【解説】
正しい言葉を、と彼は言った。

曖昧さを許さない人が来てから、
その職場では、何かが少しずつ
変わっていった。

それが何だったのか、最後まで、
彼自身にもわからなかったのかも
しれない。

【本編】
新幹線のドアが開くと、
東京の匂いがそのまま
滑り込んできたような気がした。

東京本社から
赴任してきた新しい課長、
早瀬の履歴書には、
余計な空白がひとつもなかった。

学歴、資格、実績。

そのどれもが
定規で引いたように美しく、
朝礼の壇上に立つ彼の背筋もまた、
見事なほど真っ直ぐだった。

「私は、
 曖昧な表現を好みません。
 ビジネスにおける言葉は
 正確であるべきです。

 誰が聞いても
 ひとつの意味にしかならない、
 再現性の高い言葉を選びましょう。

 認識の齟齬は、
 組織の最大のロスです。」

ぱちぱちと、
乾いた拍手がフロアに響く。

けれど、
部屋の隅のデスク。

定年をとうに過ぎ、
今は相談役として週に
数日だけ顔を出す七十二歳の
吉木辰造だけは、お気に入りの
分厚い湯呑みをトン、と机に置いて、
小さく息を漏らした。

「そら、
 えらい難儀なこっちゃな。」

早瀬の耳は、
その呟きを逃さなかった。

「何か、不都合でもありますか。
 相談役。」

「いやな、課長さん。
 言葉いうんは、人によって
 違うように聞こえるからこそ、
 商売もおもろいんやないかと
 思いましてな。」

「仕事に面白さは必要ありません。
 必要なのは正確性です。」

辰造は「ほうでっか」とだけ言って、
ぬるくなったお茶をすすった。



その日の昼下がり、
早瀬が窓際の席で資料に目を通していると、
辰造のデスクから低い声がした。

「ん、ぼちぼちですわ。」

若手社員が何か尋ねたらしい。

「せかす言うても、
 実らんもんは実らんのや。
 かめへん、かめへん。」

辰造はポケットから飴を一つ取り出し、
若手社員の掌にことりと乗せた。

「飴ちゃん、食べとき。」

早瀬は書類の陰から、
その一部始終を眺めていた。

頷きも相槌も、飴玉ひとつも、
彼の目には座標の定まらない
曖昧な記号としか映らなかった。

彼はただ、それを見た、
という事実だけを胸にしまい、
資料に視線を戻した。



翌日、
早瀬は地元の古い取引先との
商談に同席した。

応接室に現れた主人は、
いかにも年季の入った商人の顔で、
座るなり破顔した。

「いやいや、遠いところを。
 ……で、近頃は儲かってまっか。」

挨拶代わりの、
ただの挨拶だった。

しかし早瀬は、
待ってましたとばかりに胸を張った。

「はい。前年比
 七・八パーセントの微増で
 推移しております。」

しん、
と部屋の空気が凍りついた。

主人は差し出しかけた
湯呑みを宙で止め、
面食らったようにまたたきをする。

辰造が、ゆっくりと
自分の湯呑みを持ち上げた。

「……うちの新しい課長さんは、
 嘘のつけん、実にお堅いお人でしてな。
 お恥ずかしい。」

ははは、
と主人が笑い声をあげた。

凍りついていた空気が、
その一言で一気に溶けていく。

「いや、頼もしい課長さんや。」

商談は、
そこから何事もなかったかのように
円滑に進んだ。

帰り道、
御堂筋の街路を歩きながら、
早瀬は納得がいかないという風に
眉間を割っていた。

「数字で正確に答えて、
 何が悪いのですか。
 事実です。」

「悪うはない。
 何一つ悪うはないよ、
 課長さん。」

辰造は、
せかせかと歩く早瀬の後ろを、
のんびりとついていく。

「せやけどな、
 あれは数字を聞いてるんやのうて、
 人柄を聞いてるんや。」

「……私には理解できません。
 質問には事実に基いて
 答えるべきです。」

「答えてる
 やないですか。」

「数字を、ですか。」

「いや、人柄を。」

早瀬は足を止め、振り返った。

しかし、
老人の穏やかな目を見つめているうちに、
何を反論すべきか分からなくなり、
また前を向いて歩き出した。

御堂筋の銀杏並木の影だけが、
二人の後をゆっくりと追いかけていた。



数日後の昼、
社員食堂は賑わっていた。

「今日は、かしわにしとき。」

新入社員は勢いよく立ち上がり、
食券売り場へと走っていった。

十分後、
戻ってきた彼の手には、
白い皿に盛られた柏餅が二つ、
ちょこんと乗っていた。

周囲のテーブルの動きが、
ピタリと止まる。

新入社員は自分の手元と
メニューを何度も見比べ、
やがて大きな勘違いに気づいた。

顔が耳まで真っ赤になっていく。

「す、すみません。
 今すぐ買い直してきます。」

うつむく若者の手から、
辰造は皿をそっと引き寄せた。

