もうすぐ例の3.11一周年がやって来る。
 災害時には人と人との「助け合い」が必要になる。またもや人と人との「ふれあい」だ。災害時にはこれこそが大きな力を発揮するのだろう。しかし世の中には少数ながらこういう「ふれあい」がきわめて苦手な人間がいる。私など災害時にできることと言えば、多少の単純な力仕事ぐらいではなかろうか。その都度変化していく状況を的確に判断する能力もないし、人が協力しあってものごとを捌かなければならない場面では、人の助けになるどころかかえってお荷物にすらなってしまいかねない。平時ですら子供なのに、災害時の私は3歳児と同じくらいの能力しかないだろう。
 国立障害者リハビリテーションセンター内の発達障害情報センターが災害時の発達障害者への対応について、一般の人向けのパンフレットをまとめている。また日本自閉症協会も支援者向けと本人・家族向けの防災パンフレットを出している。しかし仕方のないことだろうが、おおよそ子供のことが中心である。 不規則な生活による不安から奇声を発する、順番を待っていられない、感覚刺激に過敏、痛みや危険な状況が理解できないなど、私には明らかにそれと分かるようなそうした問題はほとんどない。ただ体調と生活のリズムがどうしても頑固なマイペースになってしまって、それが周囲とのトラブルを招きかねない。すべてにおいて時間がかかる。それと運動機能が一般の人と違っていて、俗に言う「不器用」である。自分では静かに歩いているつもりでも大きな音を立てている場合があるようだ、何か人やものを避けようとすると別のものにぶつかってなおさら大きな失態を演じてしまう、自分の話し声がいつの間にか大きくなってそれに気づかない、こういったちょっとしたことをいくら列挙しても普通の人はまず「そんなこと誰だってありますよ」と相手にもしない。ところがここが発達障害を理解するかどうかの分かれ目になるのではないかと思う。「注意しなさい」「ぼんやりするな」とは子供の頃からさんざん言われてきた台詞だ。私はその言葉を真面目にとって実践しようとした。しかしどうしても普通の人のようにはできなかった。そこが普通の人にはどうしても理解できないらしい。結局は「不真面目だ」「心がけが悪い」とモラルの問題にすり替えられて一方的に非難される。一つ一つはちょっとしたことなのだ。ちょっとした違いなのだが、それが周囲の人に奇異な感じを抱かせ、果ては苛立たせる。
 私の行動パターンでありそうなのが、忙しい人に対して特定のことを細かくしつこく質問したり要求したりすることではないかと思う。全体の状況が読めずに、特定の一つのことだけについこだわってしまうのである。それが分かっているなら注意して言動を抑制できるではないかと普通の人は言いたいだろうが、その場、その時になるとどうしても似たような行動をとってしまう。その時々では自分なりに事柄の優先順位をつけて、重要な事柄を問題にしているつもりなのだから。自分のバランス感覚のなさについて後付けの理解ができたとしても、それは行動の学習にはつながらない。そしてそのことをいつも「努力が足りない」「心がけが悪い」となじられてきたのだ。

 私の場合特に問題なのは人との会話だろう。私のちょっとしたもの言いが相手の逆鱗に触れることは十分想像がつく。平時ですらそうなのだから、被災して人々が苛ついたり、過敏になったりしている時ならなおさらだろう。子供なら相手も多少は我慢してくれるかもしれないが、こちらが(見かけ上)大人だともう非難の嵐である。「あんたのような人は迷惑だからここから出て行ってくれ」もしそう言われたら私だって土下座してまで居たくはない。トラブルになった時妻が側にいたら、彼女の性格からして、ひたすら相手に謝るに違いない。そんな妻の姿は見たくない。災害時こそできるだけ人と接しないようにした方が賢明だ。こういう障害を持った人間のために、人に合わせなくてもいいような仕組みは考えだせないものだろうか。自閉症の子供のために車で何日も過ごしたという被災者の話は人ごとではない。私たちは車を所有していないから、最低限小さなテントか何かを用意しておくことを考えている。水と食料の確保、排泄の処理、衛生状態の保持、どれをとってもここ日本の都市部では完全に孤立して自足することは不可能だ。それに原発事故でこの地を立ち退きということにでもなれば、避難先ではますます人の情けに頼る部分が大きくなる。しかしそれでもできるだけ人と接することなしに、かつ最低限の物質的生存条件の確保、及び必要な情報へのアクセスが保障されるような仕組みはできないものだろうか。見かけは普通の大人であるだけに、これだけとことん役立たずのお荷物、かつトラブルメーカーだとは誰も思わないだろうから。
 非常時には障害のことをよく理解している人がどこに行っても一人はいるという具合になっているのが理想なのだろうと思う。理解者、協力者になってくれる人の存在は欠かせない。
 とか何とか私らしくもなく建設的な方向で書いたけど、こういう協力体制が必要なのは「障害があっても社会の片隅で生きていたいです」という健気さを持った自閉人だろうと思う。私は普段は傲岸不遜に「てめえら定型発達者の助けなんか借りたくねえよ」と言っている。もちろんその同じ自分が、非常時になると急に人の情けを当てにして、「どうか助けてください」と弱々しく懇願するかもしれない。人間のことだからその時になればどうなるか分からない。ただはっきり言えるのは、君たち定型発達者は、その時私が何をほざこうとも、こんな鼻持ちならない奴を生かしておく必要はないということだ。