音は、
減点されないための音ではなかった。

ちゃんと、 誰かに届く音だった。