「お、美味そうな餅やないか。
 ほな、お茶でも入れよか。
 鶏は逃げたけど、ここに春が来たわ。」

ぷっ、と誰かが吹き出し、
それが合図となって食堂全体に
どっと温かな笑いが広がった。

辰造は柏餅を眺めながら、

「これも、
 なかなか羽根は生えまへんなぁ。」

パーテーションの向こうで
日替わり定食を食べていた早瀬だけは、
箸を置いて立ち上がった。

帰り際、
彼は辰造のデスクに立ち寄った。

「間違いを笑いでうやむやにするのは、
 教育上、適切ではないと考えます。」

辰造は少し驚いたように、
それから穏やかな目で早瀬を見た。

「みんなが笑うたんは、
 間違いそのものやない。

 自分にもそんな
 不器用な頃があったなぁ思て、
 愛おしうなったんですわ。

 言葉のすれ違いをな、
 全部『バグ』言うて
 片づけてしまわはるんも、
 それはそれで一つの答えやとは
 思います。」

「効率的だと思います。」

辰造は湯呑みの底を
覗き込むように笑った。

「せやけど、
 バグいうんは、
 元は虫のことでっしゃろ。
 虫にも、五分の魂
 言いますのになあ。」

早瀬には、
その意味がよく分からなかった。

軽い冗談だと思い、聞き流した。



その夜、早瀬は一人、
オフィスのパソコンに向かっていた。

画面には、
彼が作成した通達書が映っている。

『社内コミュニケーションにおける
 語彙の統一について』

『誤認および
 業務ロスの発生を防ぐため、
 方言、俗称、および二義的な解釈を
 生じる表現の使用は極力控え、
 標準的な表現に統一すること。』

一分の隙もない、
完璧な文章だった。

早瀬は迷わず、
送信ボタンを押した。



翌朝、
掲示板にその書面が貼り出されると、
社員たちは一様に頷いた。

誰も反対しなかった。

それからの食堂は、
奇妙なほど静かだった。

「かしわ」を頼む声も、
「飴ちゃん食べる?」と
ポケットを探る音も消えた。

「ぼちぼち」「ええ塩梅」
「かめへん、かめへん」

それらの言葉はすべて、
「順調」「適切」「問題ありません」
という、耳を素通りしていく
記号に置き換えられた。

辰造は何も言わず、
ただ黙って味噌汁をすすっていた。

早瀬はその光景を眺め、
満足そうに手帳を閉じた。

「ようやく、
 統一性が取れました。」

「そうでんな。」

「何か、
 不満でも。」

「いや。言葉いうんは、
 不思議なもんでな、課長さん。
 揃えたら、一番よく伝わると
 思ってしまう。」

辰造は
空になった椀の底を見つめた。

「塩を入れすぎたらな、
 どんな上等な具材も、
 みんな同じ味になりますやろ。」



その日の午後、
オフィスに一本の電話が入った。

例の、古い取引先の主人からだった。

「あ、
 いつもお世話になっております。」

『いや、書類は見た。完璧や。
 不備なんか一文字もない。』

主人の声は、
電話越しでも分かるほど低く、
どこか他人行儀だった。

『ただな……
 前は、あんたんとこの
 会社と話してる気ぃがしてたん
 やけどな。

 最近届くメールも電話も、
 どうも自動音声と
 やり取りしてるみたいで、
 どうにも寂しいわ。』

ツーツーと、
無機質な音が受話器から漏れる。

担当者は
そのまま呆然と受話器を置いた。

オフィスは静まり返っていた。

辰造が、
ゆっくりと席を立った。

「ほな、
 お先に失礼しますわ。」

「相談役。」

早瀬の声だった。

「一つだけ。
 ……その、自動音声というのは。」

辰造は振り返らなかった。

ただ、夕暮れの光が差し込む
廊下の手前で、足を止めて言った。

「悪口やおまへん。
 ただな、心の置きどころがない、
 いうことですわ。」

その言葉だけを残して、
老相談役の背中は見えなくなった。



早瀬は自席に戻り、
自分が作成した完璧な規程書と、
先ほど取引先に送ったばかりの
メールの文面を、
もう一度読み返した。

どこにも間違いはない。
どこにも無駄はない。

そのとき、
ふと辰造の声が蘇った。

──虫にも、
五分の魂言いますのになあ。

あれは冗談では
なかったのかもしれない、
と早瀬は思った。

自分が「バグ」と呼んで
片づけてきたものの中に、
誰かの飴や、誰かの塩梅や、
誰かのぼちぼちが、確かに
息をしていたのかもしれない。

その文字の並びからは、
不思議なほど、
誰の顔も浮かんでこなかった。

自分の顔さえも。

早瀬は、
画面を閉じるボタンに
カーソルを合わせた。

けれど、
指は動かなかった。

送信済みのメールと、規程書と、
点滅するカーソルだけが、
暗くなっていくオフィスの中で、

いつまでも光り続けていた。