社会学者の上野千鶴子が自己批判の記事を新聞に載せたというのを少し前に遅まきながら知った。福島の事故以前は何となく原発は危険なものだという認識を持ちながらも、正面から向き合わずにいた、そういう自分を反省したそうだ。これには感銘を受けた。言説の世界に生きる者として、彼女にはしっかりした覚悟がある、そう思った。だからこそ彼女には今反原発を語る資格がある。自分というものと真面目に向き合っているからだ。
 それに比べて私は何だ。原発は危険だし、やめるべきだという認識を持ち、それどころか反原発の運動に参加したことすらあるのに、もう随分前からそんなことは忘れたかのように、のほほんと沈黙して暮らして来た。それで福島の事故が起こると、またまた原発反対を唱えたりする。3.11以降のにわか脱原発派のことは問わないとして、問題は私自身のことだ。私の言葉はあまりにも軽い。戦争中はさんざん抑圧的な戦時体制に協力しながら、敗戦と同時に風向きを見て、ころりと自由と民主主義賛美に衣替えした、あの日本の教師や知識人と同じではないか。自分の過去と向き合わず、その都度の保身と自己都合だけで動いている低劣な人間、それが私だ。言葉というもの、それが織りなす世界に尊敬の念を払わず、ただ衣装としてだけ言葉を利用しようとしている軽薄なエゴイスト、それが私だ。言葉を扱う人間ならば、言葉というものには命を賭けるくらいの覚悟がいる筈なのに、何の覚悟もない。
 私という人間は、こういう自省の言葉すらも口先だけのものなのだろうと思う。言説の世界というのは、共同性の世界でもある。お互いにずれていながらも、どこかで噛み合う部分がないと、言説の意味がないからだ。以前の記事にも書いたが、共同性というものから切り離されている私は、自分だけの夢の世界に住み、表面的に言葉を発しても、それは共同性を紡ぎだすものではない。私の中ではどんなに真面目でも、社会の共同性から見ればどこまでも不真面目なのだ。私のこの不真面目さは死ぬまで変わらないのだろうか。それとも物質的に恵まれた時代を生きてきたせいなのだろうか。生死の分かれ目に直面するような体験があれば、今と少しは違ったのだろうか。分からない。