原発のことでウジウジと自問自答している間に、ここ1年ほどで政治の動きが地滑り的に悪くなった。言うまでもなく今注目を集めている大阪がその震源地だ。
遅まきながら、大阪維新の会の「家庭教育支援条例案」には確かに開いた口が塞がらなかった。わが国の伝統的子育てによって発達障害は予防、防止できるものでありという無知ぶりにはブッ飛んでしまった人が多いからこそ、抗議が殺到して白紙撤回になったのだろう。時勢に疎い私の知らないうちに、目敏くこの条例案を批判して芽のうちに摘み取ってくれた人々に感謝するしかない。
 しかし発達障害についての知見ばかりに注目した報道も多かったようだが、この条例案の本質は「伝統的子育て」の方にあるような気がする。何が「伝統的子育て」なのかは判然としないが、日の丸・君が代の強制、体罰容認とも取れる橋下徹の発言、右派との親近性から想像するに、戦後教育の結果としての負の側面ばかりを強調して、そのネガとして戦前のような教育を理想化しているのではないか。維新の会のメンバーは(少なくとも議員は)いずれも戦前の教育を実地に体験しているわけではないから、その意味では私と同じ、伝聞に基づいた知識を元にして、そのうちの何を肯定的に、何を否定的に評価するかという違いなのだろう。
 例えばモンスターペアレントは確かに問題だろう。だがモンスターペアレントが、我が子の理不尽のツケを学校とか教師とか他者に押し付けようとする、そういう自分自身理不尽な存在だとすれば、ではどうやって自分の理不尽さを気づかせていくのか。「親になるための学び」の道徳副読本か? 官製道徳の押しつけではないか。よく分からない「親守詩」実行委員会なるものも行政が音頭を取って作る以上、政治権力を持つ者の道徳観を注入する場にならないとも限らない。だって維新の会のやり方は、それまで市民の生活実情を汲み取りながら地道に関係を築いてきた行政の現場を市民生活から遮断し、一方的に上からの指令に従えということなのだから。
 人間は弱い者で、親と言えどもいつも絶対に正しい判断をしているとは限らない、これを子供に理解させるのがどうしていけないのだろうか。中学生、少なくとも高校生にもなれば、自分の親が絶対的に正しいばかりではなく、人間的な弱さも持った存在だというのは感知できる筈だ。批判は批判として、一方で親の人間的弱さをも赦すことができれば、それこそが愛情と言えるのではないか。そういう子を持てるなら、親も子を誇りに思い、愛せるのではなかろうか。ちろんそれには時間がかかるが。
 私たち夫婦には子供がいない。だからここで書いているのはまったくの想像の産物だ。子育ての経験もないくせに知ったかぶりをするなという批判は甘んじて受ける。もし自分が子の親で、子が自分の弱さや間違いを批判したとしたら、私とてそれを冷静に受け止めて子供と話し合える自信はない。逆上するかもしれない。それこそが人間の弱さでもあろう。しかしだからと言って、自分を批判する相手から目をそらさずに向き合い、批判が検討に値するものであれば、それを真摯に受け止めるという理想は理想として、どれほど実行できるかどうかはともかく、つまり目指すべき目標としては揺るがないのではないか。
 私が嫌悪感を催すのは、上司と部下の職場であれ、親と子の家族であれ、上下の序列それ自体を絶対化して、「事柄そのもの」、「問題そのもの」を見ようとしない、「職務命令だ」、「親の言うことが聞けないのか」と、議論を遮断して一方的に押し付けようとする態度だ。自分の弱さを認めようとせずに、開き直ってそれを正当化し、威圧的に押し通そうという態度だ。そういう人は自分自身にも向き合っていない、つまりは「覚悟がない」のだ。本当の勇気とは自分の弱さを認めることから出て来るのではないか。
 ところでまるで関係ない話のようだが、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の体制を共産主義国家だと考えるのは間違いで、あれは世襲独裁をしく特殊な儒教的全体主義国家だという論評をどこかで読んだ覚えがある。世襲はともかく、日本の右派がやりたいのは日本を北朝鮮のような国にしたいのだろうというのは、もうかなりの人が気づいていると思う(気づいていてほしい)。そういう国を支えているのはイデオロギー教育がばっちり浸透した忠誠心に富んだ国民というわけだ(実際の北朝鮮が本当にそうなのかどうかは知らないが)。それでもって一糸乱れぬ挙国一致体制、上の者が「頭、右!」と言えば、全員が一斉に右を向き、「遥拝!」と号令をかければ、皆深々と頭を下げる、そういう姿を美しいと思っているのではないか。そういう臣民をどうやって作り出し、維持できるかがその体制を維持するための柱になるわけだ。だから教育のあり方を右派が異常な熱心さで標的にしてきたのも頷ける。
 戦前の教育勅語というのも、儒教倫理を土台にして近代国家の国民=臣民を創出するものだったわけだから、全体主義国家の奴隷臣民を作り出すのに儒教倫理は適合的で利用価値があったのだろう。
 私は儒教的倫理をすべて否定はしないが、もしそれが上下の序列だけを絶対化して、理不尽なものにも黙って頭を下げて従えという姿勢だとしたら、それだけは認めることができない。それは身を慎み、自分を磨くという(私が理解する限りでの)儒教的倫理からも逸脱したものではないのか。徳というのは本来自分を顧みて、自分の不完全さ、弱さを認めるところから出てくるのではないか。自己批判できるだけの知恵と倫理的強さを持った人間を徳のある人として尊敬し、師と仰いできたのが東アジアの倫理観なのだろうと思う。
 ただ私の個人的見解では、そういう徳を備えた人間は全体の中のごく少数しかいない。私も含めてほとんどの人間は自分の不完全さに真摯に向き合う勇気のない弱い人間だ。だから社会システムとしては人間性弱説に立った方が間違いが少ない。つまり相互批判の仕組みと姿勢を社会の隅々にまで組み込んでおく必要がある。国家や地方自治体といった大きなまとまりだけでなく、家族というような共同体も含めて、ごく小さな日常的集団でそれを機能させてこそ意味がある。選挙というシステムがあるからいいじゃないか、一度選挙に勝てば、これが「民意」なんだから、命令に従えだと? 我々は選挙で日常的な細々した事項にまで賛意を表明した覚えはない。日の丸・君が代の強制だって、選挙前は維新の会の公約には上がっていなかったではないか。え?小さな集団で意見の相違があると「和」を乱すって? 子が親を批判するとか、そんなことをしたら家族が壊れるって? 馬鹿野郎、そんなことがあるものか。相互批判と愛情は別次元だ。そんなことで壊れるような家族は上っ面だけのもんだよ。
 父親から聞いたことがある。戦前の中学では授業中の態度が悪い(と教師が思った)生徒の手の甲に、教師が煙草の火を押し付けたりしていたそうだ。他の生徒はそれを見て騒ぐでもなく、ただ黙って頭を垂れて従順にしていたそうだ。それが「忠」であり、「臣民の道」だからだ。また長崎の造船所で軍艦建造のため動員されていた彼は、工員が上司から皮ベルトや棍棒で殴られるのをよく見たそうだ。私はそんな国には住みたくない。